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穏やかな朝の光がカーテンの隙間から差し込んで、キバナはゆっくりと目を開ける。まず目に入ったのは、自分の寝室の天井。そして横に目線を向けると、すやすやと穏やかな寝息をたてる恋人――ダンデがいた。
キバナはダンデを起こさないようにゆっくりと体をダンデの方に向けて、正面からその寝顔を見つめる。いつもならキバナよりも早く起きるダンデはまだ夢の中らしい。だいぶ疲れたのだろう。昨日の眠る前もダンデは今までに見たことがないくらいに体がだいぶ重たそうな様子だった。
(……夢、じゃ、ないんだよなぁ)
昨夜のことを思い出して、キバナはむずがゆいような恥ずかしいような、でも確実にこの上なく幸せな気持ちになる。
昨夜はついに、ダンデと最後までセックスをした。必死だったし、ちゃんと優しく出来たかは分からないけれど、ダンデは確かに気持ちよさそうだったと思うので心からほっとした。そして自分もダンデも、色々と恥ずかしいことを口走ったような記憶が、しっかりとある。色々と。うん。思い出すと顔が熱くなる。だけど、やっぱり最終的には、幸せが勝った。
「……ダンデ」
聞こえるか聞こえないかというくらい、ほんの小さな声で囁くように名前を呼ぶ。ダンデは僅かに身じろぎをしたが、しかし目は覚まさずにまた寝息を立てる。その仕草が愛しく思えてキバナはふっと口角を上げる。
ダンデが目を覚ます前に、朝食の支度を済ませて驚かせてやろう。そう思ったキバナは静かにベッドを降りて、キッチンへ向かう。その途中、棚の上に置いてある写真立てに目が止まる。その写真は、少し前にダンデとキャンプに行った時に撮った写真だった。
あの時言った通り、完全プライベート写真のためどのSNSにも一切アップはしていない。が、気に入ってしまったので、自宅のプリンターで自分用に一枚だけ印刷をして飾ることにした。それを見るたびキバナはあの時のキャンプの楽しい気持ちを思いだして、仕事が立て込んで家に寝に帰るだけのような状況の時でもほっと息を吐くことができたのだった。
寝間着から気取らないシンプルなシャツとズボンに着替えて、髪を耳の下あたりで一つに括る。簡単に顔を洗ってから、キッチンへと向かう。
オーブンで皿を熱している間に、パンを斜めに切りトマトもカットしておく。ソーセージを茹でた後、フライパンに油を引いてトマトに焼き色をつけていく。じゅう、という音を聞きながら、キバナはぼんやりと思考を巡らせる。
あのチャンピオンカップから一年以上が経って、色んなものが変わった。チャンピオンはダンデではなくなったし、ローズさんは表舞台から姿を消した。ジムリーダーたちだって何人か代替わりしていった。
そしてオレたちの関係も明確に変わった。もう、知らない頃には戻れないくらいに。
――大きく変わったこの世界の中で、オレの隣には今もダンデがいる。一年前よりもずっと近く、手を握れる距離に。
トマトの後にはソーセージとベーコンを、それが良い感じに焼けたら次は卵を割り入れて目玉焼きを作る。前にダンデが喜んでくれたキバナさま特製ブレックファストだ。目玉焼きが焼けたら皿で熱したオーブンの上に盛り付けて、最後にバターを溶かしてトーストを焼く。トーストから美味しそうな香りがしてきたところで裏に返して、反対側もよく焼けたら皿に盛り付けて完成だ。うんうん、上出来。自画自賛して、二人分の朝食をダイニングテーブルに並べる。二人の愛するポケモンたちののポケフードも皿に用意し終わった。
さていよいよ恋人を起こしに行こう。心ゆくまで寝かせてあげたい気持ちもあるが、この朝食が冷めないうちに美味しく食べて欲しいからさ。
寝室に戻ってドアを開くと、まだ眠っているものとばかり思っていたダンデがしっかり目を開けて上半身を起こした状態で伸びをしていた。「ああ、キバナ、おはよう」とダンデは少し照れくさそうに微笑む。その様子にダンデも昨夜のことを意識してくれていることが覗えて、こそばゆくて幸せな気持ちになる。
「おはよ、ダンデ。起きてたのか」
「丁度今起きたんだぜ。キッチンから美味しい匂いがしてきて。キミの方が先に起きていたんだな」
そう言うダンデに、キバナはにっと笑って得意げに言う。
「ふっふっふ、今朝もキバナさま特製ブレックファストだぜ。冷めないうちに召し上がれ」
キバナの言葉に、ダンデは「やった! 嬉しいぜ」と笑ってベッドから降りる。口調に反してその仕草は緩慢で、まだ腰が怠いのだろうことが覗えた。その様子を見て、やっぱり連休が取れる時まで待ってよかったと自分の判断を内心で褒め称える。今日はおうちで無理せずのんびり、かな。そう思いながら、キバナはダンデと一緒にばっちり朝食の支度を調えたリビングへと向かった。
二人の手持ちポケモンをボールからを広い広いリビングに出してやり、それぞれの目の前にポケフードを置いてやる。自分のポケモンたちは勿論、ダンデのポケモンの好みだってキバナは把握済みだ。それは性格が育ち方に影響する故にダンデの手持ちポケモンたちの性格を把握しているという理由は勿論、長く一緒に過ごした時間から、性格だけでは測れない細かな好みまでキバナはしっかりと把握していた。
ポケモンたちが朝食を食べ始めるのを見守ってから、自分たちも朝食を食べる。ダンデが一口食べて、流石、美味しいぜ、と笑う。
幸福な朝だな、と思った。
皿の上の朝食が半分くらいなくなったところで、ダンデが口を開く。
「キバナ」
「んー?」
「オレたちの関係、公表しないか」
ダンデの言葉に、キバナの口の動きが止まる。口の中に残っていたソーセージをようやく咀嚼して、飲み込んで、目をぱちくりと瞬かせてダンデを見た。
「……え」
「その方が色々とやりやすいだろうし」
ダンデは何でもない風に言う。ダンデの口の中に大きな目玉焼きが入ってくのをキバナはじっと見ていた。
「ダンデ、でも」
いいのか。皆までは言わない。けれどダンデだって分かっているはずだ。
ガラルの人たちは、優しい人が多い。だけど、それだけじゃない人もいる。ダンデもキバナも、メディアに追われ、人々にまなざされる身だ。一度公表すれば誰も何も知らなかった頃には戻れないし、メディアにも色々と聞かれるだろうし、時には下世話な目線も向けられるかもしれない。互いのファンにも良い方にも悪い方にも大きな衝撃を与えるだろう。だからこそ結婚する時はまだしも、ただのお付き合いという段階では公表をしない芸能人も多い。
それにガラルでは同性婚が認められるようになって久しいとて、まだ偏見を持つ人々は一定数いる。まして、ガラルに十年間君臨し続けた元チャンピオンとその座を陥落させんと長い間牙を剥き続けたライバルの恋愛。正直言って、ガラルのトップニュース間違いなしだ。しばらくはその話題で持ちきりになるだろう。
勿論ダンデの言うように、付き合っていると言った方が隠し事をするよりも色々とやりやすいこともあるだろうし、外でだって堂々と恋人としての振る舞いができる。恋人はいないのか、結婚はしないのかという周囲やメディアからの質問にも返しやすくなるだろう。
だけど色々なメリット、デメリット、考えた上で、まだ言わない方が良いだろうと付き合い始めた時に二人で決めた。それは自然な流れのようなものだった。けれどダンデは、今それを変えようと提案してきた。
「オレは、キミとの関係を公表したいと思っている」
ダンデはもう一度、今度はより強い意志を感じる言い回しでキバナに言う。キバナをまっすぐに見て、そしてにっとキバナに向けて笑いかける。
「オレのパートナーはこんなに素晴らしい男なんだって、世間に自慢したくなってしまった」
――まるで、太陽みたいに眩しくて美しい笑顔だった。
キバナの顔がかっと熱くなる。
「~~も、ほんと、さぁ」
敵わない。敵わないからこそ、何度でも追いかけて、その手を掴みたくなるのだ。
何もかも、もう戻れなくたっていい。戻らない時の中で、新しい世界の中でオレたちは、手を取って走り続けたい。どうしようもなく、キバナの人生をなにもかも変えてしまった、この男の隣で。
窓の外は快晴、キバナの家の大きな窓からは抜けるような美しい青い空が覗く。眩しい日差しが窓を通して穏やかでありふれた幸福な部屋の中へと、二人の新しい朝を祝福するかのように優しく降り注いでいた。