宝石の夜に指先を絡めて
バルコニーに出ると、ひんやりとした秋の風が頬を撫でて少しかさついた心をゆるやかに宥めてくれる心地がした。戸を閉めるとパーティ会場のざわつきも少し遠くなる。ダンデは小さく息を吐きながらバルコニーの柵に凭れた。やはり外の空気は落ち着くな。
見上げた雲一つない漆黒の夜空には星が幾つか瞬いている。遠くに飛んでいる影はポケモンだろうか。あの方向だと、ワイルドエリアだろう。ワイルドエリアか。そう思うとつい今からでも飛んでいってしまいたくなるけれど、しかし今は我慢だ。流石にパーティのホストがワイルドエリアに行きたいからと急に飛び去ってしまうわけにはいかない、と、ダンデはこのままリザードンに乗ってワイルドエリアに飛んでいく自分を想像して苦笑した。バトルタワーでも着用している赤の燕尾服の裾が夜風に吹かれて小さく揺れる。
今日はリーグ委員会主催のパーティだ。今年のジムチャレンジの成功祝いと、日頃の支援の感謝を込めスポンサーや各所の関係者を招き、ロンド・ロゼの一番大きなパーティ会場を借りた盛大なものだった。
一通りの挨拶回りも済ませた後はしばらく方々で声をかけられるままに談笑していたのだが、ダンデのもとに訪れる人が途切れたタイミングで何だか少し疲れが出てしまったようだ。
リーグ委員長兼バトルタワーオーナーに就任してしばらく。チャンピオン時代も勿論出席してはいたが、こういったパーティにホストとして出席する機会も多くなった。チャンピオン時代はなんだかんだ言ってホストとしての事務的な部分からパーティ当日の対外的な部分――大人同士の付き合いや駆け引きなども含め――などに関してはローズさんやオリーヴさんが影でしっかりと気を回してくれていたのだが、今はそうもいかない。ダンデがここの責任者なのだ。この立場に就任して改めて思う。ローズさんやオリーヴさんたちの手腕の凄さや、自分がこれまでいかに守られていたのかということ。
かつてヨロイ島で修行をしていた頃、マスタード師匠になぜ表舞台から去ったのか聞いたことがある。当時のダンデにとってとにかくポケモンとポケモンバトルはひたすらに楽しくて仕方がないものであったし、純粋に気になったから聞いてみただけなのだが、その疑問をぶつけられたマスタード師匠が珍しく困ったような顔をしていたことを思い出す。その理由を知ったのは、ダンデ自身がチャンピオンになって数年後、たまたま一人で出かけていた時に自分自身もその誘いを受けたからだった。ポケモンバトルはただただ楽しいもので、みんなもそれを楽しんでくれているものだとばかり思っていたから、それに自分自身の利のためだけに介入しようとする人々がいることにダンデはそれまで思い至ったことがなかったのだ。
ダンデはグラスの半分ほどにまで減ったワインを傾ける。このワインはカロス地方に本社を置くスポンサーのもので、ガラルでもとても評判のワインメーカーだ。口の中に広がる柔らかな甘みに、ダンデの表情は少し綻ぶ。
――恐らく、マスタード師匠の当時よりは大分よくなってはいるんだろう。オリーヴさんにそれとなく聞いたらそういった輩は目に付き次第リーグ委員会に近付けないように対処したそうだし、現に今ダンデと接しているスポンサーや関係者も本当にいい人達がほとんどだ。しかし、まあ、今でも色々な目論見を持ってリーグ委員会に近付く人々もゼロではない。ローズさんやオリーヴさんが表舞台から姿を消したことで、もしかしたら今はガードが薄いと思われてもいるのかもしれない。だから、いい人そうな顔をして近付いてきてはダンデに裏の透けた提案を持ちかけてくる。しかしチャンピオンになったばかりの頃ならいざ知らず、今のダンデはそこまで鈍感ではない。それにこの地位に就くにあたってローズさんとオリーヴさんに挨拶をした際にも、そういった人間には気を付けろと言われていた。ローズさんはダンデとガラルのためを思って、オリーヴさんはローズさんがここまで発展させたリーグ委員会を思って。ダンデもそれはしっかりと肝に銘じている。だからこそそう言った気配を察知したらうまく躱すようにはしているし、今のところそれは成功しているとは思う。
(しかし、どうしたって、疲れるものだな)
そういった思惑を向けられることもそうだし、それだけじゃなくそもそもこういった華やかで堅苦しい場はダンデは元来あまり得意ではない。今日のパーティの参加者もほとんどの人はいい人たちだとはいえ、こんなにも沢山の人たちにリーグ委員会の代表として挨拶に回るのは、流石に肩が凝る話だった。それだってチャンピオン時代は、ダンデはチャンピオンとして振る舞っていればよくて、そういった大人の話はローズさんやオリーヴさんたちがしてくれていたのだ。
不意にバルコニーの戸が開く音がする。振り返ると、そこにいたのは見慣れた長身の男だった。人の好さそうな穏やかな笑みを浮かべながら、キバナはバルコニーに出てくる。戸が開いたことで直接届くようになったパーティ会場のざわつきが、キバナが閉めたガラス戸に阻まれてまた遠いものになる。
キバナはゆっくりと長い足で歩を進めてダンデの隣に立って、ダンデと同じように肘をバルコニーの柵について身体を凭れさせる。
「よお、委員長様」
「キバナ」
優しく垂れた目がダンデをまっすぐに捉える。キバナは普段のラフなパーカー姿とは全く印象の異なるグレーの仕立ての良いスーツに身を包み、いつも頭の上の方で何本かに束ねた特徴的な黒髪は今日は耳の後ろでシンプルに一つに括られている。こういったフォーマルな格好をすると、キバナの端正なルックスがより際立つなとダンデはつい感心してしまった。
「休憩か?」
「ああ。まだ少し慣れないな、こういうのは。流石に少し疲れてしまったらしい」
「そっか。……無理すんなよー、昔なんか人多いと人酔いしてたろ」
何気ない様子でそう言ったキバナは、手に持ったワイングラスを傾ける。ダンデはキバナの言葉に瞠目した。――覚えていたのか。
ダンデがチャンピオンになって間もない頃。こういったパーティに参加する機会があり、慣れ親しんだのどかなハロンタウンとは全く違うきらびやかな世界と沢山の大人たちに驚いて、人に酔ってしまったようで少し疲れてしまったことがあった。外の空気を吸いたくてバルコニーに出た時、今日みたいにさりげなくダンデの側に来てくれたのが、その時ナックルジムの次期ジムリーダー就任が決まっていたキバナだった。
遊びに行きたい、自然のあるところで、ポケモンたちと遊びたい。我ながら聞き分けの良い子どもだったとは思うが、慣れない環境の疲れから珍しくそう子どもの我儘のように――ように、というか本当に子どもだったのだが――零したダンデに、キバナは楽しそうにいたずらっぽく笑って「いいね」と頷いた。二人でパーティ会場に戻ってローズさんにお願いしたところ、まあまだダンデくんは慣れていないですからね、とキリのいいところでパーティから抜け出す許可を貰った。
そして頃合いを見てパーティ会場を出るやいなや、それぞれリザードンとフライゴンに飛び乗ってそのままワイルドエリアに繰り出した。何だか少しだけ悪いことをしているような、でもわくわくして仕方がないような、不思議な高揚感に包まれる。キバナと二人で夜の空を飛びながら、すう、と大きく息を吸った。久しぶりに、身体の芯まで酸素が行き届いた気がした。
「……ありがとう、キバナ。無理はしてないぜ」
「ならよかった。まあ、もう皆好きに集まって喋ってるし、時間的にももうぼちぼちお開きだろ」
ゆるゆるとした空気が流れ始めたパーティ会場をちらりと見やった後、キバナが普段はしていない腕時計に目を落とす。パーティ会場の華やかな光をキバナの腕時計が反射して眩く光る。そしてキバナは顔を上げて、さりげなくダンデとの距離を詰める。
「……ところで、ダンデ。この後のご予定は?」
ダンデの耳に唇を寄せてキバナが囁く。ちらり、と見せた手の中にはロンド・ロゼのスイートルームのキーが握られていた。このままナックルに帰るのは手間だから今日は泊まる、と話していたし実際リーグ委員会でホテルの予約・経費精算を行うためダンデ自身もキバナが今日ここに宿泊することは把握していたのだが。
今、キバナがこのキーをダンデに見せる意味は、もう一つしか無い。
――ダンデとて、そこまで鈍感ではないのだ。
かつて、ダンデがチャンピオンに就任して間もない子どもだった頃。パーティの途中で、腰を抱きながら会場をそっと抜け出していく男女を見た。その濃密な雰囲気と意味ありげな距離感に、なぜだろう、と当時は意味があまり分からなかったものだが。
ダンデはまっすぐに向けられた美しいターコイズの瞳を見つめ返しながら言う。
「……空いているが?」
口元にゆるく笑みを浮かべると、キバナは満足そうに笑う。
「……っふふ、昔はパーティ抜け出してもほんとにただ遊ぶだけだったんだけどな。オレさまも悪い大人になっちまったなぁ」
そうやって軽やかに笑いながら、キバナはダンデを穏やかに見つめる。しかしその穏やかな瞳の奥に、僅かに欲の炎が灯されたことにダンデは気が付いていた。窓の内側にバレないように、お互いのシルエットに隠れる場所でその指を絡める。キバナはわずかに見開いた目を、柔らかく細めた。
「キミは何も悪い大人じゃないと思うぜ?」
キミが悪い大人だというのなら、オレだって共犯だ。そう言ったらキバナはどんな表情をするだろう。驚くだろうか。困ったように笑うだろうか。それとも赤くなるだろうか。
昔からずっと変わらない。その空のように優しい瞳がダンデをいちばんに見つめること。ダンデをひとりにしなかったこと。そこに灯る熱の色は変わっても、本質のところは変わらない。
――だからオレは、昔も今も、ずっとキミが側にいてくれることが嬉しくて、キミのことが愛おしくてたまらないんだ。