拝啓、世界一幸福な朝より



 カーテンの隙間から差し込む光が朝が来たことを穏やかに教えてくれる。ゆっくりと意識が浮上して、キバナは何度か目を瞬かせた。部屋の中はもう明るくて、思ったよりも寝過ぎてしまったかもしれない。しかし、今日は休日なのだからたまにはいいだろう。それに、こんな日くらいは、たっぷり朝寝坊をしたってきっと神様は許してくれる。
 目線を横に移すと、まだ寝息を立てている男の姿。その無防備な表情は、バトルコートの上での王者たる風格ともリーグ委員長としての冷静な横顔とも違う。驚くくらいに幼くあどけない寝顔は、男っぽく整えられた髭とは笑えるくらいアンバランスで、キバナはつい口角を上げてしまう。
 そしてその左手の薬指が、朝の光を浴びて淡く光るのを見て、キバナはたまらない気持ちになってその指に触れる。指先を絡めて手を握ると、ダンデの瞼が僅かに動いた。そしてゆっくりと目を開けて、キバナの方を見る。まだ少しぼんやりとした美しいアンバーの瞳が、キバナだけをまっすぐに映す。それにすら見惚れてしまって自分で自分に苦笑した。でも、そんなことどうだっていいくらいに幸福だ、と思う。
「ごめん、起こしちゃった?」
「んー、大丈夫だぜ。おはよう、キバナ」
 ダンデはそう言って目を細めてキバナを見る。その表情が愛おしく思えて、吸い寄せられるようにその額に唇を落とすと、ダンデはくすぐったそうに笑った。
「うわ、もうだいぶ明るいな」
 段々と目が覚めてきたらしいダンデがそう呟く。いつも時間が勿体ないからと早起きをしてトレーニングやらバトルの研究やらをしているダンデにとっては、この時間はだいぶ朝寝坊だろう。目が覚めてから時計は確認していないから今が何時なのかは正確には分からないけれど。
「だな-。ま、昨日の夜頑張っちゃったからなぁ」
 そう含みを持たせて言うと、ダンデも苦笑する。否定はしない。まあ、ねえ。それはもうお互い様というやつだ。
「たまには寝坊してもいいんじゃないか? ほら、こんな日くらいはさ」
 キバナの言葉に、ダンデは一瞬考えるような表情をした後キバナを見つめて「……ああ、そうだな」と柔らかく笑った。
(……たまには何も気にせずに、のんびり休むことを許容できることになったのは、ものすごい成長だよなぁ)
 そう思うと感慨深くて嬉しくて、言葉に出来ないあたたかい感情がこみ上げてしまった。
 繋いだダンデの左手の薬指、シンプルなシルバーのリングが柔らかく輝いている。――昨日、役所に婚姻届を提出し、キバナとダンデは正式に結婚をした。

 キバナがダンデという存在を知った頃からずっと、ダンデは走り続けていた。
 チャンピオンだった頃は、ガラルの希望のように、みんなを導くみたいにただただ強くまっすぐに。チャンピオンの座を降りた後、さすがに少しは休むのかと思えば「ガラルのトレーナーみんなで強くなりたいんだ」と昔から掲げ続けていた夢を新しい形で叶えるべくあっという間にバトルタワーを開業、表舞台から去ったローズ元委員長の後を継ぐ形でリーグ委員長にまで就任してしまった。
 どこまでも立ち止まらない、いつだって前を向いて、ガラル中を忙しなく飛び回って、自由に駆けていく男だ。誰にだって止められやしないし、ダンデ自身もどこかに腰を落ち着けようなんて思っても見なかっただろう。きっとそれはこの男の性分で一生そういう風に生きる人間なのだろうし、そしてそうやって生きるダンデだからこそキバナは惹かれ、いつの頃からかどうしようもなく焦がれてしまったのだ。
 愛するポケモンとバトルとガラルを映して美しくきらめく瞳と、好奇心に導かれるままになんだってつかみ取ろうとするその腕と、どこへだって最愛の相棒と共に自由に駆けていくその足と。
 何者にも縛られやしない、自由で気高く美しい男を愛していた。
 けれど。
 キバナは絡めた指を引き寄せて、ダンデの左手の薬指、指輪を付けたその付け根の部分に触れるだけのキスを落とす。
 ――そんな男をつなぎとめる唯一、自由に羽ばたく男のこの左手の薬指だけは、オレにくれたということ。その事実に何度だってたまらない気持ちになって、嬉しくて、幸福で、たまらない。
 自由に生きるダンデを愛している。しかし同時に、この男を繋ぎ止める唯一で在りたい。穏やかな愛と、凶暴なエゴは、相反するようでキバナの中に共存する。
 そしてそれはきっとダンデにとってのキバナも同じなのだろう。

「キバナ。顔、ものすごく緩んでるぜ」
 くすぐったそうに笑ったダンデは、しかし人のことを言えないくらいに楽しそうに緩んだ表情をしている。
「んー? 幸せだなぁ、って思って」
 そう笑うと、ダンデはひとつ瞬きをした後「そうだな」と太陽みたいに笑うものだから。沸き上がった幸福のまま、キバナはダンデの唇に自分の唇を重ねる。
 繋いだ手のひらが柔らかく握り返されて、絡んだ指の間にあるまだ慣れない固い指輪の感触に、きっと世界一幸福な朝っていうのはこういうことを言うんだろうと思ったのだ。




(2020年9月28日初出)



close
横書き 縦書き