PM4:00のフォール・ダウン



 カタン、と音がした気がして、それをきっかけにゆっくりと意識が浮上する。目を開けると、部屋の中は穏やかな日差しに包まれている。目の前にあったのは寝室の天井ではなくテレビとローテーブルの上にあった本たちで、今ここがリビングであることを思い出させた。
(……寝てしまっていたのか)
 ダンデはまだ頭がぼんやりとしたまま、何度か瞬きをする。と、先程音のした方から今度は声が飛んできた。
「あ、起きた? おはよう、ダンデ」
 振り返ると、プライベート用のラフなシャツを着たキバナがたっぷり洗濯物の入った洗濯かごを手に微笑んでいた。その柔らかな表情につられる形で、ダンデも「あぁ、おはよう、キバナ」と微笑み返す。
 ベランダに繋がる戸が開いたままで、キバナはベランダから戻ってきたところのようだった。その後ろからはバリコオルが小さな洗濯かごを持ってついてきている。キバナとバリコオルで一緒に洗濯物を取り込んでいたのだろうか。
(――、洗濯物?)
 はっと頭が覚醒する。確か、昼食を食べた後にキバナが急ぎの仕事の電話があるということでリビングを出て行って、それが終わるのを待つ間にキバナから借りたドラゴンタイプのポケモンについての研究書を読み進めていたのだが――この穏やかな日差しと暖かい室内の温度が心地よく、それらに誘われるままうっかりリビングのソファで眠ってしまったらしい。気付かないうちに膝掛けまでかけられていて、寝る前は膝掛けをかけていた記憶などないから、確実にキバナがかけてくれたのだろう。どこまでも気配りのできる男だ、とこんな時までつい感心してしまった。「さっきは途中で電話入って悪かったな」なんて言うキバナに、ダンデは慌てて問いかける。
「キバナ、今何時だ!?」
「んー? えーと、四時過ぎだな」
 室内の壁掛け時計を確認したキバナがそう口にする。その答えを聞いて、ダンデは頭を抱えてしまった。
「……映画、もう始まってるじゃないか」
「うん、そうだなぁ」
 今日は久しぶりの二人揃っての一日オフ。前夜からキバナがダンデの家に泊まって、午前中はのんびりと過ごしてから、シュートシティの映画館で午後三時半からキバナが観たかった映画の上映があるということでそれを二人で見に行くという予定を立てていた。……はずだったのだが。
「うん、そうだなぁ、って……どうして起こしてくれなかったんだ!? こういう時は遠慮なく起こしてくれ。……、キバナが観たいと言っていたのに、本当に申し訳ない」
 ダンデは自己嫌悪と申し訳なさでいっぱいになっているというのに、当のキバナはニコニコと何故か嬉しそうだ。それが本気で意味が分からなくて混乱する。キバナはバリコオルに洗濯物を寝室に運んでもらうように指示して、ダンデが座っているソファの空いたスペースに腰を下ろす。
「いや、起こさないぜ。すごく気持ちよさそうに寝てたからさ、ダンデ」
「だからって、」
「映画は後からでも観られるだろ。まだしばらくは上映してるみたいだし。それよりも――ダンデがこうして休日にのんびり昼寝してるって方が、俺はずっと感慨深いし嬉しい」
「……、意味が分からないぜ」
 キバナとの予定を自分の昼寝で無にしてしまった申し訳なさと同時に、休日昼間に何をするでもなく昼寝をしてしまった罪悪感も大きい。だからこそ、キバナの『感慨深いし嬉しい』という言葉の意味するところが分からない。
「だってオマエ、チャンピオン時代から今までこうして休日をだらだら無為に過ごすってほとんどなかっただろ?」
「……ああ」
 そう問われれば、答えはイエスだ。今まで休日もあったようなないような日々で、何も仕事が無い日でもポケモンやバトルの研究に忙しくて、こんな風にただただゆっくりと過ごす休日なんて記憶を辿ってもなかなか見つからない。
「それで、今昼寝してしまった罪悪感に襲われてるだろ」
「……ああ」
 これも図星だ。言い当てられてなんだかばつの悪い気持ちになって眉根を寄せる。対してキバナはやっぱり楽しそうに笑っていた。
「そういうありふれた、呆れるくらいだらけた、人間らしい休日をダンデが過ごしてるのが嬉しいんだよ、オレさま」
 ――約束を反故にしても、休日に惰眠を貪っても、喜んでくれるキバナはなんなのだろうか。しかしそんな嬉しそうな表情で言われると、こちらもこのありふれただらけた、無為な休日を愛しく思えてしまいそうになってダメだ。顔に熱が集まるのが分かって、この顔の熱さがキバナに気付かれていないか心配になる。
 キバナの告白から始まって、キバナと恋人として付き合うようになってからしばらく。分かったことは、キバナはとにかくダンデを甘やかしたがるということだった。バトルの時はあんなにも苛烈に本気でダンデを食らって勝利をもぎ取る気で今だって挑んでくるというのに、プライベートの時間となると驚くくらいに、こちらが恥ずかしくなるくらいにダンデをとにかく甘やかそうとするきらいがあった。
「……キバナは、オレを甘やかしすぎじゃないか? ……、ダメに、なりそうで困る」
「おーおー、ダメになっちまえ。オフの時くらい、そうなってみるのもいいと思うぜ」
 そう言ってキバナは悪戯っぽく笑う。
「ダンデ、放っておくと常に200%くらいの出力で生きるだろ。それをやめろとは言わないが、完全オフの時くらいは自分を甘やかしとけ。自分で自分を甘やかせないならオレさまが甘やかす」
「……、本当に、オマエというやつは」
 今この瞬間のダンデは、心地よい重みを伝えてくれるマントも、風に靡く深紅のオーナー服も身につけていないラフなTシャツにパンツを纏っただけの、ただのダンデだ。そんなただのダンデくらいは、普段の荷を全部下ろして人間らしくダメになってみろと言う。そうできなければ、自分がそうさせる、とも。
 二の句が継げないダンデを柔らかなターコイズの瞳が至近距離で見つめる。そしてそれが近付いてきたと思ったら、唇を重ねられた。触れただけで離れた唇は、今度は額、頬、とダンデに柔らかく触れていく。
 ――ああ、溺れてしまいそうだ。自分を律していた理性の糸がゆるゆると解けて、その糸をキバナに渡してしまいそうになる。それをどうにか踏みとどまろうとする自分と、このまま渡して委ねてしまえと言う自分がいる。キバナの唇が触れて、キバナの大きな手のひらがダンデの手のひらを包んで、その温度がダンデに流れてくる。天秤は後者の方へとぐらりと揺れた。
(自分を変えるのは、正直簡単なことじゃない。けれど、――己を手渡すのが、他でもないキバナであるなら)
 ゆっくりと、恐る恐るキバナの腰に手を回すと、触れたキバナの唇の端が小さく上がった気がした。ベランダの外が夕暮れの色を灯して、部屋の中をゆっくりと橙に染めていくのを、ダンデは視界の端で見て取ったのだった。




(2020年10月3日初出)



kbdnワンドロ10 お題『休日または日常・休息』



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