3.
昨夜ナックルシティを通り過ぎた大雨も朝にはすっかりと上がって、美しい青空が広がっていた。道端に残っている水たまりを器用に避けながら、雨の後の木々のにおいを感じながら、キバナはいつものようにナックルジムまでの道のりを歩く。パーカーを着ていても少し肌寒く、この雨を境に季節はどんどん冬へと向かっていくでしょうと昨日見たテレビで言っていた天気予報士を思い出す。年々、日々が過ぎるのがあっという間になっているように思える――これじゃ、ホップの成長を親みたいにしみじみと嬉しがるダンデを笑っちゃられないななんてことを思った。
今日も気さくに挨拶をくれるナックル市民たちと挨拶を交わしながら、途中で馴染みのパン屋に寄るのも忘れない。いつものサンドイッチとアイスティーを購入して店を出ると、いつかのあの時のように斜め前の商店の店頭に並べられた雑誌と新聞に目が留まる。雑誌の表紙は、もう最近では「新チャンピオン」ではなく「チャンピオン」と呼び名が変わってきたユウリが再び飾っていた。その表情に相変わらず初々しさはありつつも、しかし前よりはずっと自然に笑っていた。そしてその横に置いてある新聞の一面は昨日のエキシビジョンの記事のようだった。そこには、昨日勝利を飾ったキバナとジュラルドンの写真が大きく掲載されている。それにキバナは小さく口角を上げた後、また歩き始める。パン屋の紙袋の中で、「昨日の試合見てましたよ、おめでとうございます」と今日も店主がオマケしてくれたスコーンの小袋がキバナの歩調に合わせて揺れた。
チャンピオンが交代して、もうじき一年になる。
見上げたナックルスタジアムも、すっかりブラックナイトで破損した箇所の修繕は終わって綺麗なものだ。赤と白の端が風に吹かれて青空の下ではためいている。
新しい日常が、少しずつキバナにも馴染み始めていた。
もうすぐジムに到着するというところで、スマホロトムが着信を知らせた。こんな朝から誰だろうと思えば、画面に映し出されていた名前を見て驚きと納得が半々になる。通話ボタンをタップすれば、朝だろうが変わらず快活な声が耳に届いた。
『おはよう、キバナ! 朝早くからすまない』
「おはよ、ダンデ。どうかしたか?」
そう聞くと、ダンデは言う。
『今日どこかで時間がとれないか? キミに話しておきたいことがあるんだ』
相変わらずいきなりなヤツだな――そうは思いながらも、頭の中で今日のスケジュールを思い浮かべてどこか時間を空けられないかなんてすぐに考え出す自分がいることにキバナは苦笑していた。
「――『ガラルスタートーナメント』?」
今日の仕事を前倒しで片付け、早めに上がらせて貰ってシュートシティのバトルタワーに足を運んだ。ダンデの執務室、デスク側の壁は大きなガラス張りになっており、夕焼けに染まるシュートシティが一望できる。タワースタッフがキバナを見るなりスムーズに通された執務室、出された紅茶にキバナが手を付けるよりも早くダンデが話し出したのは、その聞き慣れないトーナメントの名前だった。
キバナがオウム返しのように言うと、そうだ、新しいトーナメントをやりたいんだ、とキラキラとした目をしてダンデは勢い込んで話す。どうやら、これまでリーグ主催のトーナメントは一対一のシングルバトルのみだったが、今回ダンデが企画したのはタッグバトルで競うトーナメントだという。ソファに浅く腰掛けたダンデは、今にも立ち上がるんじゃないかというくらいに前のめりな様子だった。よっぽど新しいトーナメントにワクワクしていると見える。しかしキバナ自身も、新しいトーナメントと聞いてワクワクした気持ちが既にふつふつと沸き上がっているのを感じていた。結局のところ、自分もダンデも、ポケモンバトルがとにかく大好きなのだ。
「今日程を調整中だが、もう近日中にはできると思うぜ。他のジムリーダーにはまた当日詳しく説明をするつもりなんだが」
「へえ」
頷きながら、キバナはその言葉に引っかかりを覚える。他のジムリーダーには当日にでも説明するつもりだというならば――詳細は当日に話せばいいと思っている時点で相変わらずのダンデっぷりだと思うが――、じゃあ何でキバナにだけ先に呼び出しをかけてこうして話をしたのだろうか。ガラルトップジムリーダーとして運営に協力して欲しいということなのだろうか、なんて考えていると、ダンデは続けた。
「……ホップとユウリを見ていて思ったんだ。お互いに並び立って、高め合うことで辿り着ける強さがあるということ――一人では辿り着けない強さがあるんじゃないかって」
チャンピオンを降りた時からずっと考えていたんだ。そう言うダンデの表情は、やっぱりどこまでも晴れやかだった。
「結局強さとは自分との戦いだと思っていた。沢山の戦いから学んだ上で自分と向き合って、自分に打ち勝っていくことで強さを得てきたつもりだった」
ダンデはそう小さく微笑みさえ湛えながら続ける。過去を懐かしむように、ダンデは僅かに目を伏せた。その言葉に、久しぶりにきしりとキバナの胸が僅かに音を立てた。――自分は一人で走るダンデをただただ追いかけていたというだけなのかもしれない、と思った時のことを思い出したのだ。
「それで、だ」
そんなキバナの内心を知らずか、ダンデは続ける。そこまで言って、ダンデは一度言葉を切ってキバナをまっすぐに見据えた。ばちん、と目が合う。夕日に照らされたアンバーがキバナを映す。その瞳が美しくて、まるでとらわれてしまったかのように目が離せなくなった。
「記念すべき初回トーナメント、オレと組んで欲しい、キバナ」
しっかりと、キバナ一人に届けるための意思を持った、明朗な口調でダンデは言う。その言葉がキバナの鼓膜を揺らして、脳に言葉が届く。
――ダンデと、タッグバトル。今まで考えもしなかったことだった。トレーナーとして、ライバルとして相対する時は何よりもダンデを倒したいと、ダンデの正面に居られる存在でありたいと、そればかり考えてきたからだ。そういうものだと思って、ずっと戦ってきたのだ。
一人では辿り着けない強さがあると知った。並び立って高め合うことで辿り着ける強さがあると知った。そう言ったダンデが、その隣に立つ人間にキバナを指名した。わざわざ事前に呼び出してまで。
咄嗟に言葉が出てこずキバナが何も返せずにいる間に、ダンデは言葉を続ける。
「本当は当日説明の後に各自ペアを組んで貰うつもりなんだが、委員長特権で先に指名させて貰った。……これは流石に、職権乱用だな」
そう言ってダンデはくつくつと笑う。ダンデは新しいおもちゃを買ってもらった子どものように楽しそうな表情をしていた。職権乱用だな、なんて言うけれども、ダンデが目的の為ならムチャクチャしてでも突っ走るのにキバナはもう慣れている。真っ直ぐで、強欲で、とにかくポケモンバトルが大好きで、そのためであればどこまでだって突っ走っていってしまう。ずっと変わらない、それがダンデという男なのだ。
「……それでも、最初にペアを組むのはキミ以外考えられなかった。これまでずっと真正面から向かい合うことでお互いに強さを磨いてきたけれど、ずっと一緒に走ってきたキミと、今度は隣で戦いたい。ホップとユウリのように、隣同士で強くなるなら、オレにはキバナしかいないと思ったんだ」
そこまで言った後、ダンデは勢い込んで続ける。
「キミとは勿論今も真正面でも戦いたいぜ! 時間が許すなら何度だって! だけど、その上で、隣同士でも戦ってみたい」
――ダンデとキバナは、共に在るようで、ずっと一人同士だった。
ダンデはチャンピオンとしてダンデ自身にしか見えない景色を見ていたし、キバナもそれを理解して深入りすることはしようとしなかった。残念ながら自分にはわかり得ないものだと、そういうものだと思っていた。ダンデ自身の性質もそういうものだと思っていたのだ。――けれど、その慢心と諦念があのブラックナイトを引き起こしたのだとも今にしてみれば思う。
共に在るということ。一人と一人ではなく、二人で力を合わせ、高め合い、同じ景色の中で強くなっていくということ。そしてその相手を考えた時に、ダンデはキバナしかいないと思ったということ。
「――ダメか?」
キバナの方に手を差し出して、キバナをまっすぐに見つめてそう言ったダンデが、不思議なことにあの日のダンデに重なった。
――そんなの、答えはひとつに決まっている。
キバナは差し出されたその手をとって、ぎゅっと強く握る。その強さにダンデは少しだけ目を丸くして驚いたような表情になった。厚く、そしてごつごつとした男っぽいその手のひらから伝わる血の通ったダンデの体温に、どうしようもなくキバナの気持ちは昂ぶる。こんなにも長い付き合いだっていうのに、まるで初めてダンデの心に本当に触れられたような、そんな気さえしたのだ。
「当たり前だ。オレだってその席を他に譲るつもりはないぜ」
そう宣言するように言い切ると、ダンデは花が咲いたように嬉しそうに笑った。嬉しくて、今からわくわくしてたまらないというような顔に、自分でも笑えてしまうくらいに心が揺さぶられてやまない。どこにこんなにもお行儀良く隠れていたんだというくらいに、大きな感情がキバナの中で膨らんで、溢れ出す。
オレは、やっぱり、どうしたって。
「ダンデ、好きだ」
もうずっと前、一度だけ伝えたその言葉を、もう伝えることはないと思っていたその言葉をダンデに向かって口にする。心の内側から自然と零れ落ちたような、しかし明確な意思を持って、キバナはダンデにそう言った。あの時は言った直後に後悔したけれど、今は後悔はなかった。この感情を、ダンデも知れば良いとさえ思った。
「もう言わないつもりだった。諦めたつもりだった。でもダメだ、そんなこと言われたら、もう諦めたくなんてなくなった」
キバナはそう言って小さく苦笑した。呆れるほどに、結局ずっと、この感情を抱えたままだ。けれどそれでよかった。それがよかった。心からそう思ってしまうのだ。
「ダメだな、もう、オレはダンデのことになにひとつ諦められやしない」
宣戦布告のつもりでそう言うと、じわりと頬を赤く染めたダンデがふっと笑う。キバナがまっすぐに見据えた目を、ダンデは逸らさない。その瞳の真ん中に、キバナの姿が映っているのが分かる。
「キミが諦めないでいてくれたから、オレがいるんだ」
この頬の赤さは窓から差し込む夕日のせいだけではないと、そう思うのはきっとキバナの勘違いなどではない。今もまだ繋いだままの手をキバナは離さないつもりで、痛くない程度にぐっと力を込める。するとダンデもその手の力を僅かに強めた。
「――少し、考えさせてくれないか。……やっぱり、正直なところオレはまだ恋愛のことはよく分からない。だけど、心底嬉しいことには間違いないんだ」
そう言って恥ずかしそうに――しかし嬉しそうに頬を染めてはにかむダンデが、夕日に照らされてやっぱりどうしようもなく美しく思えた。細められたアンバーの瞳、星がきらりと輝くようで、あのねがいぼしの光を思い出したのだった。?