いとしくてうつくしいせかいで
ゆっくりと意識が浮上して、瞼を上げる。視界は薄暗く、太陽が昇る前の時間のようだった。天井はダンデの家のものではなく、まだぼんやりとしている思考の中、昨夜のことを思い返す。ここはキバナの寝室だ。昨日は奇跡的にお互いに仕事が早く終わって、キバナの家で落ち合って一緒に夕食を食べて、それで――。
(……喉が渇いた)
軽くひりついた喉と気怠い腰は数時間前までの行為を思わせる。このままもう少し、朝がくるまでふかふかのベッドに身を委ねたい気持ちもあったけれど、一度気付いてしまうと渇いた喉が気になった。
少し水を貰おう、とダンデはキバナを起こさないように気を遣いながら上体を起こす。申し訳程度にパンツだけを履いた格好でベッドを降りようとする――と、不意に、ぱしりと腕を掴まれた。
「……キバナ?」
ダンデが驚いて振り返ると、それ以上に自分で自分の行動に驚いたように見開かれているターコイズブルーの瞳があった。ダンデと同じようにパンツだけを身につけて横で眠っていたはずのキバナの、ダンデよりも少し大きな褐色の手のひらがダンデの腕を掴んでいる。
起きていた、いや起こしてしまったのかとか、どうしたのかとか、色々と思うことはあるけれど。
「……悪い、ダンデ、何でも――」
言いかけたキバナの言葉を、遮るようにダンデは言う。
「何でもないことはないだろう」
――そんな顔をして。
慌てたように離されかけた腕を今度はこっちから掴んで、背けられようとする目をじっと見据える。
キバナはまるで、迷子になった子どものような顔をしている。いつも穏やかで飄々としていて、努力に裏打ちされた自信を纏っている彼が。普段、迷子になったオレを何度でも見つけてくれるのはキバナの方なのにな。いや、今はそんなことはどうだっていい。
こんな顔をした彼を放っておけるほど、オレにとって彼の存在は軽くなどないのだ。
逃がしてはもらえないと察したキバナはダンデを見つめ返す。しかしその瞳はまだ先程の自身の行動への動揺からか、僅かに心許なさを纏って揺れていた。お互いに見つめ合って、物音ひとつしない静寂の中、数秒の時が流れる。数時間前のお互いにお互いを優しく求め合うような甘やかなものとも、バトルのコートの上で相対する時の苛烈でひりついた炎を宿すようなものとも違う。お互いの動きひとつで何かの均衡が崩れ去ってしまうだろうと思えるほどぴんと張り詰めた糸のように、繊細で薄い氷上に立つような、そんな緊張感を纏っている。
キバナがこんな顔をすることについての心当たりはあった。
少し前から気が付いてはいたが、いつもあまりにも一瞬で見間違いだったんじゃないかとさえ思うようなその顔。そしてダンデが何か言うよりも前にキバナは器用にいつもの飄々とした表情に戻ってしまうから、今まで何となくもやもやと思うことがあっても言ってこなかった。キバナの心を傷つけたり下手に波立てたりしたいわけではないから、彼が思うところがあって隠そうとするのならばこちらも少し様子を見ておこうと思っていたのだ。
けれど、今回ばかりは見逃してやれそうになかった。あんな表情を、この距離で、真正面から見てしまっては。
掴んだ腕に少し力が入ってしまう。しかしキバナは逃げようとする素振りはなく、じっとダンデの動向を注視している。ダンデは少しばかり慎重に言葉を探しながら、ゆっくりとまるで子どもに言い聞かせるみたいに続きを口にする。
「少し前から思っていたが、君は時々そんな顔をする。決まってオレがいなくなった時、いなくなろうとする時だ。――オレがムゲンダイナと戦って意識を失った後からだ、キバナ」
そう言うと、キバナがハッとしたように目を見開く。キバナの口が何か言おうと動いて、しかし言葉を探すようにまごついた。その後、キバナは二人の間にぴんと張られた緊張の糸を解くように長く小さく息を吐いて目を僅かに伏せる。太陽がまだ顔を出そうとしないこの暗い部屋の中は、まるで世界に二人だけみたいで静寂がきんと肌に染み渡るようだった。
「……気付いてたのかよ」
静かな声だった。その声だけが、この二人きりの世界でダンデの鼓膜を揺らす。ダンデは意識的に大きく息を吸ってから、それを吐き出すようにしながら言葉を紡ぐ。
「オレが何年君のライバルをやっていると思っているんだ? バトルの時、君の一挙手一投足を全神経を張り巡らせて感じ取ってきた」
キバナはダンデを見る。ダンデはキバナの様子をじっと見つめながら、言葉を続けた。
「それに、恋人としても、オレはキミとそれなりの時間を過ごしてきたつもりだぜ」
「……」
少しの沈黙の後、そうだな、とキバナは呟くように言う。その声にはほんの少しだけ、先程よりも柔らかな色が滲み出していた気がした。
キバナの腕を掴んでいた手の力を緩める。キバナはこの場所から逃げようとはしなかった。キバナはゆっくりと上体を起こして、ダンデが掴んでいた方とは反対の手で肩につくくらいの長さのある黒髪をがしがしと掻く。
「……キバナ」
ダンデはキバナの名前を呼ぶ。キバナはひとつ目を伏せた後、ゆっくりとした動作でダンデを見た。明かりもつけていない部屋の中は暗い。その抜けるように美しいターコイズは、暗闇を纏って底知れない色を宿しているように見えた。
数ヶ月前に起きた、あのブラックナイトの後。ムゲンダイナの攻撃を真正面から受けてしまったダンデは意識を失ってナックルシティの病院に運ばれた。短い入院期間だったが、キバナは忙しい仕事の合間を縫って――ブラックナイトの後処理も相まって、普段以上にきっと相当に忙しかっただろう――一度病室を訪れてくれた。その時は一連の出来事への労りと無茶するなというお叱りはきつめに貰ったが、それ以外は基本的には穏やかで飄々としたいつものキバナと変わらない様子だったと記憶している。それは、ダンデを心配させまいという優しいキバナの気遣いでもあったとダンデは受け取っていた。
キバナとダンデが恋仲になったのは、さらに数年前のことだった。お互いが好きだ、一緒にいると楽しい、もっと一緒にいたい――お互いに思春期を迎えてより強くなったその思いが恋であると気が付き、紆余曲折の末に晴れて二人の関係性を表す言葉に「恋人」という名前が増えた。お互いに急がしい身であることは重々承知なので、頻繁にとはいかなかったがこうしてたまに時間を見つけては逢瀬を重ねた。それはダンデがチャンピオンではなくなりバトルタワーオーナー兼リーグ委員長になった今なお変わることはなく、小さなすれ違いなどはあったものの今日まで至って良好な恋人関係を続けている。
キバナの時折見せるあの表情だけが、小さなしこりのようにずっと気になっていたことを除いては。
「……怖いんだよ」
どのくらい沈黙が続いただろうか。底の見えないほど静かな部屋の中に、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどに小さなキバナの声がぽつりと雫のように落ちていった。落ちた言葉は、ダンデの鼓膜を小さく揺らして、じわりと静かに全身に広がっていくようだった。
ダンデは、じっとキバナの言葉の続きを待つ。こうなったダンデが諦めないことなど、キバナこそ誰より分かっているだろう。は、と小さく息を吐いた後、「あの日、ダンデの目が覚める前にも一回病院に行ったんだ」とキバナは続ける。
「病室で眠ってるダンデを見た時、……もしこのままお前が目を覚まさなかったらなんて思っちまって、目の前が真っ暗になるようだった。すぐ目は覚ますだろうってその前にお医者様から聞いてたんだけどな。……だけど」
キバナはそこで一度言葉を切る。
「ふとした時に浮かんでは、忘れさせてくれない。……トラウマなんだよ」
そう僅かに震える声で言うキバナをダンデは見つめる。
(ああ、どうしような)
――そう言うキバナにどうにも愛しさが湧いてきてしまって、自分でも呆れたような思いが浮かんでしまう。
愛とか恋とか、そういうものはもっとキラキラしていて純粋で前向きな気持ちで満たされているものだと思っていたのに。それがこんなにも自分の奥底の感情を突きつけられるような、利己的で浅ましささえ絡みついた感情だったなんて、キバナを愛するまで知らなかったことだ。
ガラルのトップジムリーダーの座を欲しいままにし、何年もその地位を守り続けているトレーナー。強くて獰猛でスマートでどこまでも優しい、この美しい竜の弱点は、きっとオレなのだ。そう思うとたまらない気持ちになる。
普段の彼ならこんな弱音なんて絶対に吐いちゃくれない。世界に二人だけのようなこの静まりかえった昨日と今日の狭間の時間の、二人だけの秘め事。きっと彼はこの時間に、こんな顔は置いてくるだろう。
だからこそ、今こうして本音を零してくれた彼を愛おしく思った。
宥めるように、そっと唇に触れた。ひどく柔らかくて、そして暖かい。この薄い皮膚の下に今も血が確かに流れていることを、肌と肌で触れて知る。生きている証拠だ。
唇を離して、至近距離で目と目を合わせる。暗い部屋の色を反射したターコイズの真ん中に、ダンデが映っているのが見える。
「『オレはいなくならないぜ』――と、言えたらいいんだが、君に対してそんな無責任なことは言えない」
どうしたらこの男のトラウマを払拭してやれるだろう。オレにだけ弱くなるキバナが愛おしい、けれどやっぱり一番は何の憂いもなく笑っていて欲しいというのも紛れもない本心だ。しかし確証のない気休めで一時的な安心を与えてやろうとするほど、ダンデにとってキバナは安い存在ではなかった。
「もしまたブラックナイトのようなガラルの危機が来たら、オレは迷わず戦うだろう。チャンピオンの責務……というわけではもう無くなったが、オレは愛するガラルの為ならまた身を賭して立ち向かうだろう。オレは、強いからな」
自慢をするつもりでもなんでもなく、事実としてそう言う。強い者は、守るべき者のために戦うことができる。そしてオレはそうしたいと思う。
「……それで今度こそ命を落とすことももしかしたらあるかもしれない。可能性の話だ」
ダンデはゆっくりとキバナの手の甲を指先で包み込むようになぞる。それから指と指を絡ませて、きゅっと握りこんだ。今度は力強いものではなく、柔らかい拘束だ。キバナは、拒まない。
「けれどオレは、この一生の中でキバナの手を離す気はひとつもない」
人生は有限だ。いつか終わりが来る。それは分かっている。それがいつになるかは分からない。運命は自分でコントロールできるものではないからだ。
だけど、できうる限り。自分で選ぶことができる時間の間、オレはキバナの手を取り続けたい。そう思うのだ。
「オレはガラルが大事だ。キバナが大事だ。だからオレは、もっともっと強く在る」
少しでも長い間、キバナと共に在れるように。その言葉を紡いで、無意識のうちに繋いだ手に込める力を少し強くしてしまった。
「君が思っているよりきっとオレはキバナに執着しているんだぜ」
キバナの顔がくしゃりと歪む。困ったようで、呆れたようで、あるいは怒ったようで、でもどうしようもないほどの嬉しさや愛しさみたいなものも滲み出しているようでもあって。キバナはしばらく何か言葉を探すように唇を動かした後、繋いだ手のひらを握り返してきた。「ダンデ」と呼んだその声の色は、とても一言で言い表せるようなものじゃない。
空いたもう片方の手が伸びてきて、ダンデの頬に触れる。髪をゆるりと梳くその指先が柔らかくてひどく甘やかだった。
「キバナ」
名前を呼べば、その瞳がダンデをまっすぐに見つめる。この見惚れるほどきれいな色の中に、自分が映っているこの景色が好きだと思った。
病める時も、健やかなる時も。――この命が尽きて、二人を天が分かつ、その時まで。