Love Letters
壁際にずらりと並んだ高い本棚とその中に所狭しと並べられた本たち。ふ、とわずかに香る本のにおいがダンデの鼻を擽る。勿論蔵書の数で言えばかのナックルユニバーシティ図書館の方が比べるまでもなく遙かに上ではあるが、しかしそれを少し彷彿とさせるような、濃密で丁寧に整理された書斎だ。細長くて小さな部屋ではあるが、それがまたこの場所を秘密基地のような印象にもさせた。
キバナの家にはもう何度か訪れたことはあるものの、ダンデがこの部屋に入るのは初めてのことだった。これはすごいな、と思わず素直に感嘆の声を漏らすと、オフの時にしか見られない髪を低い位置で一つに括ったラフなスタイルのキバナは得意気に嬉しそうに微笑みを浮かべる。
「ここにあるものは好きに読んでいいからな、時間も気にしなくていい。オレさまはリビングの方にいるから、何かあったら呼んでくれ」
「ああ、ありがとう、助かるぜキバナ！」
新しそうなものから見るからに年季の入ったものまでずらりと並んだ背表紙たちを眺めているだけでわくわくと心が疼くような心地になる。ダンデも元よりポケモン関係の研究書を読むことは大好きだった。思わず弾む声でダンデが言うと、キバナは口角を上げて笑った後に「じゃあ」とひらりと片手を上げてから廊下の奥にあるリビングの方へと戻っていった。
一人にしてくれたのは、ダンデの熱中し始めるとすぐ周囲が見えなくなるという性質を考慮してくれてのことだろう。一人でじっくりと、ダンデの興味の赴くままに、好きなように好きなだけ本の世界に浸れるように。いつの間にかもうすっかり短くも浅くもない、ダンデにとって無二の存在とも言えるほどになったキバナは流石よくダンデのことをよく分かっている。そのキバナのさりげない心遣いに、ダンデへの深い理解と彼の生来の優しさを感じて心がじわりとあたたかくなるのだ。
さて、どれから読ませて貰おうか。本棚に近付いて背表紙をひとつひとつ見ていく。その中にはガラル語ではない文字もいくらか混じっていて、他の地方のものもわざわざ取り寄せていることが覗える。さすがキバナだな、と敬愛や誇らしさのような感情がじわりと沸き上がるのがわかった。この書斎はまるでキバナの頭の中を覗いているかのようだなんてことを思う。
より多くの人に気軽に多くのポケモンを扱ってバトルの楽しさや奥深さを知ってほしい。そんな思いからバトルタワーでのレンタルパーティは定期的に構成や育成の見直しを行っており、今後は特定期間ごとに入れ替えるイベント的に特定のタイプで固めたパーティのレンタルも計画している。その一環としてドラゴンタイプ限定パーティも考えている最中で、その参考にいくつかドラゴンタイプの育成やバトルについての研究書を読みたいと思った。それでガラルのドラゴンジムのお膝元でありガラル最大級の図書館であるナックルユニバーシティ図書館に足を運んだ……のだが。生憎目的の本はいくつか貸出中だった。
書店で購入しようにも、目星を付けていた本の中には今は出版した会社がもう無くなっていたり絶版になっていたりでなかなか流通していないものもあり、さてどうしたものかと思っていた。貸出中の本が戻ってくるのを待つほかないか、と思っていた中――ガラルリーグ関係の書類をナックルジムに届けに行った後の雑談でふとキバナにそんなことを零したところ、キバナは「その本ならウチにあるぜ、来るか？」とあっさりと言ったのだった。「他にもドラゴンタイプの研究書なら、よっぽどマイナーで手に入りにくいもの以外なら一通り揃ってると思うぜ」というダンデが食いつかずにはいられないような言葉も付け足して。
きらり、と目を輝かせてしまったのをキバナは見逃さない。「できるだけ早いほうがいいよな。今度の日曜ならオレさまも一日オフなんだけど、ダンデはどう？」――ダンデが返事の言葉を返すよりも前に、キバナはスマホロトムを手早く操作しながらそうダンデに問いかけたのだった。
日曜日。前日ダンデが遅くまで仕事をしていたことを考慮して待ち合わせは昼過ぎにして――ダンデは早くても大丈夫だぜと言ったのだが、キバナがちゃんと寝ろ休めこのワーカーホリック、と断固として譲らなかったのだ――迷わないようにリザードンに道案内はお願いをして無事約束の時間にキバナの家へと辿り着いた。チャイムを鳴らすとすぐに出てくれたキバナは、普段は彼の愛するドラゴンをイメージしたパーカーにユニフォーム、目を引く鮮やかなオレンジのヘアバンドを纏い、黒髪を高い位置で括っている彼だが、今日は完全にオフなので服はシンプルな薄手のニット、髪の毛は低い位置で簡単に一つに括っていた。プライベートでしか見られない彼の姿に、優越感のような不思議な高揚がふわりと心の中に生まれる。こんな感情が自分の中にあったのかというのは、二十年ちょっと生きてきたというのにごく最近になってから、彼と居たから知ったことだ。
広い廊下を歩きながら、ちゃんと昼飯は食べたのか、栄養補助食品だけで済ませてはいないか、と念の為といったように問いかけてくるキバナはまるで母親のようで――いや、ある程度放任してくれている実の母親よりもキバナの方が熱心に確認してくるように思う。そう思って思わず小さく笑いそうになってしまうが、なんだかキバナの様子に水を差してしまうのも悪い気がしてどうにか堪えた。
そうして早速案内された書斎、キバナが立ち去った静かな部屋の中でダンデは本の背表紙をひとつひとつ目線でなぞるように見ながら気になった本をいくつかピックアップしていく。元々目星を付けていた本だけでなくダンデの知らない面白そうな本も沢山あって、感嘆すると同時に表紙や背表紙を眺めているだけで気持ちがわくわくと疼いた。本棚には本や雑誌だけでなくファイルやノートなども入っており、仕事で使ったものかあるいはキバナ自身が纏めた資料などだろうか。そんなところにもキバナのポケモンバトルや仕事への努力を惜しまないまっすぐさや勤勉さを感じて、思わず口角が上がる。
――そんな風に、沢山の本たちへの興味や期待、キバナの本棚を眺めることの楽しさや高揚が昂ぶって、少しばかり注意が散漫になってしまっていたのだろう。
本棚の端のほうにあった、年季の入っている厚めのドラゴンタイプの研究書が気になって手を伸ばす。本棚は天井のギリギリまでの高さがあるため、上の方に並べられているそれは、決して低くはない、むしろ高い方だと思われるダンデの身長でもギリギリ届くくらいの高さだ。キバナならもっと背が高いから問題なく届くのだろうな、と思いながら少し背伸びをしてその背表紙を引き抜いた。
と、その拍子にすぐ隣に並べられていた数冊のノートも一緒に動いてしまったらしい。ぐらり、とバランスを崩したそれらは、ダンデが「あ」と声を上げて慌てて手を伸ばそうとするも一歩遅かった。ノートはばさばさと音を立てて床に落ちる。
しまった、と思う。折れたり痛んだりはしていないだろうか、と確認のためダンデは急いでノートを拾う為にしゃがみ込んだ。気分が高揚していたとはいえ、仮にも人の所有物だ。申し訳ない――と思いながら、開いて落ちていたそのノートを一冊手に取る。随分と古いノートのようだが、落としたことによる痛みなどは起きていなさそうだった。そのことにひとまずほっとする――が、ダンデの興味は目に入ってしまったそのノートの中身に釘付けになってしまった。
随分と幼い字だ。少しだけ文字も色褪せている。しかし、ダンデには分かった。これはキバナの字だ。現在の綺麗な字よりも幾分幼くて荒いとはいえ、書き方にその面影がある。仕事で日常的にキバナのサインなどを見ているから、キバナの字の癖は覚えていた。
そして何よりその確信を深めさせたのは、その中身だった。
「――……、これは」
思わずぽつり、と呟く。目を奪われた。
覚えがある。この試合、パーティ、技構成に育成の方向性。
今から十年近く前、チャンピオンになって三年目に入ろうかという頃のダンデの試合だ。その試合の記録や分析、技や育成の予想。そしてそれに対抗する為の戦略が何パターンも理論に基づいた丁寧な思考に基づいて書かれている。
勝手に見てしまうのは申し訳ないという気持ちも心の底の方ではあるけれど、しかし、ついページを繰ってしまう手を止められなかった。
次のページにはまた別の試合。これはトーナメントなどの大きな試合ではなく、チャンピオンとして呼ばれた街のイベントでのオープニングセレモニーとして行われた小さなエキシビションだ。テレビ放映はなかったものの、確かネット番組か何かで中継をされていたと聞いた覚えがある。さらに次のページは、その少し後に行われたジムリーダーたちとのトーナメント。その次は――。
ひとつひとつの文字を目で追いながら、気付けば夢中になってページを捲っていた。読みながら、無意識に息を詰めていた。そうして気が付いたのは、このノートがダンデとキバナの初めての試合の後から書き始められたものであり、ダンデの記憶が正しければ、その翌年再びキバナと戦うまでのほぼ全ての公の場でのダンデの試合についてこのノートには書き留められていた。
（――すごいな）
心の中で、そうぽつりと呟いた。
このノートに記されているキバナの分析は大方当たっていて、そしてそれに対する戦略案も感嘆するばかりだった。凄い。その言葉が素直にダンデの中に生まれる。鋭い観察眼と、丁寧な分析と、豊富な知識と柔らかな発想力から来る戦略の数々。
――そうだ、そうだった。あの日の景色が脳裏にぶわりと鮮明に蘇る。
覚えている。あまりに楽しかったから。あまりに嬉しかったから。その日の景色とこの手の中のノートが頭の中で繋がって、改めて深く腑に落ちたような心地だった。
再びチャレンジャーとして勝ち上がってダンデの目の前に立ったキバナとの二度目の試合は、前回を遙かに超えるダンデの研究がされていて驚かされた。あの時も勝利したのはダンデだったが、もしこちらが一手でもミスをすれば落とされていただろうと今でも思う。
本当に楽しい試合だった。そしてどうしようもなく嬉しかった。キバナが本気でダンデに勝とうと挑んできてくれたことがその技や戦略のひとつひとつから、その燃えるようなターコイズの瞳から、溢れんばかりに伝わってきたから。
もう十年近く前、お互いに少年と呼ばれる年の頃だった日の話だ。しかしこの頃からずっとずっと、キバナはダンデを追い続けてくれた。
そして、今だってそうだ。
キバナは一度だって揺れることなく、ダンデをずっと――。
（……、まるでラブレターみたいだ）
そんな言葉が頭の中に生まれて、そう思ってしまえばその言葉がじわりと身体の中に染み渡っていくようだった。ダンデは手の中のノートを見つめる。文字を追うだけで、キバナの灼けつくような熱が、思いが、伝わってくるようだった。
ダンデにとってキバナは、最初はただのチャレンジャーの一人だった。
チャンピオンになったダンデの、最初の防衛戦の相手。ダンデと同じくらいの年の頃で、ダンデと同じくジムチャレンジ初挑戦でトーナメントも勝ち上がりチャンピオンへの挑戦権を得た少年。
最初からキバナは強かった。育成も丁寧にされていて、戦略もよく練られていた。ポケモンへの理解も深いことは一度戦えば分かった。試合はとても楽しくて、強いチャレンジャーが来てくれて嬉しいと思った。
そこからただのチャレンジャーの一人じゃなく、キバナのことが自分にとっても特別な存在になり始めたのは思えばこの二度目の試合の時からだったと思い返す。
懐かしくて、青くて、どうしようもないほどに楽しかった記憶。
彼がポケモン勝負が大好きで、そのことに対して努力を惜しまない人間であることは今更疑うまでもない。彼のことはそれなりに知っているつもりだという自負もある。しかし彼の頭の中を直接覗き込んでしまったような感覚に、うまく言葉にならないような思いがこみ上げた。
少しだけ後ろめたいような、ああやっぱり彼は最高のライバルだと燃えたぎるような思いとか、嬉しくて愛しくてたまらないような衝動だとか、色んなものが混ざって溶け合う。
と、トントンと書斎のドアが軽くノックされる。完全にノートの方に行っていた意識がぐっと現実に引き戻されて、ダンデははっと顔を上げた。それと書斎のドアが開かれるのは同時だった。
「ダンデ？ なんか大きい落としたけど大丈夫――……って、うわ！」
少し心配そうな顔をしながら顔を覗かせたキバナは、ダンデの手の中にあるノートを見つけた瞬間そんな声を上げて焦ったようにダンデの方に駆け寄る。ダンデが目を瞬かせている間にキバナは勢いよくそのノートを奪い取った。そうしてぐっと何か言いたげにぱくぱくと口を動かした後、ようやく言葉が見つかったのだろう、彼にしては珍しく動揺を隠し切れていない声色でダンデに問いかける。
「……見たか？」
じとり、とキバナの目がダンデを見る。
「……うっかり落としてしまってな、申し訳ない」
とりあえずまずは落としてしまったことを謝罪するべきだろうとそう口にする。しかしキバナはその言葉を受けて怒るでもなく返す。
「いやそれは別に全然いいんだけど、怪我とかはなかったか？」
「ああ、それは大丈夫だ。ありがとう」
そう言うとキバナはほっとしたように表情をわずかに軟化させる。私物を落とされたことに怒りもせずこちらの心配をして、ダンデが怪我などをしていないことがわかると安堵するなんて本当にキバナは心根の優しい男だと思う。そんなところもダンデがキバナを好ましく思うところのひとつだった。
「……で」
しかし追及を止めるつもりはないようだった。再び渋い表情になったキバナがダンデを見つめる。
「……、ここにあるものは好きに読んでいいって言ったのはキバナだぜ？」
「うわ！ 屁理屈！ ……まあ言った、言ったけどな！？」
ダンデが言ってみせると、キバナはそう言って眉根を寄せる。しかし怒っているという様子は欠片もなく、ただただ居たたまれなく恥ずかしいといった表情をしてみせた。試合の時の飢えた獣のような獰猛な表情、あるいは楽しくてたまらないといった少年のような表情とも違う顔。キバナのこういう顔を知ったのもその下に纏う感情をおそらくほとんど相違なく読み取ることが出来るようになったのもキバナとの付き合いの長さに対して比較的最近、自分とキバナとの関係に新しい名前がつけられるようになってからだった。
勝手に見てしまって申し訳ないという気持ちは勿論ある。しかしそれ以上に、キバナの様子を見ていたらどうにももっとふわふわと浮ついた感情が自分の中に溢れ出してしまいそうだった。
「……ノートを勝手に見たのは悪かったが、しかし」
このノート――そう言いかけたダンデを、キバナは慌てたように止める。
「いやいい、これ以上言うな、忘れてくれ」
はあ、と片手で顔を覆いながらキバナは息を吐く。その指の隙間から覗く耳はじわりと赤かった。
「とりあえずこれは回収な」
キバナはそう言い残して、床に落ちたままだったノートも手早く回収して早足で書斎を出て行く。ばたん、と彼にしては少しばかり乱暴な音を立てて閉められたドアは彼の心がいかに波立っているかを表しているようで、それがどうにもかわいらしく思えてしまって困った。
キバナが怒っているわけじゃないことは分かっている。キバナの動揺はどちらかといえば自分自身の感情に対してのもののように思えた。
チャンピオンを降りて、キバナとより深い関係になってから、自分は少し性格が悪くなってしまったかもしれないななんてことを思う。動揺して焦っているキバナを見て、どうにも気持ちが浮ついて口角が上がってしまう。あのノートに込められた思いも、そのノートを記した日から地続きにいる今のキバナも、自分にとってどうしたって無二の存在だと知る。
ああどうしたって、いつだってこちらを向き続けてくれた、その瞳にダンデを映し続けてくれた彼が好きだと思うのだ。
さて、とダンデは心の中で呟く。
どうやってあのうつくしくて愛しいドラゴンの機嫌を直そうか――そう思案しながら、ダンデは閉められた書斎のドアを見つめた。
◇
自分でもあんなに動揺するなんてひどいな、とは思っている。キバナは手の中にあるノートをちらりと横目で見て、小さく息を吐く。ノートを勝手に見たことに対してこちらが怒っているわけではないことはダンデも分かってくれているとは思うが、それにしたって先程の態度はどうなんだと思う。あんなにも心が波立って、動揺を隠すこともできない己に呆れてしまう。そうだ、このノートも書斎の中に置いてあったんだった――そんな己の手落ちも擁護のしようがない。そう思えば自然、リビングに戻る歩調もそんな居たたまれない思いを振り切るように速くなっていった。
別に、秘伝のノートだなんて大層なものじゃない。内容自体は別に見られたって構いやしない、たかだかノートだ。ダンデの戦術を研究し分析したノート。自分やダンデ以外の人間が見れば、別に何の変哲もない研究ノートだと思うだろう。
しかし。それを他でもないダンデに見られることがどうしてこんなにも恥ずかしいかといえば、このノートに込められた感情があまりにも大きくてあまりにも青くて、あまりに特別な熱が込められたものであることを自分で知っているからだ。同時に、聞かなくたって分かる。ダンデならばすぐにそれを見抜いてしまうだろうことも。
だって、ダンデなのだ。十年間ガラルの頂点に君臨し続けた、ポケモン勝負の鬼才。そしてその考えが当たっていたことなど、ダンデのあの表情を見てしまえば確かめなくたって分かった。
リビングに戻ってきて、ドアをパタリと閉める。先程まで座っていたソファまで戻ってから回収したノートをどうしようかと迷って、とりあえずと目の前のローテーブルの上に置いた。その隣では開いたままのスマホの中で、ＳＮＳの画面がじっとこちらを見つめるように光っている。今日はオフなので、いつもスマホに入っているロトムにもたまにはと休んでもらっていた。またＳＮＳチェックに戻るような気分ではなくて、ホームボタンを押してからキバナはスマホをスリープ画面に戻した。ソファにぼすんと深く腰掛けてから、はああ、と長く息を吐く。
そんなキバナの様子を見てか、日当たりのいい窓際でのんびりとしていたジュラルドンがキバナに近付いてくる。その目が少し心配そうにキバナを見て、キバナは慌ててかぶりを振る。
「あージュラルドン、大丈夫だ、別に喧嘩とかしたわけじゃない。これはただオレさまの問題っていうか……オレが恥ずかしいだけっていうか」
パートナーにも心配させてしまうとは情けない。そう思いながらキバナが少し唇をまごつかせつつ言ってから、「心配させてごめんな」と言いながらその体を撫でてやる。長い付き合いだ、その説明にジュラルドンも一応の納得はしてくれたらしい。ジュラルドンは元いた場所に戻って、今日は天気が良くて部屋があたたかいからか少し眠そうに目を伏せた。
キバナは改めてテーブルの上に置いたノートの表紙を見つめた。ノートの表紙に書いた年月はもう十年近く前のもので、そのインクは少し色が薄くなっているように思えた。色褪せたノートとインクが、あの頃からもう長い月日が経過したことを伝えてくる。
自分とそう変わらない年齢で、ガラルのチャンピオンになった少年。その試合を勿論キバナも見ていた。キバナ自身もポケモントレーナーを始めてしばらく、ジムチャレンジとそのクリアというのがある程度明確な目標になり始めた頃だった。
天才だ、と彼をメディアは言葉を尽くして褒めそやした。それもそうだろう。ジムチャレンジ初挑戦にして優勝、史上最年少のガラルのチャンピオン。その歴史的瞬間に、当時のガラル中が熱狂したことは言うまでもない。
キバナはその後も、ダンデの試合をテレビ中継やネット配信などで何度か目にした。
その強さと戦い方の鮮やかさは映像で見ていても分かった。戦いたいと思った。越えたいと思った。そして、自分たちならばできると心の底では無意識に決定事項のように信じていた。まだ自分が心のどこかで無敵だと思っていた年頃、世間を知らない少年の傲慢。今にして思えばそうとも言われるかもしれないけれど、勿論そんな簡単なことじゃないということも理解しているつもりではあった。
キバナはその自信に見合う努力だって惜しまなかったし、もうナックルシティ周辺の同世代の中では飛び抜けて強かったことも間違いはなかった。その実力を買われてナックルジムの当時のジムリーダーに推薦を貰い、念願のジムチャレンジに出場した際もその年のジムチャレンジャーの中でトップクラスの早さでジムを次々クリアしていった。
だからこそ、冷静な頭のつもりでもどこかでそう思っていたのだ。
ジムチャレンジを全てクリアしトーナメントで勝ち進み、チャンピオンカップ初出場にしてダンデへの挑戦権を獲得した。いよいよあのダンデと戦える、と、自信と高揚と期待でわくわく疼く心を抱えてスタジアムに足を踏み入れたことをよく覚えている。
初めて生で相対したダンデは、自分とそう背格好も変わらないあどけない少年だった。
けれどスタジアムに入ってきた瞬間、その場所の空気が変わった。
びりびりと体中に響くような大きな歓声。熱狂するスタジアム。その中に渦巻く熱は一様ではない。だがそのエネルギーの大きさに圧倒された。そしてその中心で驚くほどに透き通って輝く、美しいアンバーの瞳に見据えられた。
ぞわり、と、肌が粟立つ。先程まで鼓膜を劈くようだった大きな歓声が、一気に遠くに感じた。この感覚が何なのか、当時のキバナは言葉にする術を持たなかった。
審判の合図と共にボールを投げて、試合が始まる。そこからは、もう、目の前のダンデとポケモン、そして自分のパートナーたちに全ての感覚を没入させた。いや、没入させられたと言った方がいい。それ以外のものが目に、耳に、不思議なほど入ってこなかった。
先に一匹目であるヌメルゴンを倒されたのはキバナの方だったが、こちらだって今日に至るまで全力で鍛えてきたのだ、とぐっと唇を噛みしめる。しかしその口角は自分でも知らないうちに上がっていた。今度はこちらの番だとばかりに反撃の指示を出す。フライゴンのかみくだくがギルガルドの急所をとらえて、ぐらりとその体が揺れる。どうにか堪えたようだったが、もうギリギリのところだろう。砂嵐で視界は煙っている。目を開け続けるのも正直大変なほどの砂嵐だ。しかし、一秒たりとこの試合を見逃したくないと心が叫んでいた。キバナの目線の向こうで、ダンデがひどく悔しそうにわずかに眉根を寄せる。しかしそれと同じくらいの大きさで、楽しいと叫んでいるようにキバナには見えた。悔しくて、楽しくて、たまらない。キバナたちが一手を繰り出す度、ダンデが全身でそんな感情を纏う。砂嵐の中なのは向こうも同じなのに、ダンデも一秒たりともキバナたちから目を逸らそうとしなかった。射抜かれるような金色。ぐっと体が持っていかれるかのような、そんな衝動が身体の中を駆けた。
そして善戦はしたものの、結果としてはキバナの完敗だった。
試合が終わった後、全身の血が沸騰するように暴れていた。でも同時に心のどこかがしんと冷静でもあった。頭がすごい速さで回転しているのが分かる。ああさっきの攻撃はこの布石だったのか、とか、あの時一瞬判断に迷わなければこの展開が変わっていたはずだ、とか、洪水みたいに溢れ出す。
心の底から悔しくて、けど、どうしようもないほどに楽しい。
映像で見るのと、実際に戦うのとでは全然違った。
ダンデはあまりにも強い。強かった。だから、この少年に勝ちたいと思った。どうしたって、また戦って、次は、次こそは絶対に勝ってやりたい。そのマントを自分の手ではぎ取ってやりたい。その小さな体には不釣り合いなほど仰々しくて重そうな赤いマントを翻しながら、見事初めてのチャンピオン防衛に成功したダンデは観客に向けて笑っていた。その表情がきらきらと輝いていて、しかしどこかでどうしようもなく悔しく憎らしさすらある。
あの悔しそうで楽しそうでたまらない表情をもう一度自分の手で引きずり出してやりたい。あのチャンピオン然とした完璧な笑顔よりも、試合の最中目に焼き付いた表情の方がよっぽどダンデの本性のようにキバナには思えてしまった。
「ありがとう、楽しかったぜ！」
その笑顔のまま早足でキバナの方に駆け寄って、そうダンデが手を差し出す。一瞬なぜか躊躇ってしまった後に、キバナはその手を握って握手を交わした。スタジアムが再び熱狂して、大きな歓声が鼓膜を揺らす。握った手はキバナよりも少しあたたかくて柔らかくて、この男も一人の人間であることを思い知らされる。
ポケモン勝負が好きだった。強い相手と戦うことが好きだと、そう思ってきた。そう思って今日までトレーナーをやってきたのに。
「強い誰か」じゃなくて「ダンデ」を知ってしまった。それはひどく強烈で甘美な呪いのようにすら思えて空恐ろしく、しかし、この少年にも同じ気持ちにさせてやりたいという強い衝動を伴った欲が生まれる。
みんなのチャンピオンの顔をして笑う目の前のアンバーに、一人のチャレンジャーじゃない、他でもない自分を映させてやりたくなってしまったのだ。
（～～って、思ってたんだよなぁ……）
思い出して、じわりと耳がまた熱を灯す。青くさくてたまらない感情。あの日から自分はダンデにとらわれてしまったのだと思う。ダンデと戦いたくて、ダンデに勝ちたくて、それに己の全てをぶつけずにはいられない衝動。
目の前にあるノートは、そんな当時の色んな感情をそのまま全力でぶつけたものに他ならない。別に何かそういう思いを文章に綴ったなんてわけじゃない。ここにあるのは全部ダンデに勝つための研究や思考の成果で、しかしだからこそ、己の思いが恥ずかしいほどに純然たる形でそこに表れているように思えた。
（……しかしこれまた厄介なのは、な）
キバナは心の中で呟く。これに関してまた厄介なことは、その衝動が今でも自分の中に巣くっていることだ。もっと、それだけじゃない色も深く絡まった欲を湛えて。
「キバナ」
「おわっ！」
突然名前を呼ばれて、驚いてびくりと肩を震わせてしまう。振り返ると、そんなキバナを見て楽しげに口角を上げたダンデがいた。まだ髪も短く声も高かった少年ではなく、特徴的な形に髭を整え紫の長い髪を揺らす、今のダンデだ。懐かしいことを思い出すうち、注意が散漫になっていたらしい。ダンデがリビングにやってきていたことに全く気が付かなかった。ああ本当に今日は格好がつかない。余計に恥ずかしさが募り、返す声も自然とそっけないものになってしまう。
「……なんだよ」
「そう拗ねないでくれよ、別にからかおうなんて気はないぜ」
くつくつとおかしそうに笑うダンデはひどく上機嫌だ。だからこそ居たたまれない。ダンデはもう少し見ただけでこのノートに込められた感情に気付いてしまったのだろうという確信がより深くなる。
「そうじゃなくて」
ダンデは言いながら、脇に抱えていた何冊かの本をローテーブルの上に置く。古いものから新しいものまで、様々なドラゴンタイプの研究書だ。
「折角ガラル最高のドラゴンつかいがいるんだ。どうせならキミの話も聞きながらここで読みたいと思ってな。ダメか？」
ダンデがそう穏やかな声色で言う。大きな窓からさす昼下がりの太陽の光に照らされて、ダンデの瞳が柔らかく輝くのをみた。
この瞳が同じ熱を灯したと気付いたのはその翌年、二度目のダンデへの挑戦の時だった。
一年間、本気でダンデを研究した。ダンデが出る試合はどんな小さなものでも追える限り追って、その戦術や育成、それに対する対策を何パターンも練ってはノートに書き記した。ポケモントレーナーというものはキバナにとって沢山ある将来の選択肢のひとつであったはずなのに、いつの間にかそれしか見えなくなっていた。ダンデに勝つためにもっともっと強くなりたいと思った。あの日のスタジアムのことが、あの日相対したダンデの姿が目に、耳に、全身に焼き付いて離れなかった。
再びジムチャレンジで勝ち上がり、ダンデの前に一年ぶりに相対する。試合が始まって、互いの攻撃をぶつけあう。すぐにダンデの表情が変わった。
その瞳がキバナを映した。
ひとつ技を繰り出す度、試合が進む度、楽しくて嬉しくてたまらないとその瞳が伝えてくるようだった。そのことに、歓喜と優越がキバナの頭をはち切れそうに揺らす。
それから、戦う度に、その瞳の輝きが深くなっていくのをみた。お互いの身長が高くなっても、声変わりをして低い声になっても、ダンデの髪が伸びて髭も生えるようになっても。その深度は試合を重ねるごとに増すばかりだった。
こちらが手を伸ばして食らいつこうとするごとに、同じだけの強さで向こうに食らいつかれる。
楽しくて、憎らしくて、嬉しくて、悔しくて、愛しくて。
目線を交わして、戦うだけで分かった。相手も同じように思っていることを。どんな感情だってこのフィールドの上にあったように思えた。
キバナをみて、世界で一番美しい金色が揺れる。
――言葉はない。なのにまるで、ラブレターのようだと思ったんだ。
あの仰々しくて重そうなマントを纏わないダンデが、ソファのキバナの隣に座る。そうして軽やかな仕草でキバナに向かって笑いかけた。
「キバナ」
全部わかっていて、でも深くは聞かずに。ダンデはキバナの返答を待つように名前を呼ぶ。その目を見た後、ダンデが書斎から持ってきた本たちに目線を移す。テーブルの上に置かれた本はすべて、きっと気に入るだろうとダンデが書斎に入る前から予想していたものたちだった。
そのことに、自分がダンデを追いかけてきた日々、自分とダンデの過ごしてきた日々の長さと濃密さに改めて気付かされるようで。
――一人と一人、相対する形での情を育んできた自分たちが、共に在ることを選んでしばらく。
目の前のダンデは試合の時のような灼けつくような表情ではなく、柔らかな色を湛えている。あの頃は知らなかった色。しかしこれも、いつの間にかキバナにとってどうしようもなく愛しいものになっていた。
「……あー、わかったよ」
オレさまの負けだなんてことは、こんなことでも言いたくはない言葉だけれど。
観念したようにぐしゃぐしゃと髪を掻くキバナを見て、ダンデはおかしそうに笑う。
目が合って、一瞬の間の後、どちらからともなく唇を寄せた。至近距離で合った目の奥にはキバナがいっぱいに映っていて、世界一うつくしい宝石を手に入れたような心地に、心の深いところが充足するのを感じた。