一等星




 キャンプに行きたい、と誘ってきたのはキバナからだった。
 お互いにここ最近はバタバタと忙しくしていたから、これが久しぶりのキバナからの連絡だった。スマホロトムが画面に映し出してくれた、メール送信者欄に記載された『キバナ』という名前に、ダンデの心は自分でも驚くくらいに高揚した。
 もうじき忙しくなるから、その前によかったら一緒に行けないか、という文章と共にいくつか提示された候補日程。そのどの日も本当は、スケジュールは既に埋まっていた。というか、チャンピオンになって以降のダンデにとってスケジュールが空いている日を探すことの方が難しいくらいだった。求められることは嬉しかったし、ポケモン勝負は楽しくて仕方がないし、それ以外の仕事だって基本的には楽しかったし楽しんでいた。チャンピオンになって最初の一年くらいは流石にこれまでの環境との大きな変化に目が回るようだったけれど、二年、三年と経つにつれてこの生活にも環境にもすっかり慣れっこになっていた。
 ポケモン勝負をする時間があればよかった。ポケモンが大好きで、ポケモン勝負が大好きで。それ以外に趣味らしい趣味もなかったダンデは、休みが大してなくても不満はなかった。むしろ暇な時ほど、広い庭の掃除も料理の手伝いもウールーの毛刈りもしなくたっていいここでは、何をすれば良いのか分からないほどだったのだ。チャンピオン業と、ポケモンと、ポケモン勝負。それだけあればよくて、他は二の次三の次だった。
 ――そのはずだった、のだけれど。
 すぐに入れればよかった断りのメールを入れられずに、代わりに開いたのはローズさんの電話番号だった。忙しい人だから出てくれるだろうかとかけてから心配に思ったけれど、そう思っているうちにあっさりと電話は繋がる。無理は承知で、どうしてもスケジュールを調整できないでしょうか――と、口にしてみる。その言葉を音にしている間、ドキドキと心臓が自分の体の中で音を立てるのを聞いていた。
 こんなのはただのわがままだと、本当は分かっている。だけど、どうしても行きたいと思った。自分でも理由の説明できない衝動だった。こんな風にわがままを言ったのは、チャンピオンになってから初めてのことだった。
 すぐに撥ねのけられることは覚悟していたけれど、電話の向こうのローズさんは少し考えるような間をおいた後、なにやら電話の向こうで誰かと喋っていたようだった。きっとスケジュールの確認で、相手はオリーヴさんだろうと想像がつく。そうして電話の向こうでいくつかの会話のラリーをしていた後、いつもと変わらぬ悠然とした声が電話口に帰ってくる。『たまには息抜きも大事ですからね』――そう言ったローズさんは、本当にスケジュールをこじ開けてくれた。柄にもない緊張からか、口の中にいつの間にか溜まっていた唾をごくんと飲み込む。どうにかこうにか丸一日、何の予定もない休日。こんなことはとても久しぶりだった。



 ◇



「いやー、美味しかったな。キャンプで食べるカレーって何であんなに美味いんだろ」
 そうしみじみと言いながらキャンプ用の鍋を大きなリュックに仕舞うキバナに、ダンデも頷く。
「美味かったな! やっぱりキバナは料理が上手いんだな」
「ま、オレさまだしな~」
 ダンデの素直な褒め言葉に、キバナはにやりと得意気に笑ってみせる。決して傲慢なわけではないが下手な謙遜もしない、自分の力量と相手の言葉の温度を正しく測って褒め言葉を素直に受け取ってくれるキバナのそういうところをダンデは好ましく思っていたし、人の裏表を測ることがあまり好きではないダンデにとってとても付き合いやすい相手でもあった。
 この褒め言葉だって心からの本心で、キバナが中心となって作ったカレーは絶品だった。味の善し悪しにほとんど頓着しないダンデですらそう感動したのだから――普段、食べるのが早すぎるのと食事よりもポケモン勝負のことを優先したいあまりに味には頓着していないだけで、味が全然分からないというわけではないのだ――本当にキバナは料理が上手いのだと思う。ダンデがそうひとりごちていると、キバナは「でも隠し味にモモンのみを入れるのはダンデのファインプレーだったな。あの甘みが効いてたな」と楽しそうな顔で頷く。
「だろう!? あれは母さんから教わったレシピなんだぜ」
 嬉しくなってそう思わず勢い込んで言うと、キバナがぱちりと目を瞬かせる。
「そうなのか。そう言われるとダンデんちのカレーもいつか食べてみたくなるなー」
「ああ、うちのカレーはすごく美味しいんだぜ。食べてくれる人が多いと母さんも喜ぶだろうし、キバナもいつか――」
 そこまで言いかけて、はた、と止まる。この言葉だって本心だ。けれど、それはいつになるのだろうなと思ってしまったのだ。ダンデだって今日は無理矢理に近い形でスケジュールをこじ開けて貰ったのだし、ダンデもここしばらく実家に帰る時間も取れていない。たまに実家に電話くらいはしているけれど、母親が作ったカレーを最後に食べたのはいつだったろうか、と不意に気付く。
 急に言葉が尻すぼみになったダンデに対して、キバナはまるで気が付かなかったみたいな振る舞いで口角をにまりと上げる。
「お、いいのか? 本気にするぞ? そのうちまた、時間ができそうなタイミングあったらなー」
 キバナはそう言いながら鍋を仕舞い終わったリュックのジッパーを閉じて、テントの前まで戻ってくる。さくさくと、キバナの靴が短い草をかき分けるみたいに足音を鳴らすのを聞いていた。食事を終えた後、満腹になったからか少し眠そうになっていた互いのポケモンたちにはもうボールの中で休んでもらうことにしたので、二人ともが口を閉じれば急にこの空間は静かになる。でもその静けさは、居心地の悪いものではなかった。
 すう、と息を吸い込むと、懐かしいような自然のにおいがダンデの鼻孔を擽った。見上げれば空には三日月と満天の星、風が吹いてざわざわとざわめく木々の向こう、どこか遠くからポケモンの鳴き声が風に乗って届いてきた。
 一応持ってきた簡易的な折りたたみ椅子もあったからそれに座ろうかとも思ったけれど、今日は星が綺麗だからと、椅子を広げるのを止めてごろんと地べたに寝っ転がることにした。急に近くなった土と草のにおい。それが不思議なほど心地がよかった。
 ダンデの横にキバナも寝転がる。二人並んで、何も言わず、しばらく満天の星空を見上げていた。ナックルシティとエンジンシティという大都市に挟まれた場所にありながら手つかずの自然が豊かなこのワイルドエリアでは、晴れていれば星がとても綺麗に見える。ダンデの故郷であるハロンタウンにも負けずとも劣らない、綺麗な夜空だった。

 もうすぐキバナはナックルジムのジムリーダーに就任し、来年度からは飛び級でかの名門・ナックルユニバーシティに進学することも決まっているという。ここ最近はそのための試験や準備、研修などに追われて、とても忙しかったようだった。キバナがナックルジムのジムリーダーに就任したら、その少し後にはガラルリーグ最大のイベントとも言える、今年のジムチャレンジが控えている。これまではジムチャレンジャーとして、挑戦者として挑んできたキバナは、今年からはチャレンジャーを受け入れる側――ジムチャレンジ最後の門番として、若き才能たちを見極め、彼らの越えるべき壁として立ちはだかることになるのだ。
 きっとこれからキバナは、これまでの比にならないほどに忙しくなるだろうと思う。事務的なことはローズさんやオリーヴさんをはじめとしたリーグのスタッフたちに全て任せているとはいえガラルリーグの内側にいる立場であるダンデもそれは理解していたし、当事者となるキバナ自身こそよくよく分かっていただろう。だから急に、久しぶりに連絡をしてきたかと思ったら、キャンプをしたいなんて誘ってきたのだろうと思う。
 キバナはとても優しくて、気配りが上手くて、賢い。ちゃんと相手の状況だとかバックボーンの部分をきちんと考慮してから動くタイプだ。だから、細かいスケジュールこそ知らなくても、次のジムチャレンジのシーズンに向けて準備や取材や撮影等々へ動き出す今のダンデの忙しさを知っているはずのキバナが急にこんな誘いをかけてきたのが少し意外だった。だけど、だからこそ、ダンデはどうしてもその誘いを断りたくなかったのかもしれなかった。
 キバナの誘いを断りたくないと思ったのがこれまでずっと優等生のチャンピオンをやってきたダンデの珍しいわがままだったとしたら、こうして誘ってきたこと自体が聡明で聞き分けの良い少年だったキバナにとっても、ひどく珍しいわがままだったのかもしれないと、そんなことに不意に気付かされる。
 星空を見るふりをしながら、隣で寝転がるキバナをちらりと見る。二人の間にあるランタンの灯りがキバナの端正な横顔を照らす。寝転がっているから頭の位置は同じだけれど、足の位置はキバナの方が少し遠いように見えた。
 ダンデとキバナが出会った頃――ダンデのチャンピオンとしての二度目の防衛戦の時は、身長はまだほとんど変わらなかったように思う。試合の後、握手をした時の目線の位置がほとんど同じだったことを覚えているからだ。悔しそうで、でも楽しそうで、ぎらぎらと今にもはち切れてしまいそうなほどに炎を揺らしていたそのターコイズブルーが、あの時、ダンデの目に焼き付いたから。
 ――時間が流れているのだと感じる。

 故郷のことを思い出せば、不意に幼馴染みのことを思い出した。幼い頃にもよく遊び、ジムチャレンジの時には共に旅立ちガラル中を冒険したライバルであった彼女――ソニアは今、ダンデの故郷の隣町にあるポケモンの研究所で研究者の道を着実に歩んでいるそうだ。ソニアもまた忙しい身であり、ポケモン研究のことになると熱中してしまうタイプでもあるから――本人にそれを言えば、ダンデくんがそれを言う? だなんて言われてしまうけれど――直接会って話したのはもう随分と前のことになってしまうけれど、たまに電話はしているから、近況はなんとなく把握はしているのだ。
 ソニアは研究者になりたいのだとダンデに伝えた日から、ポケモントレーナーをやめたようだった。ポケモン勝負を嫌いになったわけじゃないのだと言っていたし、実際そうらしいのだけれど、それよりも今は研究が楽しくてそれに時間を全部使いたいのだと話していた。
 今なら、ソニアが自分の進みたい道を選び取ったこと、夢に向かって邁進していることを幼馴染みとして、かつて共に走ったライバルとして、心から応援することができる。ようやくできるようになった。でも当時は、頭では分かっていても、やっぱりどうしたって寂しかったのだ。
 ポケモン勝負が好きだ。楽しくて楽しくてたまらなかった。もっともっと沢山の相手と戦って、もっとガラルのポケモン勝負が盛り上がってほしくて、ガラルのトレーナーみんなで強くなっていきたかった。
 トレーナーの道だけが人生じゃないって分かっていた。だけど、トレーナーの道を手放していく人を見るたび、自分の心の奥がさみしいとまるで小さな子どものように喚くように思えた。自分の中で燻るみたいに燃える熱が、ひとりで抱えていたその心が、大きくなるほど理想と実際の乖離に戸惑う。どう抱えて走れば良いのか不意に迷子になったかのように分からなくなってしまいそうな日もあった。
 そんな頃、ダンデの目の前に現れたのがキバナだった。
 ポケモン勝負が楽しくて、楽しくて仕方がないのだという表情。本気でダンデという王者の喉笛を喰らってやろうというほどのその気迫と本気の熱。試合が終わった後の、悔しさと楽しさがはち切れそうなほど滲んで揺れたそのターコイズブルーの瞳。
 初めてキバナと戦った時。
 そうしてその炎が消えることなく、むしろより一層燃えさかってその翌年もまたダンデの目の前に食らいついてきた時。
 心の底から。楽しくて、嬉しくて、仕方がなかったんだ。

 少し前に、キバナが他地方のリーグからスカウトされたという噂を聞いた。
 ただの噂レベルの話だった。それにキバナがどう答えたのかも、色んな説があって正確なところは分からなかった。普段であれば出所も不確定な噂話なんて気にも留めないのだけれど、その話がダンデの耳に入ってきた瞬間、指先がいやに冷えて胸がざわめいてたまらなかった。そんな自分自身にこそ、またひどく動揺をしてしまった。
 キバナの人生だ。どこで生きるのも、何をするのも、キバナの自由のはずだった。
 チャンピオンとチャレンジャー。いつしか同世代のよき友人同士という関係も築いてはいたものの、自分とキバナはポケモントレーナーとしてはただそれだけの関係でしかない。キバナがずっとガラルでポケモントレーナーを続けてくれる保証なんて本当はどこにも無かったのだと、彼が挑まなくなったらすぐに切れてしまうような糸だったのだと、その時に今更ながらに気が付いた。
 スカウトをされたり、武者修行をしたり、自分でもっとトレーナーとして全うできる場所を探したりという理由で、他地方へと行くトレーナーも何も珍しいことではない。身近なところで言えばエンジンジムジムリーダーのカブさんだってホウエン地方の出身であるし、逆にガラルを出て行って他の地方で活躍しているトレーナーも各地にいるのだと聞く。そしてキバナは、トレーナーとしては相当な実力者だ。まだキバナはダンデに勝利こそしたことはないが、確かに他の地方に行ってもすぐに大いに活躍できる実力だろうと、他の誰よりもダンデはよく理解しているつもりだった。もしかしたらガラルよりも、彼が活躍できるステージは他にあるのかもしれない。そんなことを思う。
 だけど、そう思うのとまったく同時に「嫌だ」と思ってしまった。
 オレに彼を縛る権利など、何も無いはずなのに。行かないで欲しい、と思ってしまったんだ。
 ――結局その噂が広まったすぐ後にキバナのナックルジムリーダー就任とナックルユニバーシティ進学が発表されたので、キバナが他の地方に行くなんてことは無いのだと分かったのだけれど。

「ありがとな、オレさまのわがままに付き合ってくれて」
 不意に、キバナがそうぽつりと呟くように言う。ダンデがキバナの方を見れば、キバナはやわらかな表情で、ダンデを見つめた。数秒目が合った後、キバナの目線は満天の星空へと戻っていく。
「これからしばらく忙しくなりそうだからさー。キャンプする時間とかもとれなくなるだろうって思ったら、久しぶりにしたくなって」
 ああやっぱりそうだったのか、と思う。そうしてそんなちょっとしたわがままのようなことを言うキバナがなんだか愛おしいように思えた。そして、そのわがままの相手にキバナが自分を選んでくれたことが、自分でも驚くくらいに嬉しさが湧き起こる。
 最近、なんだかそんなことが多い。キバナのことになると、自分で驚いてしまうくらいに、自分の感情がぐんと振れることがある。その理由はまだ、うまく見つけられてはいなかった。
 色んなことがまたこれから変わっていくだろう。気が付けば時間はどんどんと進んでいって、自分たちもまた大人になっていく。
 ざあ、と風が吹いて、共鳴していくみたいに木々がゆっくりと揺れて小さな音を立てる。葉っぱが一枚木から離れて、ひらひらと落ちていくのを見た。
 激流のようなその時間の渦の中に飛び込んでいく前のような、自分たちが大人になっていく前の、刹那の時間。明日の朝が来たら、またその渦の中に自分たちは飛び込んでいくけれど。
「……キバナ」
 キバナに倣ってまた星空を眺めていた。そして思考をするよりも早く、気が付けば名前を呼んでいた。キバナはぱちりと瞬きをした後、ダンデの言葉の続きを待つみたいにその穏やかな目でダンデを見つめる。
 続く言葉を考えていたわけじゃなかった。何かを言いたい気がして、でも言葉を持っていたわけじゃなくって。何を言おう、と一瞬だけ考えて、心の中に一番に浮かんだ言葉をキバナに手渡す。
「また勝負しよう」
 キバナの瞳が小さく見開かれる。そうしてその言葉を受け取ったキバナが、に、と不敵に笑う。先程までの穏やかな表情からじわりと変わって、どこに隠していたのか、熱を灯して滲みだす。
「当たり前だろ。オレさまがオマエを倒して、オマエの無敗記録を止める」
 そのターコイズの瞳は初めて対峙した時からいつだって変わらずに――いやむしろ、その温度をどんどんと増して揺らめく。
 ランタンの灯りを反射して、キバナのその目の中にきらりと光が入ったように見えた。
 まるで、星が瞬くようだった。
 木々のざわめきも、満天の星空も、美しい三日月も、全部遠くなったように思えた。それに反比例して、ぐん、とキバナに共鳴するみたいにダンデの中の温度も引き上げられたような感覚がする。心臓が疼いた。早くキバナとまた戦いたいと、自分の心が騒ぎ出す。
 いまこの場所で、ダンデしか知らない、ダンデだけに向けられた瞬き。ダンデだけの星。
 ――同じ光をみている。同じ未来へ共にゆける。そのことが、びっくりするくらいに、どうしようもないくらいに、嬉しくてたまらないと思ってしまったんだ。




(2021年3月27日初出)



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