漆黒の閃光



 太刀川慶という男を知っているか。
 三門市外に出ればほとんどの人は知らないだろう。だって彼は有名な芸能人でも何かのアスリートでも何でも無い。二十歳の、ただの大学生なのだから。しかし三門市内では、もちろん嵐山隊なんかと比べればそれは大きな差があるとはいえ、名前だけでも知っている人ならそこそこいるだろう。
 そう、彼はボーダー隊員なのだ。それもA級、トップクラスの実力者らしい――私はそこまで詳しくは知らないけれど。
 私が彼の名前を知ったのは高校三年生の時だ。その時同じクラスで仲良くなった友達がボーダーが好きで、いやに詳しかったものだからその時に私も少しボーダーのことを知った。彼女が一番好きだったのは嵐山隊の嵐山さんだが、嵐山隊が載っているということで彼女が購入していたボーダーの雑誌――三門市内の書店やコンビニで手に入る、ローカルな雑誌だ――をよく休み時間に一緒に見て、それで他の隊員の人たちの取材や特集も読んでいた時期がある。その中に彼が載っていた。ボーダートップクラスの攻撃手、太刀川慶。写真に写っていた彼は、ゆるく癖の付いた髪の毛に格子模様の瞳が特徴的だった。ボーダートップクラスの攻撃手というのだからもっといかつい人が出てくるのかと思ったけれど、彼からはそんな印象は受けなかったので意外に思ったことを覚えている。ただそこから何かが起きるわけでもなく、数日もすればすっかり忘れていたことだった。

 私が次に彼の名前を思い出したのは、大学に入学して数週間が経った頃だった。学部の必修科目、大きな講義室で行われるその授業に、眠そうな様子で堂々と遅刻して教室に入ってきた人。きょろきょろと空いている席を探した後私の斜め前に座ったその顔に、何だか見覚えがある気がしたのだ。中学や高校が同じだっただろうか? 少しの間考えた後、はたと思い出したのはあの日見たボーダーの雑誌に載っていた写真。あの写真に髭はなかったけど、あの髪と特徴的な目は変わっていない。――太刀川慶、だ!
(……この人が、ボーダートップクラスの実力者?)
 斜め前の彼は机に座るなり、後ろで余っていたのを貰ってきたらしい出席カード代わりのコメントペーパーに名前を記入した後すぐに寝る体制に入ってしまった。もはやノートを開く気配すらもない。……ボーダーの任務で疲れているのだろうか。いやあ、でも、それにしたって。入学早々遅刻に居眠りとは。彼からは私の視線は気づかれない位置なのをいいことにまじまじと見てしまう。そのやる気のなさそうな姿からは、とてもボーダートップクラスの実力者なんて想像もできなかった。
 三門市に住んでいれば、同級生がボーダー隊員とか、隣近所にボーダー隊員がいるとか、そんなことはさして珍しいことでもない。三門市民にとって、ボーダーとはとても身近なヒーローのような存在だ。特にこの三門市立大学はボーダーと提携しているそうで、ボーダー隊員も多く在籍しているそうだった。私はあまり詳しくないが、同級生にも既に何人もいるらしい。その一人が、太刀川慶だった。まさか同じ学部になるとは思ってもみなかった。
 ちなみに、私にあの雑誌を見せてくれた友達は三門市立大学に進学するかでとても迷ったそうだが、最終的には学びたいことを優先して県外の大学に進学していった。私が三門市立大に進学すると言ったとき、彼女は羨ましがっていたっけ。
 ちらりとまた太刀川を見る。私は彼を知っているが、彼は私を知らない。相手は芸能人でもなんでもないのに、そんな関係がどこか不思議な心地だった。
(……しかし、本当に?)
 すぐにすやすやと寝息を立て始めた彼からはとても強さとかオーラとかそういうのは感じられなくて、やっぱりまだどこか半信半疑だったけれど。

 同じ学部なので、それからも私は度々学内で太刀川慶のことを目撃した。彼はいつも穏やか、というか掴みどころのない飄々とした様子で、遅刻だろうがなんだろうがいつだって動じる様子なく教室に入ってくる。授業に来ていないことも多い。もしかしたらものすごく頭がいいから授業をまともに聞かなくてもいいタイプの人なんだろうか? とも思ったが、噂によると単位をギリギリもギリギリで進級したらしいから、単に勉強のやる気がないというだけなのかもしれなかった。
 益々、彼は本当にボーダーの実力者なのだろうかという疑念が深まる。しかしそれもどうやら本当のことらしかった。頭の中で、大学で見かける太刀川慶と、ボーダーの実力者の太刀川慶がうまく噛み合わないまま、私は彼を知っていて彼は私を知らない――そんな関係のまま年月が過ぎた。

 そして、大学二年も終わりに近づいた頃。
 午前の講義を終えて、今日はこれで大学は終わりだ。バイトまで時間もあるし、一旦家に帰ってレポートでも進めるかな。そう思って、帰路についていた最中。
 ――空が暗くなる。何事か、と反射的に思った瞬間、けたたましく警報が鳴った。
 警報が鳴るのは、三門市に住んでいればもうある意味で慣れっこなことだった。もはや日常のようになった近界民とボーダーの戦闘。しかしそれはすべて警戒区域の中で行われることであり、ボーダーができてから近界民の脅威が私たちの日常を直接脅かすことはほとんどない。
 だけど今日は何かが違った。
(空、暗……っ)
 おびただしいほどの「門」の数。こんな数は見たことがなかった。ぞくりと足が竦む。思い出すのは、数年前三門市を襲った近界民の侵攻の日だ。
 普段と何かが違う。
 とにかく逃げなければ。
 なんだこれは、怖い、何が起きてるんだ、と市内のそこかしこから混乱の声。警戒区域の近くにいる市民の皆さんは速やかに避難してください、という放送が市内のスピーカーから流れる。竦む足をどうにか動かして、混乱する頭を振り切って来た方向へと逆戻りしていく。
 すぐにボーダー本部のあたり、警戒区域の中から大きな戦闘音が聞こえてきて、それを背に受けながらできるだけ警戒区域の近くから離れようとする。しかしこの辺りは道が細い住宅街で、避難する人がなかなかうまく流れていかない。どんどん激しく大きくなる戦闘音に焦りばかりが募る中で、どすん、と大きな足音を背後に聞いた。
 人の波の中から上がった、うねりのような悲鳴が耳を劈く。見たことのない、白い異形――恐らくこれも近界民だろう――がまだ少し距離があるとはいえこちらの方へ向かってくるのが見えた。
 ぞわり、と一気に肌が粟立つ。
 近界民はボーダーが抑えてくれる。そのはずだった。その実力はこれまでの実績が証明してくれている。だとすれば、ボーダーでも抑えきれないほどのイレギュラーが発生しているというのだろうか? その事実に、恐怖が足元からせり上がって来る。
 逃げなければ。そう思うのに道は人でいっぱいで思うように動けない。そうしている間にも近界民はこちらへ向かってくる。どうしよう。どうすれば――。
 瞬間。
 空から、黒いコートを靡かせた何者かが降ってきた。それが何なのかを認識するよりも前に、そこにいたはずの近界民が真っ二つになって崩れ落ちていった。
(……いま、なにが)
 その両の手に持った刃がちらりと光る。あまりにも一瞬のことで分からなかったけれど、きっと今あの白い近界民はあの刀のようなもので斬られたのだろう。思わず恐怖すら忘れて、ぱちぱちと目を瞬かせる。
 黒いロングコートがひらりと風に揺れる。どこかと通信しているのか耳に指を当てながら何事か喋ったあとに、その男が振り返る。少し癖のある髪の毛の奥で格子の瞳がこちらを見た。
「大丈夫か? 避難所あっちだから、気を付けて行けよ」
 この緊迫した状況には似つかわしくないほどにゆったりとした、普段と変わらないような声音で彼は言う。
 そういえば、一度だけこの服を見たことがあったと思い出す。あのボーダーの雑誌の写真だ。とはいえあの写真はバストアップだったので、この黒い服がロングコートだったことは今初めて知ったのだけれど。普段はシャツやカーディガンのような綺麗めの格好をしていることが多いから、尚更そのギャップに信じられないような思いだった。
 太刀川慶。――いや、この人、本当に、嘘みたいに強かったんだ。非現実の真っ只中で、私は幾年越しにそのことを知ったのだった。

(2021年1月22日初出)



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