from now on



 あの日々の焼き付くような衝動に絡みついた恋情と、終わりを視た時の諦念と、他にもぐちゃぐちゃの感情ぜんぶ。全部鍵をかけた三年前から今日まで一度も、意地みたいに開かれず、ゆっくりと埃を被っていったそれらを、おれはもうちゃんと過去のものにできたと思っていたんだ。


 本部の廊下を歩いていると、まだまだちらほらと「玉狛の」と物珍しそうな目線が向けられる。それはそうだ、そりゃあ会議やら各種報告やら何やらで勿論定期的に立ち寄ることはあれど、ここ数年はランク戦に来ることもなかったために他の隊員に比べれば本部に来る頻度は圧倒的に少ないだろう。それでも『玉狛支部のS級・迅悠一』という存在は普段関わりの少ない隊員にまでしっかり知れ渡っているようで、実力派エリートだからなぁ、と小さく鼻を鳴らす。
(まあ、今はもう『元』S級なんだけどね)
 休日で賑わうランク戦ブースの横の廊下を通り過ぎて会議室を目指す。と、迅に向けられる様々な目線やざわめきを吹き飛ばすような、まっすぐに迅だけに向けられた声が後ろから飛んできた。
「迅!」
 振り返ると、少し遠くに漆黒の隊服。聞き間違えるはずも見間違えるはずもない、太刀川が口角を上げてずんずんと迅に近付いてくる。
「本部来てたのか、今から――」
「残念、今日はランク戦はできないよ」
 迅の正面まで辿り着いた太刀川が息巻いて言おうとしたところに先回りして答えると、太刀川は分かりやすく唇を尖らせる。まるで好きなおもちゃを買ってもらえなかった子どものようだ。
「何だよまだ何も言ってないだろ。それも未来視か?」
「視なくても分かるよ、太刀川さんがそんな爛々と話しかけてくるなんてランク戦しかないでしょ。残念ながら今日は城戸さんに呼ばれて今後の防衛についての会議、その後は防衛任務。それが終わる頃にはもうランク戦ブースは閉まってる時間だよ」
 ぐ、と太刀川は一瞬押し黙る。会議と防衛任務とあっては流石の太刀川でも次の一手は出せないだろう。
(攻撃手一位目指すからって宣戦布告した直後なのに、なかなかランク戦できないのはそりゃフラストレーション溜まるだろうけど)
 とはいえ、それは太刀川だって迅だって同じだ。本当は迅だって早くまた太刀川と戦いたくてたまらないのだが、残念ながら今は色々とやるべきことが多くてバタバタしているのだった。この先に起こるかもしれない、うっすら視えている相当厄介そうな諸々についての調査、だとか。それを越えたら少しは落ち着けそうなのだけれど。
 太刀川は顎髭に手を当てて少し考えるような仕草をした後、再び口を開く。
「……じゃあ、防衛任務終わった後にメシくらいは行けるだろ?」



 滞りなく今夜の防衛任務を終えた後、換装を解いた迅は太刀川に指定されたうどん屋へと足を向ける。トリオン体でいる時はあまり気にならなかったが、今夜はまたとても冷える夜だ。厚手のコートとマフラーはしっかりしてきたが、手袋も持ってくればよかったかもしれない。吐いた息が白い。大通りから一本入った人通りの少ない道を、カツカツとブーツを慣らしながら歩く。
 迅がその店に行くのは数年ぶりだったが、わざわざ調べなくとも足がその店までの道のりをちゃんと覚えてくれていた。迷わずに店の前まで来ると、太刀川がもう店の前に立っていた。太刀川も迅が来たことに気が付いたようで、ぱっと目が合う。
「おつかれ、太刀川さん」
「おー。早く入ろうぜ、寒い」
 裾にワンポイントの付いた、濃いグレーのマフラーをぐるぐる巻きにした生身の太刀川がそう言って店の方に身を向ける。
(……あ、そのマフラー、高校の時から変わってないんだ)
 高校の頃の太刀川のマフラーの柄だなんて、そんな些細なことを覚えていた自分に驚いた。
「どうした?」
「んー、何でもない」
 僅かな動揺を悟られないように、お得意の飄々とした表情を貼り付けて答えた。太刀川の吐いた息も、師走の夜空に白く溶ける。

 閉店時間の近付くうどん屋は客もまばらで、迅と太刀川は店の端の窓際の席に通される。暖房の効いた店内に、外を歩いて冷えた体が温度を取り戻していく心地だった。かじかんだ指先に急に血が巡り出して熱いくらいに思う。席につくなり太刀川はメニューも見ずにコロッケうどんを、迅はメニューをざっと確認した後釜玉うどんを注文することにした。
 注文を終えた後、太刀川は「あー、頭使ったから腹減った!」と心底疲れた様子で言って息を吐く。この遅い夕飯の約束をした後太刀川は個人ランク戦ブースに戻っていったはずだったが――迅には、正直うっすらと視えていた。生き生きとランク戦をする太刀川と、パソコンの前で眉間に皺を寄せた風間に監督されながら唸っている太刀川の姿だ。何の作業をしていたかまでは読み取れなかったが、太刀川がパソコンの前にいるのもやる気ゼロで唸っているのも、そこから導き出される答えはひとつしかない。
「大学の課題でもやってたの?」
「そうなんだよ、来週出さないといけないレポートがあって、俺は別に提出前日にやればいいだろと思ってたんだが風間さんにバレて捕まった。『そう言ってお前はいくつ単位を落としてきたか分かってるのか?』って」
「あー……」
 想像できすぎて迅はつい吹き出してしまいそうになった。
(そういえば、この間会った忍田さんも太刀川さんが進級できるか心配してたな)
 正直、おれの未来視でもなんとも言えなくて、苦笑することしかできなかった。みんな何だかんだ太刀川さんの学業面、特に進級できるかどうかを心配しているし、それにうっかり追試や補習となれば防衛任務のシフトも組み直さなければならなくなるかもしれないのでボーダー的にも影響が出る。学業が関わるとA級一位の威厳はどこへやら、だ。太刀川が今どうにか大学生をやっているということ自体、迅からすればにわかには信じがたいくらいである。
「迅と約束があるって言って早めに逃げ出してきた」
「え-、おれダシに使われたの? ほんとに進級できなくても知らないよ」
「まあなんとかなるだろ、多分」
 そんなやりとりをしている間に、先程注文したうどんが運ばれてくる。迅は正直なところそこまでお腹が空いている自覚はなかったが、目の前にできたてのうどんが置かれると急に空腹感を覚えるのだから人の体というのは現金なものだ。
 ぱきんと割り箸を割る小気味良い音が響いた後、いただきます、と言って二人でうどんを啜り始める。一口食べた釜玉うどんは、高校生の時に食べたものと変わらぬ味だ。この時間に食べるにも丁度良い優しい味付けが腹の中に染み渡る。
 食べながら迅は、ちらりと目の前の太刀川を盗み見た。あの頃は顎髭もなくて、制服姿で、もう少し身長も低かったはずだけれど。あの頃の光景と今目の前の光景が重なって見えた。
(……ああ、なんか、なつかしいな)

 今から三、四年ほど前。まだ迅が風刃を手にする前、お互いに高校生で、毎日のように飽きもせず個人ランク戦で競い合っていた頃。あの頃、時間も忘れてランク戦をし続けて高校生はもう帰れと鬼怒田をはじめとした大人たちにブースから追い出されては、しかしまだ直帰するには熱量が冷めやらず、感想戦も兼ねてこんな風に二人で遅めの夕飯を食べに行ったものだった。高校も同じだったので、どうせ目的地は同じなのだからと学校帰りに太刀川の自転車に乗って本部に向かう途中に「腹が減った」と言い出した太刀川のために寄り道して軽くご飯を食べることもあった。
 このうどん屋も、ちょうど高校から本部に向かう道の途中にあって、二人でよく来た店のひとつだった。二人で今日のランク戦のあの攻撃のタイミングがどうだったとか、戦術がどうだったとかそんな話ばかりをして、そしてたまに学校やボーダーであった面白い話とか、補習や課題がめんどくさいみたいな話もしたりして。
 太刀川は、今のボーダーが設立されて間もなく入隊してきた。最初は沢山入隊してきた隊員の一人、としか認識していなかったのだが、忍田の指導の下あっという間にボーダートップクラスの実力を身につけた太刀川と始まったばかりのランク戦で一位を競い合うようになってからの日々は、迅にとってこれまでに経験したことのないくらい毎日が楽しくて刺激的なものだった。
 太刀川が生来持つ動物的な勘や戦闘センスに加えて、忍田仕込みの剣術、月見仕込みの戦術。迅の未来視でも捉えきれないほどの、捉えられたとして身体が追いつかないくらいの多層に纏った強さに、この男に勝ちたいと本気で思わされてしまった。それは弾けた閃光のようで、燃えさかる炎のようで、鋭い刃のようで。
 こんなに夢中になる、ムキになるみたいに執着する相手が自分にできるなんて我ながらおかしかった。それでも、そんな自分を余裕ぶって笑うのも面倒になるくらいに迅の欲望と衝動は太刀川慶という一人の男を求めてしまった。

 毎日が楽しくて仕方なくて、ランク戦以外の太刀川と過ごす時間も楽しくて、――その感情が友人や好敵手の範疇を超えてしまったと気付いたのはいつだったろう。
 この男の表情の読み取りにくい深い色をした瞳が、自分だけを捉えるのが嬉しかった。交えた剣から伝わってくる明確な興奮と鋭い殺意と喜色にたまらない優越を覚えた。二人で過ごす何気ない時間が不思議なほど楽しかった。もっと欲しいと、その肌に触れたいと、捕まえようとしたって捕まってくれそうにないこの男の全部を手に入れたいなんて思ってしまって――。
(……っ、う、わ。まずいな)
 ぶわり、と体温が上がるのを感じた。懐かしいついでに、押し込めて鍵をかけてもう一生開けないつもりだった感情まで一気に蘇りそうになってしまう。
 あの頃、この感情は太刀川にはついぞ伝えなかった。自覚したのと同じ頃に、風刃争奪戦が行われること、そして自分がS級に上がってランク戦から外れる未来が視えてしまった。この日々が終わってしまうのなら、それと一緒にこの気持ちは封印しようと決めたのだ。
(もう全部、過去のものにできたつもりだったのに)

「迅? どうかしたか、ぼーっとして」
 どうやら太刀川にも気付かれてしまうくらい考え込んでしまっていたらしい。迅は先程までの思考を無理矢理振り払おうとするように、何でも無い風を装って返す。
「んー、なんか、変な感じだなって。太刀川さんとランク戦もせずにこうしてご飯食べてるの」
「俺はランク戦もしたかったぞ」
 間髪入れずに太刀川が言う。それは昼間に本部の廊下で見た時と同じ拗ね方だった。子どもか、とまた思っておかしい。太刀川はうどんのつゆに浸かってふやけたコロッケを一口囓って、もぐもぐと口を動かしながら再び口を開く。
「――それに、まぁ、別に変な感じでもないだろ。昔は二人でメシもよく行ってただろ、ランク戦終わった後もそうだし、学校の帰りとかでも」
 事も無げに言う太刀川に、覚えていたのか、とそれだけで嬉しくなってしまう自分に気付いて呆れた。
 懐かしさに思い出された記憶と共にあの頃の感情まで蘇ってきて、引っ張られてしまう。脳内で黄色信号が光る。
「……本部で太刀川さんに会ったらランク戦に誘われるだろうなとは思ってたけど。ダメならメシだけでもって言われるなんて、意外だったんだよ。だっておれたち、全然会ってなかったじゃん」

 迅がS級に上がって以降、つい先日『黒トリガーを回収しろ』という城戸の命により出動した太刀川らと剣を交えたあの夜までの間。それまでの日々が嘘みたいにぱたりと会う機会がなくなってしまった。迅自身も師匠である最上の黒トリガーを手にして思うことがないなんてことはなく、自分らしくもなくだいぶ感傷的になっていた時期であったし、太刀川も迅が突然ランク戦から外れたことで珍しくしばらくは調子を狂わせていたらしい――と、少し後に会議で顔を合わせた風間から聞いていた。学校でも本部でも会おうと思えばすぐに会えたはずなのに、今まで当たり前のようにそうしてきたはずだったのに、お互いにそれを選ばなかった。
(……本当は、意識的に避けてた部分もあったんだけど)
 会議や迅が指導役としてたまに担当する遠征訓練などで顔を合わせて、挨拶くらいはすることはあれど、それ以上の会話は取り立ててなかった。風刃を手にした時に、朧気ながら太刀川たちと対峙する未来も視えて、できるだけ風刃の性能を隠しておいた方が良いと察したということもある。……だけど一番は、何かを言えば、あの日々に感情を引っ張られてしまいそうで。
 この三年間、そうして過ごしてきた。自分がランク戦に復帰したら太刀川も戦いたがってくれるだろうということはきっと自惚れではないだろうとは思っていたが、しかしこうしてまた、三年の時の流れなんて全くなかったみたいにあの頃と同じようにランク戦以外の場でも一緒に過ごそうとしてくれるなんて驚いたのだ。
「そんなに意外か? ……確かに俺は戦ってる時のおまえが最高に好きだが、別にそれだけじゃないぞ。人を身体目当てみたいに言うな」
「……太刀川さん、それは語弊がある」
 変な言い方をされて少し動揺した後、太刀川の言葉を咀嚼してじわりと心の中に嬉しさが滲んだ。ああ、いやだな。好きだなんて単語を持ち出されて、浮かれてしまう。三年の時を経て、あのランク戦の日々を楽しかったと思い返すことはあれど、この恋情に心が強く波立つことはなくなった。もう過去のものにできた、とそう思っていた。はずだったのに。
(……おれは、この人を目の前にすると、だめだ)
 呆れた。おれは、この人のことに関してだけは、あの頃から全然変わっちゃいない。この男の前では何もかも剥き出しにされてしまう。
 鍵が外れて落ちる、驚く程に軽い金属音が聞こえた気がした。
 つい十数分前まで平然といられたのが信じられないくらいに、一度思い出してしまえば感情の箱の鍵なんていとも簡単に開いて、ぶわりと一気に溢れ出す。
「俺はこうやっておまえとだらだら過ごすのも好きだ。多分俺は、おまえが思ってるよりも、だいぶお前のことが好きだぞ」

 ――言われた瞬間。嬉しさが辿り着くよりも先に、目の前でばちん、と未来が弾ける。
 自分と太刀川が楽しそうに笑い合っている未来だ。楽しそうに、あの頃みたいに一緒にいて、そしてあの頃よりも近い距離で手を取り合って――。
(うわ、なに、これ)
 こんなにはっきりと視えてしまうなんて、可能性の高い未来、なわけで。

 三年と少し前。自分がランク戦を離れる未来を視た時に抱いたのは、諦念にも似た感情だった。
 そうか、この楽しい時間は終わりが来てしまうのか。永遠なんてないと知っていたけど、でもこうして目の前に突きつけられると呆然としてしまった。だけど同時に、風刃を他の誰かに譲るなんてことも考えたくなかった。それに、レベルアップは出来る時にしておくべきだ、とこれまで見てきた景色の数々で痛感していた。だから。
 自分にしか視えていない未来を思って、理屈としての正しさと様々な感情で立ち尽くした日も、この男が楽しそうに「ランク戦やるぞ、迅!」といつもと何も変わらず終業後の高校の廊下を駆けてきたことを、皮肉なほど鮮やかに今でも思い出すことができたことに驚いた。
(……こんな未来を視る時が来るなんて、ねえ)
 あの日捨てたはずの期待を、拾い上げてみてもいいのだろうか。
 言うならこんな、うどんを食べながらじゃなくてもっといいタイミングがあるのではないかとちらりと過ぎる。しかしおれたちに今更ロマンチックなんて似合わないし、それに何より、こんな未来を視てしまったらもう待ちきれそうになかった。この未来を、どうしても、掴みたくなってしまった。
 ああ、本当にこの男と相対した時は自分のペースなんてあったもんじゃない。だけど、そんなことすら楽しく思えてしまうのだからもう降参、こればっかりは白旗だ。

「ねえ、太刀川さん」
「どうした?」
 名前を呼ぶ。あの頃とは違う髭面で、あの頃と同じ一見気怠げなまなざしが、正面から迅を捉えて次の言葉を待ってくれる。
「……笑わないで聞いてよ。いや、笑ってくれた方が気が楽かもしんない」
「なんだよ、回りくどいな」
 意を決して、すう、と息を吸う。食べかけのうどんの美味しそうなにおいと、血が巡ってじりじりと熱い指先と、閉店間際のまばらなざわめきに包まれた店内と。できるだけ何気ない風に、大事にならない風に、しかしまっすぐに逃げ場無く突きつけるように、太刀川と目を合わせた。
 自分らしくない、ことは自覚している。けどこの人に乱されるならば上等だ。
「……あのさ、あの頃……いやほんとは今もなんだけど。おれは、太刀川さんのことが――」



(2020年10月4日初出)



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