ビニール傘とラブソング



 今日とっている講義をようやく終えて――実際のところほとんどの時間は睡眠かランク戦の戦術を考える時間に費やされて、教授たちの言葉なんて太刀川はひとつも聞いていやしなかったのだが――大学の門を出たところに、思いがけない顔を見つけたので驚いた。
「おつかれ、太刀川さん」
 へらりと笑った迅は、片手に持った二つのビニール傘のうちのひとつを太刀川に差し出してくる。そうだ、今日は傘を忘れたなと思っていたんだ。朝の情報番組でちらりと見た天気予報では、今日の夕方以降の降水確率は九十パーセント。今のところ雨は降っていないけれど、今すぐに降り出しても不思議ではない重苦しい曇天が空を覆っている。太刀川は迅に差し出されるままにビニール傘を受け取りながらも、迅に聞く。
「このためにわざわざ?」
 太刀川がそう言ったところで、ぽつり、と雨が降り始める。「お、間に合ってよかった」と言った迅は手に持った傘を広げる。太刀川もそれに続いて迅に借りたばかりの傘を広げた。迅はゆったりとした歩調で歩き出しながら太刀川の問いに答える。
「おれ、さっきまでこの近くで防衛任務だったんだよね。その後ちょっとぶらぶらしつつ本部行くつもりだったんだけど、太刀川さんがずぶ濡れになる未来が視えちゃってたからさー」
 それで実力派エリート直々に来てあげたってわけ、と迅は楽しそうに笑う。雨はすぐに勢いを強めて、二人分のビニール傘をいくつもの粒が叩いていく。これは確かに、傘なしで本部まで行こうと思ったら見事にずぶ濡れになりそうだ。
「それは、ありがとな。助かった」
 太刀川が礼を言うと、迅が傘の向こうで穏やかに目を細めたのが見えた。水が溜まり始めたアスファルトの窪みをひょいと大股で飛び越えながら迅が言う。
「本部でヤボ用を少し済ませたら時間ありそうだからさ、今日はランク戦できると思うんだけど」
「マジか! やろう、今日は何本だ?」
 すぐに食いついた太刀川を見て、迅はおかしそうにくつくつと笑う。
 少し前に迅がランク戦に復帰して、ここ最近は趣味の暗躍だとかなんとかも少し落ち着いているらしく本部まで出向いてランク戦をやることも多くなった。長いことS級としてランク戦から外れていた迅が復帰したとあって、なんだかんだいっても迅と戦いたいと言い出す隊員は多くランク戦ブースに姿を現せば引く手数多のようだ。
 しかしそんな迅自身が、こうして何でもないような顔をしてわざわざ太刀川がずぶ濡れにならないように迎えに出向いて、太刀川にランク戦の予約をしてくる。そのことが太刀川をより高揚させた。
 そんな迅のことがつい愛おしく思えて、傘で離れたこの距離がどうにも邪魔だという気になってきて、太刀川は降りしきる雨の中にも関わらず自分の傘を閉じる。そんな太刀川に気付いて迅が「え? 太刀川さん、何――」と言いかけたところで迅の傘の中に入ってやった。これには迅も驚いて目を丸くしていた。迅がそうしている隙に、その手に握られている傘の柄を奪ってやる。身長はそれほど変わらないからどちらが持ったっていいのだが、自分が柄を握ったのは迎えに来てくれたという礼のつもりでもあった。ごく普通の、コンビニでも大量に売っているようなビニール傘は男二人で入るとだいぶ狭い。太刀川は自分の肩が傘に入りきらずに濡れるのがわかったが、この程度は気にするほどでもない。それよりも。迅と肩をぶつけ合うくらいに近付いたことの方が太刀川の心をずっと満足させた。
「……誰か知り合いにでも見られたらどうすんの、大の男二人で相合い傘なんて」
 迅が耳をわずかに赤くしながらきょろきょろと辺りを見回す。しかし丁度本部までの近道でもある細い路地に入ったところだったので、周囲に人の目はなかった。それを確認したらしい迅は、少しほっとした表情になる。
「別に見られても困るもんじゃないだろ、今更」
 迅は一瞬ぐっと押し黙った後、「恥ずかしいでしょ」と唇を尖らせる。
 自分たちの関係性に新しい名前が加わったのは、迅がランク戦に復帰した少し後のことだった。それを別におおっぴらに公表はしていないが、隠してもいない。迅は最初は隠したがっていたが、隠したってどうせ察しの良い人間の揃ったボーダーだから限界があると思っていた。そしてその予想通りあっという間に噂は駆け巡り、今や面識のある隊員にはほぼ全員バレているという状態である。
「これ、嫌か?」
 そう太刀川はにっと笑いながら迅の顔を覗き込むと、迅は肩をすくめる。
「……その聞き方は、ずるくない?」
 つまり、迅にとってもこの行為自体は『嫌じゃない』ということだ。本当に可愛い奴だな、とつい笑いそうになる。つい最近まで長いこと離れていたというのに、高校も同じで毎日のようにランク戦をして一緒に過ごしていた頃にも知らなかった迅の顔を、この関係になってからどんどん知っていっている。それが太刀川は楽しくて仕方がなかった。
 雨は強くなる一方で、ひとつになったビニール傘を外から雨粒が容赦なく叩いていく。水たまりにうっかり片足を入れてしまって、水がぱしゃりと小さく跳ねた。
「折角傘二つ持ってきたのになぁ~」
 すぐ横でしょうがないなと言わんばかりに苦笑する迅は、しかしどこか楽しそうでもあった。その横顔をこんなにも近くで見られることに、太刀川は自分でも驚くほどに満足したような気持ちになったのだった。



(2020年10月17日初出)



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