ネバー・エバー・エンディング



 玄関から鍵が開かれる音がして、読んでいた漫画から顔を上げる。出水から借りていた最近おすすめだという漫画のコミックスをぱたんと閉じて目の前のローテーブルに置き玄関の方に視線を向けると、玄関の扉が開く音、閉じる音、鍵を閉める音。その後普段よりも少しだけ重そうな足音と共にリビングの戸が開かれた。
「ただいまー。はー肩こった」
 そう言いながら帰ってきた迅は、大きく息を吐いて肩を回す。コートを脱いでハンガーにかけ、ラフなジャケットにスラックス姿になった迅はソファの太刀川の隣のスペースにぼすんと勢いよく座った。迅の体重分だけソファの隣が沈む。よく使うスペースになるんだからと他の家具よりも少し奮発して買ったこのソファを一人で独占していた先程よりも、それに不思議と何かピースが嵌まったような感覚になるのだから不思議なものだ。この生活に自分もすっかり慣れたということだろう。
「なんだ、やけに疲れてるみたいだな」
 そう言ってやると、よくぞ聞いてくれましたとばかりに迅が太刀川の方を見る。
「書類仕事に会議会議会議! や、別にそれも嫌いなわけじゃないけどさ、一日中続くとさすがに肩こったよ」
 そんなことを言う迅に太刀川はつい笑ってしまう。いつだって余裕をその顔に張りつけようとするこの男が疲れたと子どものように喚くのは何だか年齢よりもずっと幼く見えて――それこそ、出会った頃のやたらと大人ぶろうとしていた頃よりも――なんだかおかしかった。このおかしいは、好ましいと同義だ。そして同時に、昔遠征の報告書やら隊長が作らなければならない書類やらの仕事の度に苦しんでいた自分を迅が高みの見物とばかりにからかっていた頃を思い出してざまあみろというような意地悪心も芽生える。
「お前も前線に戻ればいいのに」
 太刀川の言葉に、迅は苦笑する。
「それは城戸さんに言ってよ。一応戦闘員も辞めちゃいないけどね」
 なんだかんだと言いながらも、迅が今の場所だってそれなりに気に入っているだろうことを太刀川は知っている。

 数年前。何度かの大規模な三門侵攻や遠征を繰り返す日々の末、三門市に開いた門はそれまでの比にならないほどの大きさだった。第二次大規模侵攻と呼ばれたあの戦いさえも大きく上回る、死闘と呼ぶに相応しい戦闘の結果、幾ばくかの被害は免れなかったものの近界諸国との戦いにもそこで一端の終結を迎えた。玄界の侵略を計略してきた主な大国とは停戦の条約を結び、近界にいくつかの同盟国をつくり――かつて、旧ボーダーの頃にもいくつか結んでいた同盟があったらしく、それも復活したのだという――それ以降は大規模な侵攻は起きてはいない。条約や同盟に絡んでいない国がたまにこちらの軌道に近付いてきた時にちょっかいをかけてこようとすることもあるが、しかしそれもこれまでと比べれば小さなものである。
 かくしてボーダーは、「界境を防衛する、近界民を排除し三門を守る」という形から「近界とも協力・協調し共存を目指す」ことを表面上の主目的へシフトすることとなった。それは迅が所属している玉狛の方針に近い。それは、ボーダーの存在がまだ公になる前から当時の所属員が目指してきたことでもあったのだという。
 しかしまだこちらにちょっかいをかけてこようとする国もあるし、条約を結んだといえそれは「停戦」である。いつか再び攻め入られる可能性もゼロではないし、近界の同盟国に交友を兼ねて遠征した際に致し方なく戦闘になる可能性だってある。
 ボーダーは近界との調整の役割を主とする組織に変わりつつ、玄界防衛の役割も変わらず担っていた。そのための戦闘力を磨くことは今も続けられている。
 それでも毎日のようにサイレンが鳴り響かない、近界民との戦闘が日常的に起こらない生活は、時折不思議になるほど平和だ――と思う。あの日、三門市にゲートが開くまではこれが太刀川にとっても日常だったというのに。
 近界との戦闘が一旦集結を迎え、ボーダーの形が変わり始める頃。それをひとつの区切りとして、ボーダー隊員達もこれからの身の振り方を考えることとなった。
 ボーダーを続ける者、一般人に戻る者、戦闘員からエンジニアなどの裏方に転身する者、別の仕事をしながらできる時にボーダーに協力する者など皆さまざまな道を選んだが、迅と太刀川は二人ともそのままボーダーに就職をすることに決めた。
 年齢と共に迅の未来視のサイドエフェクトは少しずつ弱りつつあるというが、しかしそれは迅自身が想定していたよりも然程大きな問題にはならないようだった。ボーダーにもこれまで得た膨大な情報が蓄積し、自分たちが最前線を張っていた頃よりもずっとデータと経験則で対応できることが増えた。
 それに迅についても未来視がなくたってこれまでの経験値や直感でそれをある程度補うことができ、その強さが褪せることなどなかった。寧ろ未来を視るのに夢中になって瞬時の判断が手落ちになることが偶にあったこれまでよりも、迅自身の勘と判断だけで切り返される時の方が速く鋭く、避けきれないことだって多い。
 未来視はずっと迅の一部であり、迅の強さのひとつだった。しかしそれが迅のすべてなどではない。今でも変わらずの強さと判断力を持つ迅は変わらず玉狛に所属しつつも、ボーダーでもかなりの古株であることに加えて経験値・実力を買われ、最近では戦闘員よりもより内部的なこと、ボーダーの核の部分の仕事を担うことが増えた。出世にはつきもののデスクワークやら会議やらもその分増えた。有事の際には戦闘に出るが、書類仕事や会議などが日々の主立った仕事である。忍田と似たような立ち位置だ。
 太刀川は今も肩書きは立派な戦闘員である。今でも忍田に次いでのノーマルトリガーの実力者の座は譲っていない。戦闘員とはいえ現在は近界民による市内攻撃が起きることもほとんどないので、実質的な今の主だった太刀川の仕事は近界遠征と後任指導となっていた。その経験値とまだまだ未知の環境への適応能力、圧倒的な戦闘力への評価、とりわけ近界遠征に関しては本人の希望による配置である。
 そして、ボーダーに本格的に就職するのを互いに決めた頃に、迅と太刀川は本部と玉狛のちょうど中間くらいに位置するマンションに二人で住むことを決めた。
 迅が風刃を本部に渡しランク戦に復帰した少し後から、二人の関係性は恋人へと変わった。変わってしまえば、それが驚くほどにしっくりきてしまうのだから不思議だ。自分の感情は迅に告白をされてから自覚したが、お互いに高校生だった頃からお互いがお互いの特別で、唯一であったことには間違いがなく、その延長線上に生まれた感情だと思えばすとんと腑に落ちた。だいたい、自分は感情に積極的に名前を付けようという質でもない。迅が自分の感情に付けたその名前に、ああそうか、俺もそうだと思ったのだ。だってその涼やかな青い瞳は、太刀川の前でだけ同じ熱を灯していたから。迅が太刀川を選んだことが嬉しかった。自分の中にこんな独占欲のような感情があったのかと驚かされる。しかし迅だって同じようだった。迅の感情に、言葉に、その熱に触れる度、底のない自分のその感情の形を知る。それは末恐ろしいようでもあって、同時に笑えるほどに楽しくもあった。
 数年間の付き合いの末、ボーダーへの就職を決めたタイミングで迅が一緒に住まないかという提案を持ちかけてきた。その時の迅は意外なほどにすっきりとした顔をしていたことを覚えている。軽い思いつきのような口調はしていたが、迅なりに色々考えて、そして辿り着いた結論なのだろう。迅といるのは楽しいし、帰る家が同じになればお互いに忙しい時期でも顔くらいは見られるだろう。付き合い始めてからの二人の逢瀬は専ら一人暮らしをしていた太刀川のアパートだったが、太刀川から玉狛まではそれなりに遠かったので移動が面倒だろうとは思っていたし、お互いに忙しい時期であれば何週間、何ヶ月とまともに会わないことも珍しくはなかった。寂しいなんて言う柄ではないが、しかし顔を見られないよりは見られる方がずっといいのは間違いない。一緒に住むことを断る理由など何もなかった。二つ返事で了承した太刀川に迅はらしいなあと苦笑したけれど、その瞳がひどく楽しそうに嬉しそうに細められて、その顔を好きだなと思ったのだった。
 互いに相談して決めた新居の条件は本部と玉狛の間くらいということと、二人で寝られる広いベッドが置けるということくらい。不動産屋に行けば本当にそれだけでいいのかという反応をされたものの、丁度いい物件があったらしくとんとん拍子に話は進み、リノベーションされたばかりの広々としたこのマンションが二人の新しい家となったのだった。

「あーでも、久々に模擬戦はやりたいかも」
 ソファに体を預けながら迅はそう言って太刀川の方を見る。その目にはかつてランク戦で一位二位を競って昼夜戦い続けた頃と同じ負けん気と自信が宿っている。お互いに歳は重ねても、立場や世界が変わっても、ずっと変わりやしないその炎。太刀川はそんな迅の顔が一等好きだった。
「やろうやろう! 明日はどうだ?」
 途端にわくわくと心が疼いて前のめりになる太刀川に迅は笑う。迅だって同じように心が疼いてたまらないくせして自分だけ余裕ぶるのだから、面倒なヤツだと思う。でも太刀川はそれもまた迅らしいと思って嫌いではなかった。
「やりたい気持ちはやまやまなんだけど、太刀川さん明日は一日次の遠征に向けての会議と訓練でしょ? おれも明日は色々打ち合わせとかあって忙しいんだよねー」
 そう言われると、ぐ、と言葉に詰まる。それは確かにそうなのだ。そして自分と迅が一度戦い始めてしまえば、時間も忘れてもっともっととなってしまうことはこれまでの経験上明白なことだった。
「そうだな、次の金曜とかはどう? その日はおれは昼までで会議は終わり、あとは書類仕事さえ終わればフリー」
 迅はそう言ってにやりと悪戯っぽく笑う。金曜は太刀川も非番だ。
「言ったな。絶対書類終わらせろよ」
 太刀川の言葉に、太刀川さんにだけは言われたくないな! と迅はおかしそうに笑った。しかしその後、わざとらしく気障ったらしい表情を張りつけて迅は太刀川に向かって言う。
「まぁ、おれを誰だと思ってるの? そこはこの実力派エリートにお任せあれ」
「おーおー、頑張れ」
 そう笑う太刀川に迅の顔が近付いてきて、唇同士が触れる。触れただけで離れて、至近距離で迅が太刀川に笑いかける。その瞳の奥には先程と似た、しかし明確な情欲も伴った炎が揺れる。
「まー、模擬戦は金曜のお楽しみとして……今はこっち、ね?」
 迅が再び唇を重ねてきて、舌が太刀川の唇のあわいをなぞる。誘うように唇を薄く開けば、その隙を逃さず舌が太刀川の口内にねじ込まれた。舌同士を絡ませたり歯列をなぞったりと好きなように太刀川の口内で遊びながら、器用なもので同時に迅は太刀川の服の隙間から手を滑り込ませる。生身で外を歩いてきたばかりの冷えた手が太刀川の腰を煽るようになぞった。その冷たさと煽るような手つきにぞわりと小さく腰が震える。それは冷たさへの驚きという純粋な体の反応であると同時に、この先への明確な期待でもあった。
「性急だな。エリートらしくないぞ?」
 呼吸が苦しくなって離れた唇、ぷは、と呼吸をした後再びキスが降ってきそうな直前に太刀川はそうからかうように笑ってやる。リビングで、シャワーも浴びず、明かりもつけたまま。夕飯だってまだだ。付き合い始めの頃は、もっとムードとかあるでしょなんて迅に言われたのは太刀川の方だったというのに。しかし迅はそんな太刀川の言葉を意に介さないようにいなす。
「いーでしょ、二人だけなんだから」
 ――それは太刀川の前では見栄を張らず思うままの自分でいてもいいということを、迅が自分に赦しているということでもあった。
(昔に比べれば随分と成長だよな)
 昔は一見自由な風をしてがちがちに自分を縛るのが趣味なのか? と思うくらいかたくなで、人の未来ばかり気にして最後は自分で背負ってばかりで、他人にその荷物を預けるのが下手くそだったくせして。
 しかしそんな迅の変化を、太刀川は心から嬉しく好ましいと思う。そしてなにより、優越感も強い。
 別に本気でムードを作れなどど言うつもりは毛頭無い。性急なのは嫌いじゃない。この男の素直な欲を、飾らずにぶつけられるのは好きだからだ。今だって素直にぶつけられる迅の熱に、こちらだって煽られている。楽しいと思うし、好きだと思う。
 そう思えばもっとと触れたくなったのは自分の方だった。今度はこちらからキスを仕掛けて、お返しとばかりに迅の腰の辺りに手を這わせる。隙間から手を入れてやろうとすれば、重なった唇の端が上がったのが分かる。唇を重ねているから叶わないが、もし今口が自由に動かせたなら迅は「まったくもう」なんて呆れたような口調をしながらもやたらと甘ったるい声で言い出しそうだと思った。
 迅の手が太刀川の後頭部に触れて口付けが深くなる。こと性感という意味では太刀川の体中の弱いところなんてもうとっくに知り尽くしている迅が太刀川の口の中を自分の舌で犯していく。流れるような動作でソファに押し倒されて再び離れた唇、逆光になった迅の顔が欲に濡れていて、もう数え切れないくらいに見た顔だというのに新鮮に煽られた。体の熱がじわりと上がっていく。もうずっと飽きもせず――付き合い始めた頃から? いやもっともっと前からだ――、この男が、この男が自分に向ける熱が、呆れるほどに好きで、欲しくてたまらないのだ。





(2020年11月13日初出)



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