星雲ほしぐもランデブー



 屋上に出ると、冷たい風がひゅうと吹き抜けて生身に突き刺さるように感じられた。迅は小さく体を震わせる。吐いた息が夜を一瞬白く染めて消える。薄く雲のかかった空は高く、星がいくつも瞬いていた。玉狛支部の屋上は景色が良くて開放感があるので、迅のお気に入りの場所だ。遊真なんかもよく来ているらしい。考え事をしたい時とか、なんとなく眠れない日とかに時間を過ごすのにここは丁度良い。例えば、今日みたいな日に。
 迅はゆっくりとした仕草で屋上の縁まで行き、そこに腰掛けて少し顔を上げてみる。視界に映るのは屋上の入口のドアと、夜の空と、三門の夜景。もうすっかり見慣れた、迅にとって落ち着く景色だ。それこそ何年も前から――高校生の頃もこんな風に過ごした夜があったことを思い出す。青くさくて、少しだけ恥ずかしくて、でも最高に楽しかった日々の記憶だ。肌身離さず身につけているトリガーに迅は無意識のうちに手で触れていた。これまでより少し小さくて、少し軽い。かつてはこれが当たり前だったはずだというのに、まだ何だか少し不思議な感じのするノーマルトリガー。
 迅の吐いた息が空気を白く染める。その呼吸が何だか普段よりわずかに熱っぽい気さえして、迅は内心で苦笑する。冷静なふりを貼り付けてはいるものの、身体が今もなお昂ぶって仕方がないのだ。

 今日は久しぶりに――本当に久しぶりに太刀川とランク戦で戦った。三年と少しの間、迅は黒トリガーである風刃を使っていた為にランク戦から離れざるを得なくなり、その間太刀川と刃を交えることはなかった。先日の、遊真の黒トリガーを回収せよという本部の令により太刀川たちが迅に刃を向けた時までは。
 その後迅は取引として遊真のボーダー正式入隊を認めさせる代わりに本部に風刃を渡し、迅はA級隊員に戻った。つまり、ランク戦の参加資格を再び得ることとなったのだ。それを伝えた時の太刀川の喜びようを思い出して、迅は自分でも気付かないうちに口角を上げてしまっていた。
 あの日々にあった熱を疑っていたわけじゃない。けれど太刀川がまだ迅とそんなにも戦いたいと思っていること、またランク戦で戦えることが嬉しいと思ってくれている、ということが嬉しかった。迅だって同じだからだ。同じ分だけの熱量を今なお互いに宿しているということを確認できたことが嬉しかった。
 お互いになんだかんだとバタバタしていてなかなかすぐにとはいかなかったが、少し空いた時間があった今日、ようやく太刀川と三年ちょっとぶりのランク戦を果たすことができた。
 風刃を本部に渡すきっかけとなった件の戦闘の際も太刀川たちとは戦いはしたが、あの時は負けられない事情もあったし、迅は黒トリガーを使って太刀川だけでなく風間隊など複数人を一度に相手取らなければならなかった。純粋に、太刀川と一対一で、ただただ互いの強さを食らうためだけの、互いに勝つためだけの勝負は本当に久しぶりに感じられて自分でも驚いてしまうほどに楽しくてたまらなかった。ああこれだと、自分はずっとこれが欲しかったんだと、押し込めたつもりすらなかった大きな欲求をこじ開けられてしまったような心地だった。
 その時間だけは何もかもを忘れて、ただの剥き出しの迅悠一として、自分の全てで太刀川の一挙手一投足に向かい合う。未来を視て出し抜いたかと思えば、思わぬところから振り落とされる刃に翻弄されかけて、神経を集中させてスコーピオンで受ける。太刀川の急所を割こうとすれば、寸での所で致命傷を回避され反撃される。太刀川の強さは何よりも自分自身がよく知っている。刃がぶつかり合う音が鼓膜を揺らす度に、その太刀川に勝ちたいという熱がゆらめいて燃え上がった。この三年間、どんなに楽しいことがあっても、嬉しいことがあっても、面白いことがあっても、ただひとつだけ満たされなかった場所が一気に満たされていくような感覚。楽しくてたまらなかった。そうだ、あの頃のおれは、これが大好きでたまらなかったんだ。褪せかけていた思い出が鮮やかに、実感を伴って思い出される。
 ――そうしてあの頃に戻ったみたいに夢中で刃を交えて、夜、帰宅してからもその熱がなかなか冷めてはくれなくて。生身に戻って自室のベッドで目を閉じてもうまく寝付けず、眠ろうとするのにも飽きたし一度冷たい風にでも当たってこの気持ちを落ち着けようと思ってこうして屋上に出てきたのだった。
 流石に部屋着のままではと思って一応はコートを着てきたけれど、それでも真冬の風は容赦なく冷たい。しかしその冷たさがどこか心地が良かった。真夜中、街が眠る時間。星々と街中のいくつかの明かりが灯っている以外は静かなものだ。遠くに見えるボーダー本部の方にもちらりと目を向けたけれど、あちらも今日は静かなようだった。
 少しだけ大きく息を吸ってみる。冷たく澄んだ冬の空気が肺に入ってきて心地が良かった。自分以外の生き物の気配がない静かな夜の中、冷たい風に当たって、澄んだ空気を身体の中に取り込んで、頭の中がゆっくりと整理されていくような心地だった。しかし、心の中に灯されてしまった炎はその温度を下げることなく、落ち着いてくれる気配もなく、今も迅の中で揺らめくままだ。

 高校生の頃。太刀川と毎日のようにランク戦で競い合っていた頃にも、たまにこんな風に眠れなくなった夜があった。太刀川と戦うのが楽しくて、次はどんな手を試してやろうか、どんな戦術を使えば太刀川に勝ち越すことができるだろうかと思い始めたら止まらなくなって、ベッドの上で大人しく目を瞑っていたはずなのに気付けば眠気なんてすっかりどこかへ飛んでいってしまっていた。どうせ眠れないのなら、と屋上に上がってこんな風に風に当たりながら、太刀川とのランク戦の作戦を一人ああだこうだと考えたりしたものだった。スコーピオンを開発したのだって、そうした日々の中で思いついたことだ。あの日の空も今日みたいに薄い雲が空に浮かんでいて、しかし星が綺麗に瞬いていた。もうずっと前のことなのに、よく覚えている。思いついた瞬間、わくわくして早く試したくてたまらなかったのだ。
 あれから三年。高校も卒業して、十九歳になって、ボーダーでももうだいぶ年長組に数えられるようになって、色々と期待も責任も増えて――もう自分もすっかり大人になったような気分でいた。しかし、太刀川と戦うと、一気にあの頃に戻ったようになってしまった自分がいたことに驚かされた。楽しくてわくわくして眠れない、なんて、子どもじゃないんだからと自分で自分に呆れる。けれどそれが嫌だとはどうにも思えないのだから、また始末に負えない。

 屋上の縁に手をついて、空を見上げる。と――夜の空に何かがふっと動いたような気がして目を凝らす。何だろう、見間違いだろうかと思う暇も無くその黒い影はまっすぐに迅の方へ向かってきた。咄嗟に警戒態勢になり、自分のトリガーに手をかける。しかしその影がよく知っているものだと気付いた瞬間、迅は驚いて目を瞬かせた。そうしている間にもそれはすごい速さでこちらまで辿り着き、迅の目の前へ降り立った。その特徴的な格子の目が迅をまっすぐに見て楽しそうににやりと笑う。
「……太刀川さん!?」
「おー、迅」
 一瞬、幻覚か何かかと思った。今まさに太刀川とのランク戦のことを反芻していたところだったからだ。しかし迅の言葉にいつもののんびりとした調子で太刀川から返事が返ってきて、現実に太刀川が目の前にいるのだと知る。裾の長い黒い隊服を身につけた換装体の太刀川が玉狛の屋上にいる。どういうことだ、と状況がうまく飲み込めない。
「なんで、え?」
 思わずそんな言葉を零してしまうと、太刀川はそんな迅を見ておかしそうに笑う。太刀川は「びっくりしてるおまえってなんか面白いな」なんて呑気に言いながら顎髭に手をやっていた。
「なんだか眠れなくてな。久しぶりにおまえと戦ったからか」
 そういつも通りの口調で言う太刀川に、心臓がドキリと跳ねた。驚いてぱちくりと目を瞬かせて、太刀川を見る。しかし何度見たって太刀川は何でもない風にそこに穏やかに立っているだけだ。
「寝ようとしても全然眠くないし、寝れないなら外の空気にでも当たるかと思って」
 まだなんていうかこう、わくわくした感じが消えないんだよな。そう太刀川は楽しげに笑う。今日の昼間のランク戦でも思い出しているのか、その瞳はやけに楽しそうな色を灯し、同時に獣のような獰猛な炎も僅かに揺れる。その太刀川の表情に、自分の心の奥の方が呼応して疼いてしまうような、そんな感覚があった。
 ――そんなの、おれと同じじゃないか。そう思って沸き上がった感情をどう名付ければ良いのか考えあぐねて、戸惑った。
「……それで玉狛まで?」
 しかしそれと太刀川が今ここにいることがまだうまく繋がってくれなくて、そう聞いてみる。そんな迅の問いに、太刀川はまるで当たり前のことでも答える風に返す。
「なんかおまえに会えそうな気がしたから」
 その言葉に脱力するのが半分、むずがゆくてなんだか恥ずかしいような気持ちが半分。耳がやけに熱い気がするのはきっとこの寒さのせいだ、と心の中で誰に言うでもない言い訳をした。
「……おれがいなかったらどうすんのさ」
「でも、いただろ?」
 そう言ってみせれば、太刀川はそんな風に返してくる。太刀川の思考や行動は野生の勘のようなもので、特に深く考えたものではないだろう。しかしそんな太刀川の心の底に、おまえも同じだろ、と言い当てられたようで。少し悔しくて、でも嬉しいような、色んな感情がない交ぜになってうまく処理がしきれない。
 迅のそんな心中なんて知らない太刀川は、「ま、もしいなかったらそのまま適当に散歩でもしてたかな」なんて続けてなははと笑った。
 太刀川の言葉からして、迅に会えるかもしれないからなんて言って玉狛に来たのも、何か明確な目的があったわけじゃないんだろう。どうせ暇だし、迅もいるかもしれないし、なら行ってみるか――なんてただの太刀川の気まぐれだ。しかし、そうやって太刀川が迅に会おうと思ってここまで来たことを思うと、じわりと何かあたたかいものが胸の中に広がるようだった。
 迅がS級になってから、二人の間の関係が悪くなったなんてわけじゃなかった。この件で文句を言うこともぶつかり合うことも表立って悲しんでみせたりすることなんてひとつもなくて、ぱっと見では変わりやしない温度で、会えばくだらない立ち話だってしていた。しかしランク戦で戦うことがなくなって、それぞれの居場所ができて、お互いに忙しくなって、何となく距離が離れていった感覚はあった。
 こんな風に気まぐれに、気安く、太刀川と話すのも久しぶりな気がした。ひどく懐かしかった。今日は懐かしいことばかりだ。そして多分、太刀川もその懐かしさに柄にもなく浸っているように見えた。
 多分お互いに、今日はらしくなく変に高揚して、灯された炎の消し方なんて知らなくて、懐かしさと久しぶりの感覚にきっと浮かれている。自分と太刀川が浮かれている、なんて思うと、似合わなくっておかしくて少し笑えてしまった。
 小さく息を吐く。自分と太刀川の間の空気が一瞬白く染まって、消える。言葉が途切れた静かな夜に、二人分の呼吸の音が落ちる。
 ――その時、正面のはるか遠くで、空にきらりと星が流れていくのが見えた。驚いて「あ」と声を上げると、太刀川が不思議そうに迅を見た。
「どうかしたか?」
「や、今流れ星が見えた気がして」
 そう言うと、太刀川が「マジか」と言ってその感情の読み取りにくい瞳を驚いたように丸くする。その驚き方がなんだか子どものようでおかしい。
「おまえだけ見たの、なんかずるいな」
「ずるいって何、たまたま太刀川さんが背中向けてたからでしょ。それにおれも建物の隙間からで一瞬しか見えなかったし――」
 迅の言葉に、太刀川が「ふむ」と考えるような仕草で顎に手をやる。「それってどっちだ?」と太刀川が聞くので、「あっち。警戒区域の方だね」と迅は指をさしながら答えた。迅の指差す方に視線を向けた太刀川は、「なるほど」と呟くように言う。
「じゃあ警戒区域のあの高いビルとかならよく見えるかもなー」
 そう口にする太刀川は、まるで楽しい遊びを思いついたみたいに口角を上げた。そして迅の方に向き直って言う。
「行ってみようぜ。どうせお互い寝れないんだろ?」
 迅の方を見て楽しそうに細められたその目に、吸い込まれてしまいそうだなんて錯覚を覚えた。風が吹いて太刀川の少し癖のある髪を揺らす。見惚れかけた自分に驚いて、ひとつ瞬きをして少し冷静になる。いや、よく見えるかもとか行ってみようとか言われても、ねえ。
「……流星群の日とかだったらわかるけど、また流れるかなんて分かんないよ」
「まー、そん時はそん時だ」
 迅が一応そう言ってみると、太刀川はあっけらかんとそんなことを言うので脱力してしまった。
 本当のところは迅もよく分かっていた。太刀川にとっては星がどうこうというのはただの口実である。どうせお互いに暇でやることがないんだったら、一緒に遊びに行こうぜ、ということだ。今の今まで特にこの先のことなんて何も考えていなかったから、何となく目新しいものがあるならそっちに行ってみようというだけの思いつきだ。
 そして厄介なのは、太刀川のその提案に乗るのも悪くない――なんて少しわくわくしている自分がいることだった。迅も流れ星がまた見られようと見られまいとどちらだっていいのだけれど、こんな夜に太刀川と二人で適当な理由でもつけて遊びに行くのは、悪くないと思ってしまった。目の前に、ぶわりと未来が広がる。色んな選択肢が視えるけれど、そのどれもがやけに楽しそうに映って困った。
(だって大事なのはきっと、何をするかというよりも誰とするか、なんだ)
 そんなことを迅自身、今日の昼間にもランク戦ブースでまざまざと思い知ったばかりなのだ。
「――遊びに行こーぜ、迅」
 そう太刀川がいたずらっぽい瞳で迅を見る。
(ああ、いやだな、昔のおれに戻っていくみたいだ)
 いやだな、なんて言いながらも、本当に嫌だなんて思っていないのだからどうしようもない。
 この人といる時の行動の指針はいつだって「面白そうなほう」だ。三年ちょっと前、ランク戦をはじめ日常的につるんでいた頃はそういった太刀川の思いつきに迅もなんだかんだとよく付き合っていたことを思い出す。そしてそれが、どうにも楽しかったのだ。
「……言っとくけど、おれのトリガーにグラスホッパーはセットしてないからね」
 そう言いながら換装すると、太刀川は満足そうににやりと笑う。着慣れた玉狛の隊服。やっぱりこの人の前に居る時は、この服が一番落ち着くななんてことを思う。
「じゃあ俺がおんぶしてやろうか?」
「冗談」
「冗談だ。ま、グラスホッパーくらいなら俺が出してやるから」
 言いながら、太刀川が屋上から飛んでグラスホッパーで空を蹴っていく。それに倣うように迅も屋上から足を蹴り出すと、ドンピシャの場所にグラスホッパーの足場ができて舌を巻いた。
(ホント、すごいよな、この人)
 絶対に負けたくない相手であることは間違いないけれど、同時にこの男のランク戦一位・A級一位部隊の隊長という実力は伊達ではないのだと迅が他の誰よりも分かっているという自負がある。その圧倒的な剣術ばかりに目が行ってしまいがちだけれど、太刀川の視野の広さと判断力、トリガーの使い方、的確な一打を可能にする技術力だって相当なものだった。例えばこういう、遊びひとつにだってその実力の片鱗を見つけてしまう。何だか少し悔しくて、でもやっぱりすごい人だよなんてどこか誇らしいような気持ちにさえなる。

 風を切るように二人で空を駆ける。風が頬を撫でていくけれど、換装体だから先程までの寒さはあまり感じなかった。
「迅」
 二人分のグラスホッパーを器用に出しながら、太刀川が迅の名前を呼ぶ。
「なんかおまえとこういうくだらないことしてるの、やっぱり楽しいな」
 そう言ってくく、と笑う太刀川に、それはこっちの台詞だよなんてことを思う。
 こんな風に意味もないことをするのは自分らしくもなくて、でも太刀川と遊ぶ時であればそれを自然と自分に許せる気がした。ただただそれが楽しくて、わくわくしてたまらないのだということ。久しぶりに実感を伴って目の前に現れたそれを、自分は自分で思っていた以上に気に入っていたようだった。目の前には三門の夜景と、黒い隊服の太刀川。風に靡く緑がかった癖のある髪の毛と黒い隊服の背中を見つめながら、そんなことを思う。
 冷まそうと思って出てきたはずの昂ぶった身体は、換装体になっても落ち着くどころか温度を再び上げていくようで、本末転倒だ。しかしそれを止めようなんて、今更どうにも思えない。
 それよりもこの目の前の楽しさに身を任せることの方が今は大事に思えてしまって、色々と太刀川さんのせいだなぁ――だなんて、目の前の背中を見ながら苦笑してしまった。




(2020年11月16日初出)



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