夜、狭いキッチンにて



 少しばかり長引いた会議の後、閉まる直前のランク戦ブースに慌てて滑り込んで十本だけ勝負をしてからそのまま迅と二人で帰路についた。ランク戦ブース閉められる前に会議終わってよかったなー、とか、今日のランク戦の感想戦だとか、警戒区域を抜けてそこからほど近い太刀川の家までの歩き慣れた静かな道を行く間もなんだかんだと話は尽きず、気が付いたらもう自宅の前の通りまで辿り着いていた。
 アパートの敷地に入ったところで、あ、と太刀川は声を上げる。その言葉と共に零れた白い息が空気を僅かに白く染めた。そんな太刀川を迅は横目でちらりと見る。
「夕飯になりそうなもん、冷凍うどんくらいしかないんだがいいか?」
 今は家に食べ物があまりないから今日の帰りに途中でコンビニかスーパーにでも寄ろうかとぼんやり考えていたのだけれど、迅と話していたら楽しくなってすっかり忘れてしまっていた。冷凍のうどんと後はめんつゆや卵くらいならあるか、と冷蔵庫の中身を思い浮かべる。このまま帰ってもまあなんとかなるだろうけれど。道を少し引き返してスーパーなりコンビニなりに寄ってもいいが――そう思いながら一応迅の方を向けば、迅は何も気にした風無く返す。
「いーよ全然、視えてて来たんだし」
「そうか」
 ま、だろうな、と太刀川はすぐに思ってそのままアパートの階段を昇っていく。その後を迅もついていく。そもそも回避したい未来だったなら、迅はどこかのタイミングで太刀川に言うなり何なりしていただろう。そういうことを言ったり言われたりして不快になるような関係ではない。だから太刀川も迅の言葉にあっさりと納得したのだった。
 かん、かん、と少しテンポのずれた二人分、金属製の階段が立てる軽い音が静かな夜の住宅街に響く。太刀川の部屋はこのアパートの二階の角部屋だ。ポケットから鍵を取り出してドアを開け、二人で狭い玄関に滑り込むように入る。あー外寒かった、と迅はわざとらしく肩を竦めながらブーツを脱いでいた。
 コートとマフラーを脱いで簡単に手洗いをしてから、冷凍庫を開けて冷凍うどんを二袋取り出す。洗面所で手洗いを終えてタオルで手を拭っている迅に、釜玉でいいかー? と聞いてみると、いいよーと間延びした声で返事が返ってきた。
 冷凍うどんをとりあえず一袋器の上に置いてレンジに放り込む。解凍が終わるのを待つ間、キッチンにやって来た迅は「お茶貰うね」と言ってすっかり勝手知ったる様子でいつの間にか迅用のようになっていたコップにペットボトルのウーロン茶を注いでいた。
 ごくありふれた一人暮らし用のアパートだ、キッチンもそう広くはない。大の男が二人並べばそれなりに窮屈だ。身長も大して変わらないので、横を見ればすぐそこに迅の顔があった。
 理由なんて強いて言うのであればその程度で十分だろう、と思う。迅がペットボトルのキャップを閉めたタイミングで「迅」と名前を呼ぶ。「なに?」と言いながら太刀川の方を向いた迅の唇をそのまま奪ってやった。背中の方では、電子レンジが稼働する僅かな機械音が聞こえる。触れるだけで離れると、迅は何かツボに入ったらしくふはっと笑う。
「ムードも何もないね」
「お前がムードなんて気にするほどロマンチストだなんて知らなかったな」
 いつもの軽口だなんてことは知っているので軽口で返してやる。迅はおかしそうに笑いながら、肯定も否定もしない。
 迅と太刀川との関係を表す言葉はひとつではなくて、そのどれもが混じり合って、グラデーションの中で時と場所によって揺れ動く。どれだって最高に楽しい。しかし今この瞬間みたいに、二人だけの場所に来た時。気安い友人、あるいは最高の好敵手の距離にじわりと滲み出すみたいに恋人という名前の付いたそれも混じっていく瞬間が、太刀川は結構かなり、気に入っていたりもする。
 満足をした太刀川が少し体を離そうとした瞬間、今度は迅の方から噛みつくみたいにキスをしてきた。柔らかくてあたたかい唇が押しつけられて、ちらりと舌で唇の表面を煽るみたいになぞられる。後ろから電子レンジが解凍を終えたと軽快な電子音を鳴らしたのを合図みたいにして、迅の唇はそこまでであっさり離れていった。
 唇が離れた時、一瞬至近距離でばちりと目が合う、その瞳は数十分前にランク戦ブースで見たのに少しだけ似た、我が儘な負けず嫌いのような、あるいは質の悪い悪戯っ子のような、そんな色が奥の方にちらりと揺らめくのを見た。
 きっと玉狛の後輩にも、同世代の他の仲間たちにも見せないような、そんな顔。
 それがなんだかおかしくて、いやに愛しく思えて、優越感に似たような何かを感じて笑ってしまう。
 あんなキスを仕掛けておいてするりと太刀川から離れた迅は、先程キャップを閉めたペットボトルを冷蔵庫に戻した後、冷蔵庫の上に置いてある電子レンジのドアを開ける。
「迅ー、ついでにこれも頼む」
 もう一皿分、まだ解凍していないうどんを丁度良いからと迅に渡す。
「はーい、これ何分で入れればいいんだっけ?」
 受け取った迅がそれをレンジの中に入れて、代わりにとばかりに太刀川は解凍したばかりのうどんの器を受け取った。ピ、ピ、と迅がボタンを押すのに合わせて電子音が鳴る。先程の一瞬濃厚になった空気など霧散して、迅の横顔はすっかりいつもの飄々とした様子に戻っていたのだった。




(2021年1月28日初出)



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