Stand by you



 瞼を上げて最初に目に入ってきた、ベランダに続く大きな窓の外はすっかり夕焼けに染まっていた。まだぼんやりとした意識の中で太刀川はぱちぱちと瞬きをする。
(いつの間にか寝てたのか)
 太刀川の記憶では先程まで窓の外は綺麗な快晴、青い空が広がっていたはずなのだけれど。ソファで休憩しているうちについ寝入ってしまったらしい。部屋の中も少しばかり暗くなっている。中途半端に寝てしまったせいで、頭が少しばかり重い。今何時だろうか、スマホはテーブルの上に置いていたはず――そう思いながら上半身をゆっくりと起こしたところで、「あ」とリビングの入口の方から聞き慣れた声が届く。
「太刀川さん、起きたんだ。おはよ」
 言いながら迅がリビングの戸を閉めて、太刀川が座っているソファの方へぺたぺたとスリッパを鳴らしながら歩いてくる。
「はよ。今何時だ?」
「今? 五時過ぎたくらいだよ、よく寝てたね」
「寝過ぎてちょっと頭が重い」
 自分の頭をわしわしと掻きながらそう言うと、迅は苦笑する。
「今日は朝からちょっと詰め込み過ぎちゃったしねー。それに最近の慣れないデスクワークも祟ったんじゃない?」
「やっぱり俺にデスクワークは向いてないって迅からも忍田さんに言っといてくれよ」
 いい加減それなりに長い付き合いなのだから弟子の壊滅的なデスクワーク能力くらい分かって諦めてくれないか、そう思いながら言う。太刀川の隣、ソファの空いたスペースに腰を下ろした迅は「自分で言いなよ」なんて言い放って肩を竦めた。

 近界の諸国と同盟を結び、近界民との戦いに一旦の終結を迎えたのは少し前のことである。最後の大規模な侵攻により起こった大きな混乱と免れなかった各所の被害もようやく少しずつ落ち着いてきて、街も徐々にではあるが活気を取り戻し始めている。そして現在ボーダーは近界民からの防衛を担う組織から、近界とこちらの世界の窓口としての組織に形を変えてゆく最中だった。
 近界との関係も、ボーダーの形も変わっていき、そして変わりゆくボーダーに伴ってボーダーの隊員達もそれぞれの進路を選択することになった。ボーダーに残る者、外へと旅立つ者。よき友人であり戦友である隊員たちの進路を見届けながら、太刀川と迅が選んだのはボーダーに就職するという道だった。そして互いに示し合わせてなどいないのに同じ道を選び取ったのと同じ頃、一緒に暮らさないかと持ちかけてきたのは迅の方からだった。友人、ライバル、そしてそれだけではない関係になってからしばらく。その提案を断る理由など、太刀川にはなにひとつありはしなかった。
 ボーダーの中でも古株かつ実力も上位の二人である、ボーダーに正式に就職するのであればとこれまでのいち戦闘員としてだけではなくボーダーの根幹の運営にも携わって欲しい――つまりは昇格の打診を受けた。昇格と言えば聞こえは良いが、実際のところは新体制を迎えバタバタと慌ただしいボーダーの仕事を忍田たちに容赦なく振られる羽目になった。書類仕事やら、新体制の構築やら研修やら、あれやこれや。今までのようにランク戦ばかりをしているわけにもいかなくなり、しかし書類仕事が大の苦手の太刀川は書類の山に押しつぶされ迅や風間には人の悪い顔で笑われてしまった。このドタバタは今だけのもので、体制が整えば太刀川のメインは遠征や後輩指導になると聞いてはいるが、しかし。
 そんな慌ただしい仕事の合間を縫って迅との同居の準備を進め、ようやく本部に程近かった太刀川の元の家と玉狛のちょうど間くらいに位置するこのマンションに越してきたのが先日のこと。とりあえず元々一人暮らしをしていた太刀川の家から引き続き使える家具や家電は持ってきて、ベッドやダイニングテーブルなど二人で使うものは新しく購入した。迅は元々玉狛支部に住んでいたし、自室もベッドとぼんち揚の段ボールくらいしかないということだったので迅の荷物はぼんち揚といくらかの小物や衣類という程度だった。
 しかし太刀川だってそんなに家具を持たない方だったこともありまだ細々としたものは足りておらず、そして役所での住所変更の届けやら何やらもまだだった。そのあたりはこの日にまとめてやってしまおう、とお互いの休みを合わせたのが今日である。
 今日は朝から役所で書類関係を済ませて、スーパーや百円ショップで生活用品を買い足し、それから家具屋で注文した組み立て式の棚を受け取って二人であーだこーだ言いながら組み立て終わったら流石に少し疲れてしまった。だいたい、簡単に組み立てられるという話だったのに棚の組み立てが存外難しく、説明書を見てもちんぷんかんぷんだった――それは太刀川さんが説明書読むの苦手なだけでしょなんて迅は呆れたように言っていたが、そう言う迅だって途中から説明書と組み立て途中の棚を見比べてうんうんと唸っていた――ために、体だけでなく変に頭まで使ってしまったのだ。
 どうにかこうにか棚を組み立てて、そして今日やりたかった最低限のことは終えたからと言いながら疲労感に任せてソファで休憩をとることにした。そのうちに太刀川はすっかり寝入ってしまっていたらしい。そうして、現在に至る。

 つけたばかりの真新しいカーテンに縁取られた窓の外、夕暮れの三門の街は警報のひとつも鳴らない。静かで平和なものである。少しずつ慣れてきたけれど、今でもふと不思議な気持ちになることがある。
 正面のテレビの横には先程組み立てた棚がある。太刀川がソファに寝転んだ時にはまだ何も入っていなかったが、太刀川が寝ている間に迅が入れたのだろう、今日百円ショップで買ってきたボックスやら本やら、あとは支部を出て行く時に玉狛のメンバーから貰ったらしい雑貨や写真が控えめに飾られている。貰ったと言っていた時には「どうせまた毎日のように仕事で会うのにさー」なんて気恥ずかしそうにしていたけれど、ちゃんと飾ってやるあたりがまたかわいいやつだなんて思った。
 室内を改めて見渡せば、リノベーションされたばかりだという綺麗な室内に、まだ部屋に馴染みきっていない新しい家具たち。太刀川の家から持ってきた見慣れたものもあれば、二人で新しく選んだものもある。太刀川のものと迅のもの、二人で選んだものが両方入り交じった空間だ。
「洗濯物は取り込んどいたよ。あと起きたならちょうどよかった、冷蔵庫の中空っぽだからそろそろ買い物行こうと思ってたんだけど――」
 そう言う迅に、太刀川は目線を戻す。そしてそのまままじまじと迅の顔を見つめてしまった。
 ――一緒に暮らすということで、そんなに何かが大きく変わるなんて思ってはいなかった。これまでだって太刀川の一人暮らしの家に迅は何度も来ていたし、何をするでもなくだらだらと時間を過ごすこと、泊まっていくことも日常のひとつだった。だから迅と同じ家の中で過ごすことに特別な真新しさがあるわけじゃない。
 ただあのいつもふらふらと飄々としている迅が、気楽な恋人関係から、太刀川と暮らすということを選んだこと。迅が何も考えずにこんな提案をしてきたなんて受け取るほど太刀川は迅とのことに対して鈍感ではなかった。その迅の覚悟と選択自体が、太刀川にとって嬉しいことだったのだ。
 だけど。
(何かが、すげー変わったわけでもないのになあ)
 迅が隣にいることも迅と同じ家で過ごすことも慣れているはずだったし、共に暮らすということ自体にそこまでの大きなイベント性を見いだしているわけでもないはずだった。だけど何だか不意に迅と一緒に暮らしているということを実感して、嬉しいような楽しいような面映ゆいような、そんな不思議な気持ちが太刀川の中にこみ上げてくる。
 好きな相手と、これ以上ないと思えたほどの相手と一緒に暮らすこと。あの迅が太刀川と、こういうひとつの形を選び取ったこと。それがいやに嬉しく、しかし嬉しいなんてかわいらしい感情だけでなく、優越感のようなものもそわそわと心を揺らしてきた。
「……太刀川さん? まだぼーっとしてんの?」
 急に黙り込んで迅をじっと見てくる太刀川を不思議に思ったのだろう、怪訝そうな顔で迅が太刀川の顔を覗き込む。そうしてぱちんと目が合って、迅がひとつ瞬きをする。そうしてまた太刀川を見た迅の青い瞳は、太刀川の瞳に感化されたみたいに、今度は同じ色を揺らめかせていた。迅の瞳の中に太刀川が映っているのが見える。それに妙な満足感を覚えながら、理由なんてなく唇を寄せた。
 触れて離れて、今度は迅の方から追いかけるみたいに触れてくる。こういう迅の妙な負けん気が少しおかしくて、好きだと思う。迅も同じ熱を宿していることに満足して、合わせた唇を薄く開いて舌で迅の唇の隙間をつついてやる。これにも応じてくるかと思いきや迅は唇をぐっと引き結んでから体を離してきた。
「太刀川さん」
 聞き分けのない子どもを叱るみたいな声色で迅はそう言って唇を尖らせる。しかし折角上がりかけた熱を取り上げられて、消化不良で唇を尖らせたいのはこちらの方だ。
「なんだよ、嫌じゃないだろ?」
 太刀川が言うと、迅は「嫌じゃないけど、まだだめ」と言う。
「買い物行かないとほんとに食べるものないよ」
「それは困るな」
「でしょ?」
 言われてみれば少しお腹が空いてきたような気がする。ここで始めてしまえば買い出しに行けるのは何時になるかわからない、というのはお互い経験則から思っているようだった。空腹は仕方がないな、と太刀川はゆっくりと迅から体を離す。そんな太刀川を見て、迅はふっと細く息を吐いた。
「とりあえず買い物。今日のごはんだけじゃなくて冷凍食品とか調味料とか、色々買い込んどきたいから太刀川さんも荷物よろしくね」
「おー」
 そうと決まれば早速出発だ。着ていたシャツだけではこの時間から外に出るのは寒いだろうと、太刀川は適当なジャケットを羽織る。迅も薄手のコートを羽織って、財布と携帯と家の鍵、そしてすっかり習慣づいている念の為のトリガーも持って二人で連れ立って玄関へと向かう。短い廊下の途中で不意に手の甲同士が触れ合って、ぱちりと目が合った。
 何だかそれが妙におかしくて、そして楽しくなってしまって、太刀川は冗談半分で言ってやる。
「手でも繋いでいくか?」
「えぇ、それはやだ、恥ずかしい」
「なんだよつれないな」
 太刀川がわざとらしくそう言うと、迅は肩を竦める。迅がそのまま半歩前に出て、太刀川より一足早く玄関で自分の靴に足をつっかけた。
「くっつくなら帰ってからいくらでもできるでしょ」
 そう言ってちらりと太刀川を見た迅の表情と声色も冗談半分――そして半分は本気も混じっていて、そんな迅がおかしくて妙に愛しい。
 そうだなあ、だなんて軽口めいて返した言葉は、自分で思っていた以上に楽しげな響きで二人きりの廊下の空気を揺らした。




(2021年2月8日初出)



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