Bitter and Sweet, Day and Night



 迅の唇が押しつけられて、そのまま雪崩れ込むようにしてベッドに押し倒された。行きずりの宿の簡素な作りのベッドが僅かに軋むように揺れたが、そんなことを気にも留めないように迅は太刀川の唇を貪ってくる。舌が太刀川の唇に触れ、割り開かれる。無遠慮に侵入してきた舌にこちらの舌も絡ませて、触れ合ったざらりとした熱っぽい感触にぶわりとこちらの興奮も煽られた。まるでそれしか知らないみたいに何度か角度を変えては口付けられて、舌を絡ませ合う。しばらくそれを繰り返して、呼吸が苦しくなってきた頃にようやく唇が離された。どちらのものかもはや分からない唾液の糸が二人の間をつ、と伝ってからふっと切れる。
 至近距離で絡んだ視線、迅の青い瞳はまっすぐに太刀川を見据えていた。宿の弱い照明の中、逆光で薄暗い中でも迅の瞳に宿った確かな欲の色は見間違えるはずもなく、それに太刀川は興奮と優越感とこの先への期待が入り交じった、なにか衝動に似たような感情がぞくぞくと背中を駆ける。
「……太刀川さん、やらしー顔してる」
 みだりがわしくそう口角を上げて、どこか困ったように小さく笑った迅に「お前こそな」と返してやる。その言葉に迅は「それに関しては何も言えないな」なんて言うから、どうやら多少自覚はあるようだった。
 迅の僅かに上気した頬の横で、白いパールの耳飾りが小さく揺れる。出会った頃はつけていなかった。体格がすっかり大人になって、一人前の占い師として本格的に方々を回るようになる頃から付け始めたものと記憶している。なんでも、今は世界各地を転々としてあまり三門には戻っていない占い師の師匠から譲り受けたもので、お守り代わりでもあり迅の力を増強してくれる作用もあるのだという。太刀川にはアクセサリーの類のことも占い師の力のこともあまり分からないが、しかし揺れる髪飾りは迅の涼やかな印象に合っていて結構好きだった。剣を合わせる時やこういう時は邪魔じゃないか、なんて思うけれど。

 この世界には、人狼、という種族がいる。人の姿をした狼。無害な人間の振りをして人里に紛れ込んで、夜になれば好物である人を食らって殺すのだ。昔からその種は存在はしていたが、一時は人間とうまく共存していたという。しかしここ最近、その被害が各地で深刻化し始めている。人間の文明の発展につれて、これまでうまく棲み分け、あるいは一部では協力共存関係を築いてきた人狼の生活文化を脅かし、そうして種の存続の危機に瀕した人狼は再び人を食うようになったのだという。人狼にとって人間とは他の食物とは比べものにならないほど美味で、強い養分になるものだそうだから。
 しかしそれを人間側も指を咥えて見ているわけにはいかない。かつて人間と人狼の共存共栄関係を築くにあたって影で尽力していたという組織、「ボーダー」が太刀川の住む三門に公に組織を構えたのは数年前のこと。親の古い知り合いで昔から親交のあった忍田から話を聞き、特に熱中できることも見つからず日々に退屈していた太刀川が面白そうだからとその組織に入ったのも現在のボーダーの発足とほぼ同時だった。
 人狼から人間を守ることを目的としたボーダーは、人を食い殺す力を持った生きものである人狼にもし狙われても己を守り、そして市民を守る力を持っていなければならない。志だけで力が無ければ、無残に殺されて終わるだけだからだ。入隊し一通りの戦闘訓練を受け、そして太刀川は自分でも知らなかったがどうやら剣や戦闘の才があったらしい。めきめきと頭角を現し、そして太刀川自身もそれが楽しくて仕方なくてのめり込んでいった。それを見た忍田の推薦で、太刀川の所属は騎士団の中でも特別な地位――ボーダーの要人の護衛という責に就くのはどうかという話になったのだ。
 戦うことがなにより楽しく、戦えればいいということ以外に特に配置の希望もなかった太刀川にそれを断る理由などなかったが、ボーダーの要人とはどういう人物なのだろうかとあまり想像がつかなかった。組織の幹部のおじさんの護衛にでも就くのだろうか。そう思いながら忍田に呼ばれた場所へ行くと、そこにいたのは忍田ともう一人。想像していたようなおじさんなどではなく恐らく太刀川と同じくらいの年の頃の、綺麗な青い瞳が印象的な茶色い髪の少年だった。
 その少年はじっと太刀川を値踏みするように上から下まで眺めた後、ちらりと横の忍田を見る。そうして控えめに、しかし自身を纏ったどこか生意気そうな声色で忍田に話しかける。
「……忍田さん、やっぱりおれ別に護衛なんていらないと思うんだけど」
「そう言うな、迅。占い師は――特に迅ほどの力を持つ人間は、人を襲おうと企てる人狼にとって非常に厄介で、だからこそ狙われやすい。迅がいくら強いといっても、一人だと限界はあるだろう」
 迅と呼ばれたその少年こそが、どうやら太刀川の護衛対象であるらしい。太刀川は意外に思ってその少年を見る。この少年がボーダーの要人。よっぽど重要な地位についているか、それともよっぽどボーダーにとって重要な能力を持っているのか。忍田から説明は今日すると言って呼び出されたので、太刀川もまだ詳しいことは知らないのだ。青く長いマントを纏ったその姿は、太刀川たち騎士団の装束とは異なる。どんな人物なのか、と太刀川が観察している中、迅は忍田の言葉に肩を竦めて言った。
「けどさ、おれ自分のことくらいは自分で守れると思うよ。おれより強い人、忍田さんや最上さんの他に見たことないし」
「なんだお前、そんなに強いのか?」
 迅の言葉に思わず太刀川は反応する。急に会話に入ってきた太刀川に迅は驚いたようにぱちくりと目を瞬かせる。
 強い相手と戦うことが好きだった。同輩たちの中では既にトップクラスの戦闘能力を持つようになった太刀川にとって、自分の知らない強い相手がいると思うと戦ってみたくて心が疼いた。そんな太刀川をじっと見つめた迅は、何やら気色を僅かに変えて目を細める。少し考えるような間の後、迅はいたずらっぽく口角を上げて言った。
「太刀川さん、だっけ。……試してみる?」
 ――鍛錬場に移動して、模造刀を使っての模擬戦。試合は十本勝負だ。いつものように相手の動きや呼吸を読みながら、隙を狙って急所を狙う。しかし、確かに隙を突いたはずなのにまるでその動きを知っていたかのように防がれ、反撃される。迅の動きはこれまで戦ってきた誰とも違った。まるで、こちらの動きをくまなく読まれているかのようだった。迅は強かった。動きを読まれているかのような反応だけでなく、太刀筋も鋭く、戦闘における立ち回りも上手い。戦いに慣れた手練れであることは剣を合わせればすぐに分かった。最初は何だこれ、と思い、しかし段々と楽しくて仕方が無くなる。どうにかしてこの男の隙を突いてやりたい、勝ちたい、とこれまで感じたことの無いほどの負けん気と執着と、どうしようもないほどの楽しさに襲われた。
 試合の結果は、七対三。ボーダーに入ってからこんなに負けたのは初めてのことだった。悔しくて、楽しくて、たまらない。迅に鍛錬場の床に倒された状態のままそんな初めての感覚にぼんやりと浸っていると、迅は太刀川の首の横に突き立てた模造刀をふっと退けて組み伏せた太刀川の上から離れる。ふう、と小さく息を吐いた迅が太刀川を見下ろす。冷静さを纏ったままのその瞳の奥に、しかし仕舞い忘れたように青い炎がじわりと揺らめくのを見た。
「あんた、強いね。でも」
 迅はそう言ってから、ひとつ瞬きをする。目を細めて、迅は僅かに口角を上げた。
「おれには未来が視えるんだ」

 迅は占い師なのだという。それもこの世界にごく稀にしか産まれてこない、超感覚的な能力――迅のそれは“未来視”というらしい――を持つ占い師だ。占い師とはそもそもまだ起きていないことを占うという特殊な能力を持つものであるが、迅はそれとは訳が違った。己の多少の常人とは異なる第六感的な能力の他に、統計や経験則に依る部分も大きいのが普通の占い師なのだそうだが、迅のもつ力は読んで字のごとく、未来に起こる可能性のある出来事を“視る”ことができる力なのだという。
 その能力がとても稀少で、かつ「人間に紛れる」ことが最も厄介である人狼に対してその能力は非常に有用、裏を返せば人狼にとっては天敵だ。ゆえに迅の能力を知った人狼は、まず一番の厄介者である迅を狙おうとすることが多いのだという。それを聞いて、迅に護衛をつけようとしていることに太刀川は納得した。
 しかしそれを聞いて、占い師があんなに強いのかよ、なんて笑ってしまいそうになった。太刀川の所属する戦闘部隊、騎士団の中でもあそこまでの腕の人間はほとんど見たことがない。しかし未来が視えると聞いて戦闘中のあの反応の良さに納得した。こちらの動きが視られていたのなら仕方がない。
 迅はこれまで自分のことはあの強さをもって自分で守ってきたし、人狼の集団に狙われるなど迅一人で捌くのには少々厳しい状況となれば今の体制になる前の旧ボーダーの仲間達の中で対処してきたそうだ。しかし人狼の活動が広範囲かつ非常に活発化してきた現在、迅の強さは上層部もよく分かってはいるものの、それだけでは少々心許ないという判断に至ったらしい。これまでは少人数であった為三門近辺にしか手が回っていなかったが、今後遠方で人狼の動きがあった時に人狼の特定と捕縛の為迅と迅に劣らぬ強さを持った護衛を一緒に派遣するということも見越しているそうだ。
 ボーダーも人数が増えてきたし数の優位を取ればいいのではないかと太刀川は思ったが、大人数で行けば人狼は警戒を強めて出てこないかもしれない。迅の能力というのは、己の目で見た人間でなければ未来はうまく視えないのだという。人狼を視認できなければ、迅の能力を生かし切れない。だからこそ人狼が警戒しすぎないような少人数で乗り込むことが前提だった。それで白羽の矢が立ったのが、新人の中でも突出した剣技をもった太刀川だったのだという。遠征になったとして、大前提は「生きて帰ること」。それができなければ話にならない。だからこそ強さが必要なのだと忍田は太刀川に言った。
 太刀川にとってこの要人の護衛という職務はただ命じられた仕事であるというだけだった。しかし、迅と剣を合わせてから、それだけではなくなった。迅という人間そのものに強い興味を抱いてしまったのだ。迅ともっと戦ってみたい、迅といるのが面白い――そう思って、太刀川は改めて自分からもこの役目を強く希望した。迅はまだ護衛が必要であるかに懐疑的な様子だったがしかし、暇を見つけては鍛錬に誘ってくる太刀川に応じるうち、太刀川がめきめきと強くなっていっていることにいつしか目の色を変えていくようになった。太刀川が安定して迅に勝ち越すようになってからは、太刀川と同じ長剣から短剣に獲物を持ち替え、鍛錬場で対峙すれば今日は勝ち越してやるとその瞳が負けず嫌いを隠そうともせずに太刀川を射抜く。最初はあんなにすかしてたくせに、戦闘は占い師の本分じゃないんだよ太刀川さん、なんて太刀川をあしらおうとしてくるくせに。普段は飄々と大人ぶっている迅の等身大の本性をみた気がして、そんな迅と刃を合わせることが楽しくて仕方がなかった。

 そうして時は流れて、出会った頃は少年だった迅も太刀川もすっかり大人に数えられるほどの年齢となった。ボーダー内でも不動の強者としての地位を築いた二人は、人狼の被害や出現情報のあった地のうち特に厄介と思われる案件を請け負い、現地に出向いては人狼の特定・捕縛をする日々を送っていた。今日もその任務を無事に終え、その帰り途中でとった宿である。急いで帰れば今日中に三門に辿り着けないこともなかったが、迅が「今夜はひどい雨になるから、無理に帰らないほうがいいと思うよ。明日には上がるから今日は途中で宿をとって大人しくしておいた方がいい」と言うので今日は道中で適当に見つけたこの安宿で一泊だ。未来視のある迅がこう言う時は素直に従っておいた方がいいということはよく分かっている。現に、宿を見つけた時にはまだ小雨だったものの雨足は急激に勢いを強め、今は大きな雨粒が容赦なく部屋の窓を叩いている。この宿にしたのは宿代が無かったわけではなく、単純に都市から遠いこのあたりでまともな宿がここしかなかったというだけの理由だった。
 この雨を凌ぐ為にとった宿だったが、部屋に入って荷物を適当に部屋の隅に置いて落ち着いたところで迅が太刀川に唇を押しつけてきて、今に至る。随分性急だな、なんて思って少しおかしい気持ちになるが、こちらだって拒む気持ちは欠片も無かった。それに、これが迅なりの甘えであるということも本人は絶対に言わないだろうが太刀川は知っている。
 護衛する側とされる側。最初はそこから始まり、すぐに剣術の好敵手のような存在にもなり、そして年が近く一緒にいる時間も長く、話してみれば意外と馬が合ったことからよき友人にもなった。そしていつからか互いに抱く感情がそれだけには留まらなくなっていった。この男に触れてみたい、もっと深くを知りたいと思ったのはいくつの頃からだったろうか。立場を気にしてか一歩を踏み出そうとしなかった迅も最終的には観念し、自分たちの関係を表す言葉に恋人というものも加わった。いざ付き合いだしてみれば、最初こそ少しぎこちない様子をみせていた迅だったが、最近では二人きりの時には今のように我が儘めいた振る舞いをしてみたり太刀川に甘えるような様子を見せたりしてくるようになってきた。そのことを太刀川は嬉しく思う。飄々と振る舞う姿も嫌いではないが、剣の鍛錬を兼ねた模擬戦で太刀川に負けてたまるかとその瞳に熱を灯す、我が儘を言う子どものような負けず嫌いな本性こそ、迅のとても好きなところのひとつだ。太刀川を組み敷く時の挑みかかるような、我が儘を許されたがっている子どものようなその瞳が、太刀川は好きだった。そしてそれはきっと、迅が太刀川にしか向けない瞳だ。

 今回の案件も、幸いにして太刀川たちが潜入してからは民間人の被害は一人も出さずに済んだ。今回は相手の人狼が一人ではなく、何人かでまとまって潜伏していた。そのせいで多少ゴタつきはしたが、最終的には人狼全員を押さえることができたのでひとまず無事解決と言っていい成果だろう。
 人狼は人を食らう生きものだ。人間の言葉は通じるし、人狼という種族だって悪いやつらばかりじゃない――というのは迅が言っていたことだった。しかし、反面人間を食らうことに躊躇いのない人狼だって確かに存在する。一歩判断を間違えば、一手遅ければ民間人に被害が出てもおかしくない。だからこそ今回民間人に一人の被害も出さずに済んだことに太刀川も、そして迅もほっとしている。特に迅は己の能力がこの仕事において非常に重要な役割を担っているという自覚ゆえ、被害を出さずに済んだ時には飄々とした態度を崩さないその顔の下でひどく安堵しているようだった。迅と同い年の騎士団の一員である嵐山が何かあっても迅一人の責任じゃないと言って、迅だってそれに笑って頷いているくせして、しかし何かあった時一人で責任を背負い込みたがる傾向は抜けない。
 しかし、だからこそ、そういう仕事の後の迅は緊張が解けた様子でこうして太刀川に我が儘じみた甘え方をするようになった。そんな迅が妙に愛しく思えて、それならば甘やかしてやろうという気持ちにもなる。
 迅の手が太刀川の手を取って、革の手袋の中に太刀川よりも少し細いその指を侵入させる。煽るみたいにねっとりとした仕草で指先が手のひらを撫でてから、迅の手が手袋を取り去っていく。手袋で蒸れたせいで少し汗ばんだ手がひやりとした外気に触れて、しかしその上から迅のあたたかい手が重ねられてその熱が心地よく思えた。
 両手とも革手袋を取り去った迅はベッドサイドにそれを丁寧に置いた後、シャツの隙間から首筋にキスを落としてくる。その唇がゆっくりと下っていって、鎖骨をがじりと軽く噛まれた。痛みはなく、戯れのようなものだったが、太刀川は小さく息を詰めてしまった。そんな太刀川の様子を見て迅は少し満足げな表情になって、また熱心に首からシャツの開かれた胸元の際まで唇を降らせてくる。そうしてようやくシャツのボタンに手をかけて、丁寧にボタンを外していった。太刀川のシャツを脱がせた後、迅もその重そうなマントをようやく脱いで、そのまま上の服も脱いで上半身を晒す。程よく筋肉のついたその身体、左腕に付けられたまだ生々しい傷跡が目を引いて、太刀川は思わず表情を歪めた。迅はそんな太刀川に気付いて、しまったな、というような顔をした後、小さく息を吐いていつもの軽薄ともとられるようなへらりとした様子で太刀川に笑ってみせる。
「別にもう全然痛くないよ。肌の表面をだいぶ引っかかれちゃったから目立つけど、気にするようなほどじゃない」
 この男ときたら、昨晩人狼に深く爪を立てられ血を流しながら苦しそうに呻いたことをもう忘れたか。表面を引っかかれたなんて冗談にもならない、肉まで抉られたかと思うくらい深くやられていただろうが。
 今回、民間人に被害は一人も出なかった。が、それは「民間人には」という話だ。最初はうまく誘導して戦闘にならないようにできないかと思っていたが、案の定狙われた迅と相手の人狼たちと戦闘になり、向こうもそこそこの手練れだった。一対一でなら問題なかっただろうが、今回は相手も複数人。意識を散らされほんの一瞬生まれてしまった隙を突かれ迅が手傷を負った。
「気にするだろ。お前を守るのが俺の仕事だぞ」
 最終的には二人で無事人狼たちを押さえることができたとはいえ、迅が手傷を負ったのは自分の手落ちだと言わざるを得ない。自分の至らなさと、迅に傷を負わせてしまったことへの苛立ちが募る。これは仕事としての感情と、個人的な感情がどちらも入り交じっている。この強かで美しい男に、この痛々しい傷跡はひどく似合わないように思えた。
「別におれも太刀川さんも生きてるんだから、仕事は果たしてるでしょ?」
 しかし珍しく感情を波立たせる太刀川に対して、迅ははぐらかすように軽い口調で返すのを止めない。
「お前な、ああ言えばこう言う――んっ」
 太刀川が小さく息を吐きながら言った言葉の最後までを待たずに迅が口付けてきた。唇はすぐには離れずに、キスはすぐに深いものになる。都合の悪い時はキスで塞ぐこの悪癖をいつ覚えたのやら。舌を絡ませながら、迅の手が太刀川の脇腹のあたりをゆっくりとなぞる。そのまま迅の手が太刀川の下半身に辿り着いて、兆し始めていたそこに布越しに触れた。僅かに零れそうになった吐息は、迅の唇に吸い込まれる。
 唇が離れて、また目が合う。
「太刀川さん」
 これ以上の追求を拒むように、それより気持ちいいことをしようとでも誤魔化そうとするように、いやに熱っぽい声で迅が耳元で太刀川の名前を呼ぶ。
 本当に、しょうがないヤツだな、と思う。
 しょうがないヤツだけれど、そういうところもまた迅悠一という人間なのだと思う。今回の件を迅の言うように「仕事を果たした」とはやはり思えないがしかし、今夜はそういう迅を全部含めて甘やかしてやろうという気分になる。
 この夜が明けて雨が止むまでは、こいつのしたいように絆されてやろう。
 太刀川が手を伸ばして迅の細くて柔らかい髪に撫でるように触れると、迅がくすぐったそうに目を細めた。



(2021年2月14日初出)



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