恋い煩い
朝から出席必須の講義と昨日ほぼ徹夜でどうにか書き上げたレポート提出の為に大学に行って、その後は防衛任務。それが終わればランク戦に明け暮れて、そうしていたらすっかり夜になっていた。盛りだくさんの一日を終えて、帰宅してシャワーを浴びた太刀川は寝間着姿でベッドにぼすんと寝転がる。夕飯はもう本部の食堂で食べてきたので、後はもう寝るだけだ。昨日はレポートに苦戦してほとんど睡眠をとれなかったので、ようやくベッドに身体を預けると沈むように眠気が落ちてくる。このままいい感じに寝れそうだな、と思って目を閉じかけるがしかし、下半身の違和感に太刀川は再びゆっくりと目を開ける。
(……あー)
勃っている。これは。覚えのある下半身の熱に視線をゆっくりと下ろせば、スウェットの布地の下で緩く形を持ち始めている自身があって、太刀川は小さく溜息を吐いた。
このままなかったことにして寝ちまえねーかな、とは思うけれど、こうなってしまえば中途半端な状態のままよりも一度出してしまった方がすっきりと眠れることを経験則から分かっていた。自分の意思とは関係なくこんな風になるっていうのは、男の体というのもなかなか融通がきかない、とこういう時ばかりは流石の太刀川でも溜息くらい吐きたくもなる。
明日も昼には一度提出物のために大学に行かなければいけない。さっさと済ませて寝ちまおう、と太刀川は右手を下半身に伸ばし、スウェットの下に潜り込ませる。前を適当に寛げて、僅かに熱を持った自身を手のひらで包み込むように触れる。そのままゆっくりと扱き始めると、直接的な刺激に手のひらの中の熱がじわりと上がっていく。はあ、と先程とは違う色をもった吐息が太刀川の口から零れた。
一人でするのもそういえば久しぶりだな、なんてことに思い至る。太刀川は元々性欲はゼロとまではいかなくとも強い方でもないと自分では思っていた。気持ちよさを追いかける為に一人でするということはほとんど無くて、する時は大抵こんな風に勝手に勃ってしまった時の処理の為だった。だからそもそもする回数自体が少なかったのだが、最近はそれに加えて――。
ああそうだ、と、思い出してしまう。太刀川を前にしたときに熱を持って揺らめくあの青の瞳に、見た目よりもやわらかな茶色の髪。軽やかに風に翻る青い隊服。
あいつがここ最近全然本部にもこの家にも来ないから。
好きだ、と。何かを観念したような顔で、意外なほど年相応に恥じらいながら耳を赤くしてそう伝えてきたのは迅の方からだった。そう言われて太刀川の方もすとんと落ちてくるように気が付いた。俺は迅が好きだったのだと、この感情はきっと恋と呼ぶものなのだと。そのことを素直に伝えれば、迅は恥ずかしいのか嬉しいのかなんとも複雑そうな顔になってからこちらに唇を寄越してみせた。
迅と付き合い始めて少しした後、さらに一線も越えた。迅とするのであればどちらだっていいと太刀川の方にはこだわりは無かったから、太刀川を抱きたいという迅の言葉を受け容れる形で体を繋げた。
それからしばらくは迅とよく会った。本部で偶然といった風に会うこともあったし、太刀川の大学帰りやどちらかの防衛任務終わりに連絡を取り合って待ち合わせることもあった。そうしてお互い時間が許せばランク戦をして、太刀川の自宅に二人で帰って、そうしてそのままベッドへ――なんてことが多かった。タイミングによっては全く捕まりやしない迅とこんなに会うのも珍しいことで、迅は本当に忙しい時や都合の悪い時はこんな風に本部に立ち寄ることも会えばランク戦に誘ってくる太刀川の前に現れることもないだろうことは分かっていたし、その間特にボーダー内外で不穏なことも何も起こらなかったから、特に注意して未来を視る必要の無い時期だったのだろうと思う。
――そんな日々がしばらく続いていたから。一人でする必要もなかったのだ、ということに気付く。
脳裏にあの男の顔が浮かんだまま、手をゆるゆると動かす。手の中のそれが段々と形を持っていくのが分かる。頭の中の迅がベッドの上だけでする低くて甘ったるい声で、太刀川さん、と呼んで、ふっと身体全体の熱が上がった気がした。
迅とする時はほとんどこのベッドだった。迅は玉狛に住み込んでいるからまさかそっちでするわけにはいかない。そうなると一人暮らしをしている太刀川の家は二人で過ごすのに恰好の場所だった。ふっと鼻から息を吸い込んでももう迅のにおいはないけれど、目線の先、ベッドのすぐ横の棚の引き出しには前にした時に迅が買い足して置いていったローションとゴムが入っている。
ひとつ思い出してしまえば、条件反射のようにいくつも一緒に思い出してしまう。迅がどんな顔をして太刀川を組み敷いて、どんな声で、どんな手管で太刀川を高めてきたか。
迅は確か、とその手の動きを思い出して、トレースするように太刀川は手の動きを変える。迅は先っぽの方を弄るのが好きみたいだよな、と。追い詰まった太刀川の熱をさらに高めるように触れる迅の指と同じように、ぐ、と鈴口を少し強めに押すと、「っ、あ、ァ」と思わず声が零れた。そのことに自分自身で驚いてしまった。身体がびくりと震えて、零れてきた先走りで指がぬるつく。そうやって感じ始めた太刀川を見るといつも迅は嬉しそうな、しかし同時に衝動を噛み殺しているみたいなひどく雄くさい顔をして「きもちい? 太刀川さん」なんて甘やかすような口調で言って笑う。
一人でする時はいつもただの性欲処理のはずだったのに、ここに迅はいないのに、迅との行為を思い出すほどに身体の熱が高まっていくのが分かる。性欲の処理に気持ちの良さなど特に求めてこなかったのに、今は確かに快楽が身体に走って、そしてそれを頭が追いかけようとし始めている。
は、と短く零れ落ちた吐息が熱い。
先端を濡らした先走りを塗りつけるように太刀川の弱いところを擦るのは迅が好きな手管だ。ぬるぬるとした感触と水音に、いやらしいことをしているのだということを自覚させられ、それにまた興奮させられる。迅に触れられるまでは知らなかったことを、自然と追いかけるようにしている。そのことに気付かされて、恥ずかしいような嬉しいような拗ねたような、言いようのない感情が膨らんでいく。
ここ数週間、迅とほとんど会っていない。
別に喧嘩とかをしたわけでもない。最後に夜を過ごした後も、じゃあ帰るね、あとしばらくちょびっと忙しくなりそうだからさぁ会える頻度はちょっと落ちるかも、なんていつものけろっとした顔で言って朝日と共に太刀川の家を出て行った迅をおーわかったと言いながらいつものように見送った。
迅の行動のすべてに深い意味があるなんてことは思わない。あのサイドエフェクトがあるから、ふらふらと色んなところに顔を出す迅の行動を訝しげに見たり深読みしたりする奴らもいるようだが、あれで結構年相応に子どもっぽく、ばかみたいにくだらないこともするしどうでもいいことを読み逃したりする男だ。
しかしああやって太刀川に布石を打ってきたということは、今は結構それなりにやることのある時期なのだろうと太刀川は受け取っていた。
頭ではそれはよく分かっているし、そんな迅の邪魔をするつもりも毛頭無かった。けれど。
(さすがに急に放っときすぎじゃねーか――って)
そんな、らしくもない言葉が頭の中に浮かんでくる。ぬるついた指先が不意に太刀川のイイところを掠めて、「ん、っ」と吐息とも声ともつかない音が部屋の中に静かに落ちた。
だって、なあ。少し前までしょっちゅうあんなに近くにいて、なんなら最近ではあっちから押しかけるようにして求めてきたっていうのに、あの挨拶ひとつ残してこんなにぱったりと会わなくなるなんて。流石に薄情じゃないかなんて文句も浮かぶ。何が頻度ちょっと落ちるだ。お前のちょっとはどのくらいだ。
あの熱を知ってしまった。あの飄々とのらりくらりとした態度で振る舞う男の、体を重ねる時に射抜くようにこちらを見るあの瞳も、太刀川よりも少し細い指先が意外なほど丁寧に、そしてしつこいくらいに太刀川の体を拓くのも、太刀川の身体に入ってくるその自身の熱さも。
思い出せば、また温度が上がる。とろりとまた先端から零れた先走りが太刀川の指を濡らした。
このベッドの上で、どんな風に太刀川を見て、どんな風に触れてくるのか。それがどんな感情を、どんな気持ちよさを連れてくるのか。自分は性欲やそういった類の快楽にはたいして興味がない、と思っていたはずだというのに。これまでずっと知らなかった。知るつもりもなかった。迅のせいだということは間違いがなかった。
そんなことを教え込むだけ教え込んで、ふらりとまた寄りつかなくなるなんて。
「……ぁ、じ、ん」
零れ落ちるみたいに名前を呼ぶ。低くて色気も無い舌っ足らずの声だ。そんな声に迅は嬉しそうな顔で、かわいい、ねぇもっと呼んで、なんて耳元で囁くのだ。
ひとつひとつ思い出すごとに、条件反射のようにそれが気持ちよさを連れてくるようだった。
指が記憶の中の迅の動きを真似て動く。それが気持ちいいことだと知っているからだ。実際気持ちがいい。確かに性感は高まっていて、手の中の熱はもうがちがちだ。
しかし、足りない。分かっている。これは迅の指じゃないからだ。太刀川より少しだけ細くて、悪戯っぽく振る舞うくせにいじらしいほどに優しくて、太刀川の好きなところをもう知り尽くしている指。しかし太刀川が達しようとするとそれに気付いて急に緩い刺激に変えてきたりする。ちょっと焦らしたほうがあとが気持ちいいこと、分かってるでしょ、なんて熱っぽい目を細めて口角を上げて。
性欲の処理なら一人でだって問題はない。けれどあの快楽は迅からしか与えられないものだと知っていた。理由なんてひとつ、迅だからだ。
届きそうで届かない。重なりそうで重ならない。それをもどかしく思う。
「迅、っ……」
もう一度、今度は咎めるように呼ぶ。しかしその言葉を受け取る相手はここにはいないから、声は静かな部屋の中に落ちてはゆっくりと消えていくだけだった。こんな声を聞いたら迅はどう思うだろうか、怒らないでよなんて苦笑するだろうか、それとも照れて興奮して顔を赤くするだろうか。そんなことを思えば少しだけ知りたくなった、というか、会いたくなった。会いに来いよお前。俺のこと好きなんだろうが。
亀頭を弄ぶように親指で触れる。これも迅が好きな触り方だ。緩急を付けながら全体を扱いたり、先端を弄んだり、階段を上がっていくみたいに性感を高めていく。先走りで濡れた自身はもういっぱいに熱を溜め込んでいた。
あ、くる、と思って太刀川は手の動きを速める。「っ、あ、……ぁ」と声が零れた。声を我慢しないのは癖のようになりつつあった。こんな声を聞いて面白いとは自分ではあまり思えないが、声を聞かせて欲しいと迅がせがむから。ぎゅ、と強めに自身を握って先端に軽く爪を立てるようにして刺激する。太刀川が達する時は少しだけ力を強めるのも迅がよくやる手段だった。
「……~~、ッ!」
背中を駆けていくような快感にびくりと身体が小さく震えて、足の指を無意識にぎゅっと丸めていた。精路を駆け上がってきた熱が手の中に吐き出される。数瞬の心地よさと、その次に襲ってくる吐精後特有の気怠さ。太刀川は大きく息を吐いて、そのまま大の字になって寝てしまいたくなったところをどうにか堪えてベッドサイドに置いてあるティッシュに手を伸ばした。汚れた手を適当に拭って、そのティッシュを丸めてゴミ箱に入れる。そうして緩めたズボンを適当に履き直してから、ぼすん、と今度こそベッドに体を預けた。
(あー……)
何だか少しだけばつが悪いような、恥ずかしいような、しかしこれはあいつのせいでもあるだろなんて気持ちも入り交じった感情が頭の中を巡る。
自分も自分なりに迅のことが好きだとは自覚しているつもりだった――大体、好きでなけりゃ自分の尻に男のソレを入れるなんてことを流石の自分でも受け容れるはずがない――が、しかし。自分がこんなにも飢えていたらしいなんて想定外だった。そのこと自体というより、それを今まで自覚していなかった自分がちょっと恥ずかしい。
いつの間にこんなにあいつに絆されていたんだか。
少しだけ悔しいような、しかしそれ自体は案外悪くはないと思えている自分もいてなんだか笑えてしまった。
(あいつ、明日は捕まるかな)
明日も大学が終わったら太刀川は本部に行くつもりだが、迅は明日こそは来るだろうか。会えたら問答無用で捕まえてやろう。来なかったらもうこっちから連絡しよう。忙しいのは分かるが、餌を与えるだけ与えておいて放っておかれる身にもなれなんて言って。
別に四六時中ベタベタにくっついていたいなんてわけじゃない。一人でいたって別に問題なく生きていける。それは互いにそうだろう。だけど互いでなければ埋まらないピースがあるだなんてことに、近付くたび、触れるたび、そう強く教え込まれるみたいに気付かされてしまったから。
どうにも本物に会わないとこのぐるぐると渦巻く気持ちにおさまりがつきそうになかった。会って、触れて、こっちはこんなにも飢えていたんだぞと教えてやりたい。そうしたらあいつはどんな顔をするだろうか。太刀川の好きな、ただ一人太刀川にだけ向けられる、あの熱に揺れる青い瞳が見たかった。