モーニング・ステップス
先程カーテンを開いた窓から差し込む日差しは明るくて、もうすっかり朝が来ていることを教えてくれる。ちらりと私用のスマートフォンで時間を確認して、いい加減仕方ないなと思って迅はまだベッドの上でふかふかの掛け布団にくるまっている太刀川の体をゆさゆさと手で揺すった。
昨夜遅くまであれこれしたりされたりしていた手前――お互い合意の上、むしろ太刀川の方がノリノリだったとはいえ身体的な負担が大きいのは圧倒的に太刀川の方なので――無理に起こすのは忍びない気持ちは正直なところあるのだが、もし俺がなかなか起きなかったら起こしてくれと言ったのは太刀川の方だ。むしろそこで遠慮した方が後で文句を言われるので、その言葉に甘えて「太刀川さーん」と声をかけながらその大きな塊を揺する。本当はまだ起こしたくない理由のひとつにこの人の無防備な寝顔をもう少し見ていたいから、だなんて気持ちもあったのだけれど、それについては気恥ずかしい思いが大きいので太刀川には秘密だ。
「ねー、太刀川さん、今日は絶対ゴミ出ししてから一限行かなきゃいけないって言ってなかった?」
「んー……? あー、そうだった……」
覚醒しているのかしていないのか、その境目くらいの低い声で太刀川が呟くように言う。どうやら意識は一応浮上したようだ。
「あと十分でゴミ出しの時間来ちゃうけど」
「なんだと、それはまずいな」
太刀川の声が段々と意識のはっきりしたものになってくる。といっても普段からのったりとした声なので、そこまではっきりとした違いがないといえばないのだけれど。うーん、と小さな呻き声を上げた後、太刀川が掛け布団を押し上げてむくりと起き上がる。上半身は裸のままだ。太刀川の独特の格子の瞳が迅を捉えて、ゆるりとわずかに細められる。
「おはよう、迅」
「……おはよ、太刀川さん」
ああ、二人で夜を過ごした後にこうして朝の挨拶を交わす時間は、何度重ねても少しばかり照れくさい。
そんな迅の心情など気付いているのかいないのか、太刀川はすっかり普段と変わらない様子でベッドから立ち上がって洗面所へと歩いて行く。纏っているのはパンツだけで、その程よく筋肉のついた肢体は遠慮なく晒されたままだ。目の毒だなあ、なんて思いながらもできるだけ直視しないように、普段通りに振る舞うように心がけた。
太刀川は基本的に寝起きが悪い方ではないと思う。むしろ寝起きが悪いのはどちらかといえば迅の方で、大抵は太刀川の方が起き出してくるのは早い。しかし、多少無茶をさせてしまった夜の後は太刀川も流石に身体的疲労があるためか寝起きが少し悪くなる。例えば、今朝みたいに。それがどうにも気恥ずかしくて、申し訳なくて、しかし優越感のようなじっとりとした嬉しさも僅かにあるのだから肉欲を伴った恋愛感情なんてものは質が悪いと思ってしまうのだった。恋愛感情はキラキラしただけのものじゃないというのは、太刀川に対する自分の感情を自覚してから気付かされたことだ。
ざばざばと急いだ様子の水音と髭剃りの音。すぐに終わったそれらの音のあと、ぺたぺたと素足の足音を鳴らしながら太刀川が寝室に戻ってくる。急いで顔を洗って適当に髭を整えてきたのだろう。太刀川がクロゼットを開けるのを見ながら迅が聞く。
「朝ごはんは」
「食ってる時間ないだろ。適当にコンビニとかで買って大学で食べる」
「了解」
太刀川はクロゼットから取り出した適当なシャツやズボン、そしてコートを身に纏っていく。迅もテーブルの上に置かせてもらっていたスマホやらの私物をポケットの中に突っ込んで薄手のコートを羽織って帰る準備をした。
迅は今日は急ぎの用があるわけではないが、家主が外出している家に居座るほど流石に神経は図太くはない。一旦玉狛に帰ってから、適当な頃合いで本部に顔を出してこの三年で太刀川に更に離されてしまったポイントを埋めるべくランク戦でもするつもりだ。――まあ、それが大学帰りの太刀川本人に見つかったらひたすら太刀川と戦うことになるのだろうが。それはそれで、というやつだ。
「あー、昨日のうちにゴミまとめときゃよかった」
「だから言ったじゃん。夜のうちにまとめといた方がいいよって」
「そりゃお前、……まあこれで間に合ったらお前の予知を覆したってことに」
「そんなどーでもいいことで張り合う?」
太刀川はなにかと迅の予知に勝とうとする。こんな小さなことでも、だ。迅は思わず苦笑する。そんなまるで子どものような部分に呆れる気持ちもありつつ、かわいいなと思う気持ち、そしてこんなことであれ迅に勝ちたいと迅への対抗心や負けず嫌いを覗かせる太刀川に嬉しさや優越感のようなものも抱いてしまう自分もどうしようもないということもいい加減認めざるを得なかった。
太刀川はベッドサイドのゴミ箱を手にとってキッチンの方へと向かう。今日は燃えるゴミの日だ。曰く前回のゴミの日は防衛任務が被って時間までにゴミ出しが間に合わなかったため結構溜まってしまっており、今日出さないといい加減ゴミ箱から溢れてしまうのだと言っていた。だから寝過ごしそうだったら起こしてくれと。
その時点で視えた未来は無事に間に合う未来と、ギリギリで間に合わない未来の二通り。どちらかといえば後者の可能性の方が高かったから、そう忠告しておいたのだが――夜に二人きりの寝室、互いの期待をみてしまえば目の前の欲に抗うことができなかったのはまだまだ若い盛りだから仕方がないと言わせてほしい。
存外手慣れた手つきで家の中のゴミをまとめた後、「よし、行くか」と太刀川が袋の口を縛ったゴミ袋と中に本当に勉強道具は入っているのかと疑いたくなるようなぺらぺらのカバンを持って声をかけてくる。「はーい」と返して迅も玄関へと歩いて行く。狭い玄関に二人分の体を押し込んで手早くブーツを履いて、迅の準備が終わったのを見て太刀川が玄関のドアを開けた。
一歩外に出ると、部屋の中で感じていたあたたかな日差しとは少々ギャップのある冷たい空気が剥き出しの頬を刺す。まだまだ朝は寒いな、コート着てきてよかった、なんて思う。太刀川が玄関の鍵を閉めるのを見つめながら、迅はコートのポケットに手を突っ込んだ。
鍵をカバンの中に突っ込んだ太刀川が迅を見て、それを合図に二人で歩き出す。身長はほとんど変わらないので、歩幅も大体同じだ。普段よりも少し早めのペースを保ちながら二人でアパートの廊下を歩いて、階段を降りていく。カンカンと乾いた音が朝の静かな住宅街に響く。
と、アパートの一階部分に箒を持った妙齢の女性が立っているのを見た。どうやら玄関先を掃除しているらしい。昨夜は風が少し強くて、枯れ葉だとかがちらほら散っているからだろう。同じアパートに住む人だろうか、と思って迅は少しだけ動揺してしまった。
太刀川の家には何度も来ているが、ご近所さんと顔を合わせたことはまだなかった。普通に考えれば他の人だってここに勿論住んでいるわけだが、太刀川と二人でいる朝に少しふわふわした気持ちになっていたのも事実で、ここで他の人と急に鉢合わせることを想定していなかった自分にまた驚いて呆れてしまった。
こちらが向こうに気付くのとほぼ同時に向こうもこちらに気が付いたらしい。迅の動揺などいざ知らず、ああ、という顔をして女性が口を開く。
「おはよう、太刀川くん。いってらっしゃい」
「あ、おはようございます。いってきます」
太刀川が軽く頭を下げながら挨拶をする。迅はどうしようか一瞬迷った後、太刀川に倣ってぺこりと一礼だけすることにした。それを見た女性の方も微笑みながら礼を返してくれる。まだ動揺に心は若干ざわついたままだったけれど、優しそうな方だなあと思って少しばかりほっとあたたかい気持ちになる。
会話はそれで終わって、女性の横を通り過ぎた後ゴミ出しボックスに太刀川がゴミを入れる。蓋を閉めて、今度は三門市立大まで向かうバス停に向けて歩き出した。迅もそのバス停までは同じ方向なので、太刀川について歩く。
ちらりと太刀川を見る。その視線に気付いた太刀川が、「あ、そうか」と言って迅に言う。
「さっきの人、うちの大家さん。いい人だぞ。たまに家庭菜園のみかんとかくれる」
「あー、なるほど」
大家さんにみかんを貰う太刀川を想像して、なんともほのぼのとした光景で少し笑いそうになってしまう。そういえば前に家に行った時に貰い物と言っていたみかんを二人で食べたっけ。大家さんとも仲が良いのがなんだか太刀川らしく思えた。
と同時に、そうやって個人的な付き合いもあるのならば尚更、太刀川の部屋から一緒に外出するところを見られたことにしまった、という思いもじわりと心の中を焦がす。
しかし、冷静に考えてみれば別にただの友達だって普通に家に泊まるだろう。普通に同年代の男二人で家から出てきたら先に想像するのはそっちだろうと思う。だが、真っ先に妙な気恥ずかしさを感じてしまうのは、思い当たる節――昨夜遅くまで二人でベッドを軋ませていたことだとか――があるからだと思い至ってしまう。そう考えて、まだ脳裏に鮮明に残っている昨夜のあれこれを思い返してつい耳が熱くなってしまった。
そんな迅を見た太刀川は一瞬不思議そうな顔をした後、何を察したのかにやりと人の悪い笑みを浮かべた。この人がこんな顔をするのは大抵質の悪いことを考えている時だ。
「俺のカレシです、って紹介すればよかったかな」
「……あんたって人は、ほんとにさー……」
朝の空気が冷えているせいで、熱を持った耳の温度をいやに鮮明に感じてしまう。眉根を寄せて言う迅に、太刀川はなっはっはと楽しそうに笑う。
太刀川と付き合っていること自体を恥ずかしいと思うわけじゃない。それは絶対に。だけど元よりプライベートなことを人に知られるのが気恥ずかしいと思う質だし、それが恋愛となれば尚更だ。まだ自分自身がこの関係に慣れきっていないというのも大きい。ちょっとしたことで照れて、動揺して、自分の感情というのはこんなにコントロールが難しいものだったのかと驚く。
それに太刀川の知り合いとなれば、そういった目線を向けられるのは太刀川の方だ。どんなことであれ、太刀川の不利益にはなりたくなかった。なのに太刀川はそんなことを軽く飛び越えて、なんでもないことのように笑ってみせるものだから。
恥ずかしさと嬉しさが一緒に来て、迅の心の中で騒がしい。照れ隠しに太刀川を肘で小突くけれど、太刀川は楽しそうなままだ。
「急がないとバスに置いてかれるよ」と言って迅は歩く速度を早める。「それは大変だ」と言う太刀川の声は焦ったようにはとても聞こえなかったけれど、バス停のある大通りに出るまでの道中がいつの間にか早足での競争のようになってしまったのは、お互いにお互いに対してだけはどんな時だって負けず嫌いだからだった。