彼方より/彼方へと



 びゅおお、と砂塵混じりの一際強い風が吹き抜けた。いくらかの崩れかけた建物とガラクタが転がっている他はほとんどなにもない乾いた大地では、風からこの身を守ってくれるものもほとんどない。容赦の無い風を一身に受けながら、太刀川は思わず目を細めた。目を細めて砂塵から目を守らなくたって大丈夫なトリオン体なのだが、そうしてしまうのは生身でいる時の癖が出てしまったからである。トリオン体でなければこの砂埃に耐えるのは中々厳しかっただろう。隣を歩く迅も眉根を寄せて目を眇めていた。
『ランク戦でもこんなひどい天候設定はなかなかないね』
 本当であれば通信を使う必要もない会話なのだが、この砂嵐の中では流石に口を開けて喋るのは抵抗があったのだろう。迅はトリオン体同士の通信を使って話しかけてくる。その言葉に、かつて共にランク戦で解説を担当した時の暴風雨マップのことが頭を過ぎった。あれもなかなかの天候設定だったが、砂嵐の中のランク戦というのは流石に見たことがない。というか、三門市ではそうそう起こりはしない天候なので、その設定も用意されていないだろう。
『ああ。ランク戦にもこういう天候設定必要かもな、これから色々遠征の機会も増えるだろうし』
『まあランク戦じゃなくても、どんな近界の環境でも適応できるような訓練はより整備しておくべきだろうね。これも玄界に帰ったら報告・提案事項だな。なにしろここまで天候が振り切れてる国はこれまでなかなか来る機会もなかったから――太刀川さんはどう?』
『砂埃がここまで酷い国は初めてだな。常に大雪のところとか大雨のところとかは行ったことないわけじゃないが』
 これまで何度も行ってきた遠征の記憶を思い返しながら言うと、迅は『そっか。帰ったら本部で記録見ておこうかな』と言った。



 玄界へ繰り返し侵攻してきていた近界の主だった国との停戦条約を結んでしばらく。最後の大規模な侵攻はそれまでの侵攻の比にならないほどの規模だった。迅の予知を軸のひとつとして防衛体制を堅牢に整えていたボーダーがそれを迎え撃ち、様々な被害も免れたわけではなかったがどうにか三門及び玄界を守り停戦の合意に至れたのだから、なんとか玄界と近界の戦いにひとつの区切りはつけられたと言っていいだろう。現在では旧ボーダー時代に締結していたという近界のいくつかの国との同盟関係も本格的に復活し、ボーダーとしては玄界と近界の平和的な共存共栄の方法を模索しているところだ。
 これまでの近界遠征は近界の調査――特にトリガー技術の調査、そこからのボーダーの戦闘能力強化に重きを置いている部分も大きかったが、これからは玄界にとって未知の部分の多い近界への理解を深めたり同盟国との交流をしたり、そういった目的での遠征も多くなるだろう。
 最後の侵攻の後始末や新たな方向に舵を切ることに一時は本部もとても忙しそうだったが、最近はようやく落ち着いてきたところだ。そうして落ち着いたところで、また遠征計画も本格的に再開することとなった。
 今回の遠征も、無事に目的を果たし帰路についている途中だ。同盟国との情報や技術の交換・交流を主目的としていた今回の遠征は戦闘になることは何一つなく、幸いなことだと言いたいところだが太刀川としては多少物足りない気持ちでもあったのは事実だ。それを何も言わずとも察した迅には「平和でいいことでしょ」と遠征艇に戻った後に小突かれてしまった。「分かってんなら帰ったらランク戦付き合えよ」と返したら太刀川さんはこれだから、とでも言いたげに肩を竦められたが、しかしその青い瞳の奥に爛々と楽しそうな炎がちらりと宿ったのを見逃すような太刀川ではなかった。
 帰りがけに寄ったこの星に、特別用があるわけではなかった。遠征艇に溜め込んでいるトリオンは無尽蔵ではないから、遠征艇へのトリオンの補給のために何度かの停泊が必要となる。この星へはただ遠征艇を停泊させる為に立ち寄っただけだった。同盟国から得た情報によれば、環境悪化により元々この星に住んでいた人たちは皆、数十年前に他の星へと移り住んだらしい。要は捨て去られた星だ。人が居ないのであれば攻撃される心配も少ない。敵性の少ない星であるならばと停泊地に選んだのだが――なるほどこれは、常時トリオン体で居られるならまだしも生身では数日でもとても暮らせそうにない。
 トリオンの補給は遠征メンバー全員で一斉に行うわけではない。全員から少しずつ、当番制のような形で補給していく。迅と太刀川は先程補給当番を終えて、しかし出発の日までずっと遠征艇の中に居るのも退屈だからと少し二人で外出させて貰うことにしたのだった。迅は折角だから情報収集も兼ねてねー、なんて嘯いていたが、人の居ないこの星では誰かに話を聞けるわけでもない。たまに置き去られたトリオン兵の残骸が居るくらいだ。それだってもうトリオンが尽きて動きやしない。結局のところ迅も外出に賛成したのは、純粋な好奇心による部分が大きいのだろう。見たことのない地を見てみたい、という。

 迅が今回の遠征に手を挙げたと知った時はとても驚いた。だって迅が遠征に行くことなんて、少なくとも太刀川が遠征に行くようになってからは記憶にないからだ。迅とて階級としてはA級隊員で、遠征メンバー候補になる実力も資格もボーダーの基準で言えばクリアしていた。だからお前は行かないのかと何度か聞いたことはあるが、いつだって迅は「うーんおれはいいかなー」なんてのらりくらりとはぐらかした。本当のところは遠征に興味が無いとか行きたくないとかいうよりも、他に三門でやることがあるからだとか、遠征で長期間玄界を留守にして大事なことを読み逃しては困るから、というところだろう。
 迅の予知がボーダーの防衛作戦においていつだって大きな役割を果たしていることは太刀川も理解している。それが無くなれば万一の時に後手を取ってしまうであろうことも。だから仕方ない、という理屈は頭では分かるが、もっと自分のやりたいようにやればいいのになと燻るような思いも太刀川の中にずっとあったことも事実だった。その上で迅がそうしたいというのならこちらに止める権利はないが、しかし。本当に真面目で人にばっかり優しくて、自分のことばかり後回しにする奴だ。
 だから驚いたのだ。迅が遠征に行きたいと自分から手を挙げたこと、それを自分に許したことに。迅曰く、「その国ならおれも随分昔だけど行ったことあるし、経験者が行った方がスムーズだと思うんだ。しばらく玄界に不穏な未来は無さそうだしね」ということだった。迅の言うことも一理あって、今回の目的地である同盟国との数少ない接触経験者である迅が行くメリットは大きいし、近界諸国との停戦状態にある現在再び総力戦になるような大規模な侵攻が来る可能性は高くはないだろう。迅の未来視のサイドエフェクトは年齢を経るにつれて多少の減衰は見られたが、まだ完全に失われたわけではない。それに遠征に迅が出向き多少戦力が手薄になったとて、ボーダーも何年も刃を研いできたのだ。簡単に落ちるような組織ではない。
 だから、迅がそう言うのなら、ということで迅も今回の遠征メンバーに加わることになったのだった。そのことは、今回の遠征のリーダーである太刀川にもすぐに本部から通知があった。
 その日の夜、太刀川の家で迅と飲んだ。開口一番「お前遠征来るのか!?」と聞いた太刀川に、迅は予想通りといった顔をしておかしそうに笑った。
 成人して飲めるようになったものの、迅は酒にそこまで強い方じゃない。太刀川もそこまで強くはないが、迅は太刀川よりも少しばかり弱いようだった。ビールを何本か開ければすぐ顔が赤くなって喋り方に少し締まりがなくなる。思考もふわふわしてくるようで、迅が普段なら隠し通そうとするような本音も少しつつけばぽろりと零してくれることがある。そんな迅が可愛く思えて結構気に入っているというのは、素面の時に言えば羞恥心から迅本人には嫌がられそうな本音なので言わないように気を付けている。
「おれさー、太刀川さんと遠征、ちょっと行ってみたかったんだよね。太刀川さんと行くなら、楽しそうじゃん」
 迅は赤い顔で、ほんのり甘い語尾で、そんなことを言う。
 そうか。それで、それをお前はお前に許せるようになったんだなあ。
 そう思えば何だか自分のことのように嬉しくなって、目の前の普段は意地ばかり張る男が愛しく思えて、わしゃわしゃとその茶色の髪をかき混ぜてやる。それに迅は拗ねたような顔をして、「それよりこっちの方がいい」とこちらの唇を奪う。そんな甘えを見せる迅が可愛くて、「そうかそうか」と今度はこちらから唇を寄せる。迅もそうだが、こっちだってそれなりに酒が回って頭の中はふわふわしている。嬉しくて、楽しくて、そんな気持ちの赴く方向に素直に身を委ねた。そうなれば自然、口付けは深くなって、いつの間にやら床に押し倒されるような格好になっていた。中途半端に残っている缶の中のビールのことをちらりと思って、しかしそれもすぐにどうでもよくなって太刀川の口の中を蹂躙してくる舌に感覚も意識も集中させたのだった。

 

 枯れた大地を二人で当てもなく歩いていく。何もない大地で変わり映えのない景色だというのに、迅と二人で居るというだけで不思議なほど高揚を感じるのだからおかしい。まだ戻らなければいけない時間までは余裕がある。それに万一刻限までに戻らなければ遠征艇の方から通信が入るだろう。だからとりあえず、なんとなく気が済むまで散策してみようという気持ちだった。きっと迅も同じように思っていることだろう。
 ――と。廃墟とガラクタばかりのように思えた景色の中、遠くに建物の影を見つけた。目を凝らせばそれだってそれなりに形は崩れているようだが、他の建物よりは幾分ましのように見える。変わり映えのない景色の中でようやく訪れた変化に太刀川の心は高揚した。隣にいる迅も同時にそれに気付いて、興味を惹かれているようだった。『行こうぜ』と伝えれば、迅も二つ返事で『うん』と返してきたので二人揃ってそちらへと足を向けた。元来の迅は好奇心は旺盛な方だと思う。二人で好奇心の赴くまま未知の大地を歩くということが、楽しくて仕方が無かった。

『……こいつは、教会か?』
 太刀川の言葉に迅も頷く。
『っぽいね。玄界で言うところの、だけど――こっちにも同じような文化があったってことかな? 人の考えることって文化が違っても変わらないものなのかな』
 辿り着いたその建物は、玄界で言う教会につくりがよく似ていた。この星に住んでいた人に聞く術など今この場所では無いから、本当のところは分からないけれど。もう外壁は大分朽ちてはいたものの、他の建物の残骸とは違い壁はしっかりと残っていることに感心する。トリオン製ではなく、本物の石を積み上げてしっかりと丈夫に造られた建物のようだった。
『トリオン反応は無いから危険は無さそう。入ってみる?』
『ここまで来て、言うまでもないだろ』
 身の危険が無いのであれば、あとは好奇心が勝つ。建物の中へ入っていく太刀川を、苦笑しながら迅が追いかけてきた。
 建物の中に入れば、先程までうるさいほどだった砂嵐から解放され、二人揃って大きく息を吸った。別に先程までも呼吸が苦しかったわけではないが、しかしずっと砂嵐の中にいるのはやはり何となく気持ち的に窮屈で仕方が無かったのだ。
「……あー、まだ壁が残ってるから砂嵐防げて助かる。やっとまともに喋れるな」
「ああ。それにしても中も結構ちゃんと残ってるもんだな」
 言いながら太刀川はカツカツと靴音を響かせながら建物の中を散策していく。人が手入れしなくなった建物というのは自然と朽ちていくものだ。中の調度品も埃や砂を被っていて、人が訪れなくなって長い年月が経過していることを思わせる。それでも建物の形はちゃんと残っている。中もやはり玄界の教会とよく似ていた。
 ここでかつてこの星に住んでいた人たちは、玄界の人々と同じように結婚して、永遠の愛を誓って、祝福されて――そんな営みをしていたのだろうか、と想像する。ボーダーに入って、遠征に参加するようになって、かつては異形のモンスターとばかり思っていた近界民もこちらの人々と同じように生きて、家族があって、生活をしているのだということを知った。
(教会……、結婚、ねえ)
 ちらり、と一緒にここまで来た男の方を見やる。
 そんな柄にもないことに思いを馳せたのは、今二人きりで一緒にいるのがこの男であるからということに他ならない。

 そろそろ一緒に住まないか、と迅に提案されたのは遠征に出発するより少し前のことだ。
 迅と太刀川は恋人同士である。もう付き合い始めてからそれなりの年数が経っている。逢瀬は専ら一人暮らしをしている太刀川の家だったが、もはや半同棲に近いような状態になってきており、それなら一緒に住んだ方が早いのではないかということだった。
 その申し出自体は嬉しかった。楽しそうで、ワクワクもした。しかしそこまで言ってくるならもっと踏み込んで来いよなんて、迅に対してより強くなってしまうことは自覚している好戦的な自分が顔を出す。そう思いついてしまえば、そうする方がいやに楽しく思えてしまった。
 そっちがその気ならこっちが一気に仕留めさせて貰う。
「っていうかもう、籍入れないか?」
「――は?」
「は? って何だよまさか俺とは結婚とかそういうんじゃないとか言うんじゃないだろうな」
「いやっ、そんなわけ……だけどちょっと待ってよ、心の準備とかさぁ!」
 そう顔を赤くして言う迅がかわいくて、おかしくて、迅の不意をつけたことによる優越感や高揚感で太刀川は笑ってしまう。迅は怒ったように眉根を寄せたが、その心中は怒っているのではなく照れと悔しさでどうしようもなくなっているのだということを知っているので、沸き上がる愛しさを止めることができなかった。
 そんなこんなで、その後もなんやかんやと言いながらもお互いに拒むつもりなどないのだから話は単純なことでしかなかった。しかし結婚はともかく同居には何かと準備や手続きがいる。新居は運良くすぐに見つけられたものの、同時進行で遠征の準備や訓練もしていたものだからバタバタとして、結局籍は入れたものの引っ越しはまだ終えてはいなかった。この遠征が終われば二人とも少しまとまった休みを貰えるから、その間に引っ越し関係のことを一気に済ませるつもりでいた。

「じーん」
 思いついたことがあって、迅を呼んでやる。まだ入口付近を観察していた迅は、「なに?」と言いながら太刀川の方へと歩いてきた。「こっちこっち」と手招きして、目の前に来た迅の頬に手を添える。長い時間砂嵐に晒されていたから、頬にもまだ少し砂がついて指先にざらりとした感触がした。
 視えたのだろう、はっと目を見開いた迅が何事か言う前にその唇を塞いでやる。唇もやっぱり少し砂の味がして、ロマンチックさも何もなくて笑ってしまいそうになった。でもそんなことですら、迅とすることなら楽しいと思える。
 触れるだけで離れるバードキス。唇が離れて、至近距離で目が合う。はあ、と小さく息を吐いた迅はしかし嫌そうな気配は無い。トリオン体だというのにその耳が律儀に少しだけ赤くなっていた。
「……なにそれ、誓いのキスみたいなこと?」
 流石は迅、察しが早い。そう思ってにこりと太刀川は口角を上げる。その反応に正解だということを知って、迅が肩を竦める。
「そう。結婚式、どーせ挙げる気ないだろ?」
 籍は入れたものの、結婚式の予定はない。忍田にそう言えば残念がられたが、お互いにそういうことをしたいというタイプでもなかった。だから結婚式を挙げようなんて提案はどちらからも出なかったのだけれど――なんとなくそんな真似事をしたくなってしまったのは、ただの気分、遊びのひとつでしかない。だって、今この瞬間がどうにも楽しくて仕方がないから。
 迅と一緒に行く遠征、二人並んで当てもなく歩く近界、二人きりの教会。未知の世界、非日常の中で、迅が側にいる。かつて夢物語のように思った今がここにある。おまけに籍まで入れたばかりときた。浮かれずにいるなんて難しい話だろう。
「だったらここで済ませちゃおうぜなんてのも太刀川さんらしいというかなんというか……っていうか色々端折りすぎじゃない? 誓いの言葉とかもないわけ?」
「いーだろ、まどろっこしい」
 大体誓いの言葉なんて覚えてないぞ、と太刀川が言うと、雑だなあ! と迅が言う。そんなやりとりが楽しくて太刀川が笑うと、迅もつられたようにくつくつと笑う。
 わざわざ神に誓わなくたって。言葉で約束したりしなくたって。互いが互いのことをどうしようもないほどに強く想っていること、互いにとっての唯一であり、それがきっと未来永劫変わらないであろうこと。そんなことは、よくよく分かっていたから。
 ――そう思うと嬉しくて、楽しくて、しょうがなかった。

『なあ、帰ったらやっぱり指輪でも買わないか?』
 砂嵐の中来た道を戻る途中、ふと思いついてそう通信すると迅がぱちくりと目を瞬かせる。指輪を買うべきかどうするかというのは結婚を決めた時にも少し話題に上った。お互いにアクセサリーを日常的に付ける習慣もないし、邪魔になりそうだし、必要あるのか? という話になったところでそのまま放置していた話だ。それを急に蒸し返したものだから、迅は意外そうな顔をした。
『えー? なに、太刀川さんがそんなロマンチストだとは知らなかったな。誓いの言葉はまどろっこしいって言うのに』
『別に神に誓う必要性は感じないが、分かりやすく指輪でも買って、お前との関係を他の奴らに見せつけてはやりたくなった。お前は俺のもんで、俺はお前のもんだってな』
 浮かれていると思う。先程の教会での真似事で余計に火がついてしまったようだ。けれどそれが心地よくて、楽しかった。止めようなんて気にはなれない。迅だって同じように思っていて欲しいし、思っているだろうとも思う。
『……そんな風に言われるとなんかすごい物騒に聞こえる』
 迅が眉根を寄せて言うのを、太刀川はくっと笑い飛ばす。
『独占欲なんてそういうもんじゃないか?』
 そんな言葉を使えば、迅の口元が弧を描くものだからおかしい。ああ、お互いにどうしようもないなと思う。そんな今が楽しいのだ。砂塵で煙る無機質な視界の中で一際目を引く迅のきれいな青い瞳が細められて、その奥に深い色を宿すのをみた。




(2021年3月7日初出)



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