不埒に指先



 風呂から上がって居室に戻ると、気付いた迅が弄っていたスマホから顔を上げる。
「おかえりー」
 ただの暇つぶしの為に弄っていただけだったのだろう、迅はすぐにスマホをスリープモードにしてテーブルの上に置いた。「おーただいまー」と返しながら、ベッドを背もたれに座っていた迅の隣に腰を下ろした。先に風呂に入った迅は、太刀川の家にいつからか置いておくようになった迅専用のスウェットを着ている。迅からふわりと太刀川の家のシャンプーの香りがした。
 座って一息ついたところで、ふあぁ、と太刀川は大きな欠伸をした。風呂上がりで体がぽかぽかとして、心地の良い眠気がじわりと襲ってくる。
「なんかもう眠いな」
 思ったままにそう言うと、隣に座る迅が驚いたようにぱちりと目を瞬かせた。そうした後に、信じられないといった様子が半分戸惑ったような様子が半分でその青い目が太刀川をとらえる。
「……え、うそ、まさかこのまま寝るつもり?」
「だと悪いか?」
 そう返すと、迅は一瞬ぐっと言葉に詰まったように目を泳がせた後、「いや~」と呟くように言ったあとぼそぼそと言葉を続ける。
「悪かないけど、でもさあ、……今日、久々にこうして太刀川さんち来てるわけじゃん」
「ああ」
 迅の目が再び太刀川の目を正面から見る。まっすぐに目が合う。こちらの出方を探るように迅の瞳が太刀川を見つめた。
 最近は何やら色々と迅の方はやることもあったようで、なかなか本部の方に顔を見せにこなかった。逆に迅がちょっと手が空いたらしいタイミングではこちらが防衛任務やら大学の課題やらが入ってしまって会おうにもなかなか時間が作れず、気付けば前回のまともな逢瀬から結構日が経ってしまっていたのだった。
 今日はランク戦は残念ながらできなかったが、夜ならばお互いに時間があると今日は久しぶりに二人きりの時間を過ごせているのだ。
「で、明日はお互いに非番でしょ?」
「そうだな」
「……」
 お互いに明日は一日非番であるということは、今夜太刀川の家で会う約束をした時点でそれとなく確認済みだ。だから今夜はいくら夜更かしをしたっていい、ということでもある。
 迅が再び言葉を途切れさせる。さあどう出ようか、次の手を探しているのだろう。それを眺めているのが何だか少し楽しいように思えてしまって、それがバレたら怒られるかななんてことを思う。
 何を迅が言いたいのか、察せないほど鈍くなどない。だいたい、自分だって元々そのつもりはあったのだ。ただのんびり湯船に浸かっていたら予想外に眠気が襲ってきてしまっただけで。それもそうだ、今日の昼間は大学のレポートに追われて慣れない頭を使ってしまった。そして夕飯もたっぷり食べた後だ。頭を使えば疲れるし、お腹がいっぱいになれば眠くもなる。今だって油断すれば瞼がとろんと落ちてきそうなところだ。
 迅の目が、じっと太刀川を見つめる。床に手をついた迅が、少しだけ体をこちらに寄せてから言う。
「――したくない?」
 青い瞳の中に、太刀川の姿が映っているのが見える。太刀川は見つめ返す。迅は目を逸らさない。
 するか、しないか、じゃなくてそういう聞き方をするあたりこいつは巧いよなと思う。そしてこの男のそういうところが結構、太刀川が気に入っているところのひとつだったりもする。
「したくないわけじゃないが、性欲より睡眠欲が勝ちそうって感じだな」
 そう返してやると、一拍置いた後にはああ、と迅が長く息を吐いた。
「なんかそれも悔しいんだけど……」
 そうむっと唇を噛む迅がかわいく思えて、手を伸ばす。柔らかな茶色の髪の毛に触れようとしたその手を直前で迅の手に掴まれて、かと思えばそのまま親指を軽くがじりと噛まれた。
「おいおい」
 犬か。随分と子どもくさい拗ね方だ、と思う。でもそんな風に振る舞われるのも嫌いじゃなかった。他の奴には見せないだろう一面だ――太刀川だって、迅と付き合い始めてしばらく経つまで迅がこんな風に子どもみたいに拗ねる姿なんて知らなかった――からだ。自分の中にこんな独占欲めいた感情があることに驚く。迅に対しての時しかいまだ見つけたことのない感情だった。
 そう思っている間にも迅はがじがじと親指を食む。痕がつかない程度の軽い、戯れのような触れ合いだ。それがかわいいような、おかしいような、そんな気持ちがわき上がって何だか楽しくなってくる。
「じーん」
 笑い混じりの声で名前を呼ぶ。と、口の中に含まれた指に、ねろり、と生温い感触が触れる。舌が触れたのだ。
(本当に犬みたいだな、おい)
 こんなに意固地になる迅も珍しいなと思う。だが裏返せばそれだけ太刀川との逢瀬を楽しみにしていたということなのだろうかと思えば、嫌だと思うはずもなかった。
 しかし、ずっと指を舐られているのもどうにも、親指だけ生温い感触に包まれて変な感じだ。この状況をどうしようか、とぼんやり考えながら迅の好きなようにさせていると、ぬるぬると動いていた舌が太刀川の親指の腹の辺りをじっとりと舐めあげる。
 ――その動きが、まるで自身にされている時のようで。
(……あ)
 気が付いた瞬間、ぶるり、と小さく体が震えたような心地がした。実際に震えたかどうかは定かではないけれど、そんな太刀川の様子に目敏く気付いた迅が、上目遣いで太刀川の顔を見上げる。
 その青の奥に、ゆらりと確かに宿っている、挑みかかるような熱。
 こちらがほんの少しでも油断をしたら丸ごと食われてしまいそうな。
 そんな顔もまるでその時のようで、眠気に押されて仕舞い込みかけていた熱がじわりと奥の方に灯されたような気がした。そう自覚したのと同時に、にまり、と迅の口角が上がるのが見えた。
 迅は親指を舐る舌の動きを加速させる。やわやわと包み込むように触れてみたり、先端を捏ねるように弄ってきたり、筋をなぞるみたいにゆっくりと舐めてみたり。まるでその時の動きをまったくトレースするような舌の動きに、どうしたって思い出さざるを得ない。迅がどこにどんな風に触れたら、どんな快感を与えられるのか。その時の気持ちよさも、迅の食らいつくような瞳の熱の高さも、そしてその先に刻まれる快楽も――。
 指を舐られること自体に大した気持ちよさはない。ぬるぬると生暖かい感触がくすぐったいくらいだ。けれど、そこから否応なく連想させられて、目の前に突きつけられるものが、あまりに鮮烈で。
 体を重ねるうち、夜を共にするうち、迅に教え込まされた快楽だ。
「っ、……」
 小さく息を詰める。迅に教え込まされた熱を、迅によって呼び起こされる。そんなことに、この男と恋人として過ごした時間の濃さを知る。そんなことにすら、じわりとわずかな興奮が滲んだ。思考を薄っすらと被っていた眠気は、いつの間にかどこかへと行ってしまっていた。
 迅がまた太刀川を見る。太刀川の反応を見て、迅の瞳がゆるりと細められた。ランク戦で対峙した時に灯すものにも似ている、温度の高い青色の炎が揺れている。
(ほんと、負けず嫌いだよな、こいつ)
 けれど迅のそういうところこそ一等好きだったりするのだ。
 迅が眠気で乗り気じゃない太刀川をひっくり返したくて挑んできたのだと思えば、こちらだって迅に挑まれた勝負なら勝ちたいような気持ちだってある。しかしじゃれつくように挑みかかってきた迅ともっと遊びたいような気持ちや、こうしたわがままな子どもみたいな甘えをようやく見せてくれるようになったこの男をどこまでも甘やかしてやりたいような気持ちもむくむくと膨らんでいく。
 うまく説明しきれないような気持ちを抱くのは自分にとっては珍しいことだった。色んな感情が複雑に絡み合って、沢山の欲がはちきれそうで、全部をお行儀良くきれいに仕舞い込むなんてどうにもできそうにない。
 ふ、と息を吐く。自分の口角がゆるりと上がっていることを自覚した。
「じん」
 招くように、宥めるように名前を呼ぶと、迅がようやく親指から舌先を離した。ずっと生温い口内で舐られていたから、濡れた指が久しぶりの外気に触れてひやりと冷えるような感覚がした。
 目が合った迅が、こちらがまだ何も言っていないのにふっと笑みを浮かべた。あ、今何か視たのかもな、と思う。別に迅のサイドエフェクトが発動している時が分かるわけではないけれど、付き合いの長さや濃さから、何となく迅のわずかな反応や動きで察することが出来る時もある。
 まだ太刀川の手首を握ったままだった手が、手のひら同士を合わせるような形でぎゅっと指先を絡めて握ってくる。それに一瞬気を取られた隙に、迅が太刀川の唇を奪った。先程までねっとりとした口淫じみたことをしていたとは思えないほどの、あっさりと触れるだけで離れたキス。至近距離で目が合った迅が、挑むように、試すように、太刀川を見つめる。
「ね、今は性欲と睡眠欲、どっちが勝ちそう?」
 絡め取られた手のひらをこちらからもぎゅっと握り込む。もうそんなの分かっているか、あるいは視たくせに、わざわざ言葉で確認しようとするのが迅らしい。
「――やる気にさせた分、楽しませてくれるんだろ?」
 挑まれたなら、こちらだって挑み返してやろうという気持ちになってそう返してやる。太刀川の言葉を聞いた迅はひとつ瞬きをした後、楽しそうに、満足そうににやりと目を細めて笑った。
「もちろん」
 おれを誰だと思ってるの、だなんて言わんばかりにその挑戦的な青い瞳が揺れる。再び寄せられた唇は、今度は触れるだけでは終わりはしなかった。



(2021年3月15日初出)



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