桜と青



 ざり、と靴が草の下の土を踏む小さな音がする。こちらが迅の姿を認めて声をかけようとするのとほとんど同時に、迅の青い瞳がゆるりと動いてこちらを見た。そうして迅が楽しげに小さく目を細めて口を開く。
「いらっしゃい、太刀川さん」
「おう。見事に咲いてるなー」
 迅の方へとまっすぐに歩いていきながら、そこかしこで花を咲かせる桜の花びらを横目で見る。玉狛支部の近くにあるこの広い公園の桜の木はどれも見事に満開だ。そうこうしている間にも、ひらり、と太刀川と迅の間を淡い桃色の花びらが一枚舞って落ちていく。
 太刀川の言葉に、迅はふふん、と得意気に鼻を鳴らした。
「でしょ? なんといっても日程を決めたのはこの実力派エリートですから」
「そりゃ納得だ」
 未来視っていうのは花見の日程を決めるのにも役立つんだな、なんてことを知る。なんだかんだ言っても優しくて仲間想い後輩想いの迅のことだ、丁寧に未来を視て、一番綺麗に桜が見える日をピンポイントで選んできたんだろう。そんな迅のことを想像すると、いじらしくておかしい。かわいい奴だと思う。
 迅とそんな話をしていると、「あら、太刀川」と声がかかる。迅のすぐ目の前に敷かれたレジャーシートの上に座る小南がこちらを振り返っていた。その隣にいた空閑も「おやタチカワさん」とサンドイッチをもぐもぐと咀嚼しながら太刀川を見ていて、同じくレジャーシートの上でおにぎりを片手に持った村上も「太刀川さん。お疲れさまです」とぺこりと頭を下げた。その声に「おーお疲れ」と返した後、もう一度迅に向き直る。
「なんか不思議な面子だな」
 太刀川が言えば、くく、と迅がおかしそうに笑う。
「適当に集まれる人で集まってるからねー。玉狛のメンバーも今は生憎防衛任務に行ってる人もいたり、あとは買い出しに行ってて今ちょうどいなかったり。でも夜くらいになったら結構人増えそうだよ」
「そうか」
 迅の言葉に頷いたところで、村上が気を回して「太刀川さん、烏龍茶でいいですか? 生憎今未成年しかいなかったんでお酒はなくて……」と大きな烏龍茶のペットボトルを片手に聞いてきてくれたので、「ああ、ありがとな。烏龍茶でいいぞ。別に酒はあれば飲むってくらいだし」と頷く。その言葉を聞いた村上が紙コップに注いでくれた烏龍茶をありがたく受け取って、礼を言ってから一口飲む。まだ冷たさの残る烏龍茶が喉を潤して、それが心地良かった。
 今日のこれは玉狛が言い出しっぺの、適当に集まれる面子で花見をしようというゆるい集まりだ。適当に昼過ぎくらいから始めるから、来られる時間に来たい人は来れば良いという感じで玉狛メンバーと交友のある隊員たちに非常にゆるい招集がかけられた。防衛任務がある隊員もいるから、ということもあっての来たい時間に来ればいいというスタイルのようだ。例えば諏訪隊や生駒隊なんかは今ちょうど防衛任務中なので、終わり次第こっちに合流するつもりだと言っているのを聞いた。
 太刀川がこの話を聞いたのは、勿論迅伝いだった。ある日のランク戦終わり、すっかり遅くなってしまった帰り道で、もう間もなく花が開きそうな桜の木を見た迅が思い出したかのように誘ってきた。「まあ別にただ適当に食べながら桜見るだけなんだけどさ、よかったらおいでよ」なんていつもの飄々とした顔で、何気ないような口調で。「その日なら確か非番だったから行けると思うぞ」と返したら、迅は楽しそうに「そっか」と小さく笑った。「じゃ、待ってるね」なんて言って。
 ざあ、と風が桜の枝を揺らして、花びらがまたひらひらと舞っていく。それをなんとなく眺めていると、迅が不意に動いた。何をするつもりだろうかとぼんやりと眺めていると、迅はレジャーシートの方に歩いていって「小南ー、お団子何本か貰うね」と言いながら紙皿にひょいひょいと三色団子を何本か乗せていった。左手には団子の乗った紙皿、右手には一本串のまま手に持って迅が戻ってくる。
「はい、太刀川さん。どうぞ」
 そう言って迅が紙皿をこちらに差し出してくる。団子を何本か一気に持ってきたのは、こちらに渡すつもりだったかららしい。本当こういうとこ気の回る奴だよな、とありがたさとどこか呆れのような感情が交じり合ったまま、「ありがとな」と言って団子を一本手に取る。とどのつまり、そういう部分も含めて、この男を好きだと思っている。
 大きく口を開いて、団子をひとつ口に入れる。もちもちとした食感と共に甘さが口の中に広がる。迅も同じように、右手に持っていた自分用らしい団子の方を一つぱくりと食べた。
「美味いな」
「美味しいよね、これ玉狛のすぐ近くの和菓子屋さんのやつなんだ。あそこのあられとかも美味しいんだよなー」
 二人でもぐもぐと団子を咀嚼しながら、そんな他愛のない話をする。
 穏やかな春の風が頬を撫でて、太刀川と迅の髪の毛を僅かに揺らす。ふわりと緩く風に浮いた迅の茶色の髪の毛の向こうで、満開の桜の木の枝もさらさらと揺れていた。
 ごくん、と口の中の団子を喉の奥に流し込む。
 別に何をするでもないのに、この時間がなんとなく楽しかった。
(桜、きれいだなー)
 ぼんやりと景色を眺めながらそんなことを思った自分に、少し驚いてしまった。薄桃色の花びらがまた一枚、太刀川と迅の間をひらひらと舞い落ちていく。

 大学一年の春。入学式の後、講堂を出た新入生を沢山のサークルが待ち受けていて、太刀川もいくつものサークルに勧誘を受けた。高校時代と同じく、ボーダーがあるからと元より部活やサークルの類に入るつもりは全くなかったのだが、「サークル入らなくても良いから、親睦会も兼ねたお花見があるからよかったら来てみて」と誘われた。
 入学式の時に席が隣同士で何となく仲良くなったボーダーには全く関係のない同級生が、行ってみたい、一緒に行かないかと太刀川に言ってきて、まあその日は非番だし行くだけならいいかと軽い気持ちで足を向けたことを覚えている。――その頃はまだ、ランク戦に対するやる気も微妙に戻りきっていなかったから、任務以外の日は結構時間を持て余してしまっていたのだ。だから行ったという、理由はその程度だった。今となってはもう、そのサークルが何のサークルだったのかすら覚えていない。同級生の彼も今もたまに話をする仲だが、そのサークルには結局入らなかったようだった。
 その花見は、まあまあ普通に楽しかった。適当な話をしながら、皆で持ち寄ったお菓子やつまみを食べて、のんびりと桜を見る。まあ楽しかった、けれど、それ以上でも以下でもない。ただの普通に、なんてことなく、楽しい一日。桜はまあ確かにきれいに咲いてていいなとは思ったけれど、そこに特別な感傷も感動も特にあるわけではなかった。そんな感じだった。

 花見が嫌いなわけでもないが、特別に好きなわけでもない。今日来たのだって、迅に誘われたからだ。でも、迅に誘われた時、迅がいるなら楽しそうだなと確かにそこに特別な高揚があったのだ。
「太刀川さん?」
 団子を食べる手を止めてぼんやりとしている太刀川を不思議に思ったのだろう。迅が太刀川の顔を覗き込んでそう聞いてくる。迅のその言葉に意識が現在に引き戻されて、ぱちりとひとつ瞬きをする。そして太刀川は答える。
「んー、桜、きれいだなと思って」
 太刀川が言うと、迅もふいと顔をすぐ近くの桜の木に向けた。そうしてその目線をゆるりと緩ませる。
「うん、綺麗に咲いてるよねー」
 その迅の横顔と、桜のコントラストが、妙に目に焼き付いた。
 どうしてだろう。あの日見た桜と、今日の桜は、それ自体は大して変わりやしないはずなのに。
(……好きなやつと一緒に見てるから、ってか)
 自分がそんな、繊細な情緒を持ち合わせていたとは思わなかった。自分でも笑い出してしまいそうになる。でもそれが嫌ではなかった。むしろ楽しくて、ふわふわと浮き足立ってしまうような心地だった。
 そんならしくない気持ちさえ生まれてしまうほどに、自分はよっぽどこの男に惚れているってことなんだろう。
 別に迅がS級でいて本気で刃を合わせることのなかった頃だって、明らかに距離ができたなんてわけじゃない。会えば普通に話もしたし、友人と言っていい程度の距離は保っていたように思う。けれど、ずっと何か、見えない透明な板が自分と迅の間にあるような感覚だったのだ――今にして思えば。
 またこんな風に何のわだかまりもなく迅と話している今を、あの頃の自分が知れば羨ましく思うだろうか。
 さりげないような仕草で、迅と距離を詰める。空閑と小南、村上は何やら三人で話が盛り上がっているようでこちらの様子なんて気にしちゃいないようだったことも確認済みだ。距離を詰められたことに気付いた迅が、こちらに目線を向ける。その耳元に唇を寄せて、迅だけに聞こえるような声量で言ってやる。
「お前と見てるから余計に楽しいんだろうな」
 それだけ言って、耳元から唇を離す。それでも先程までよりはずっと近い距離に迅の顔に、じわりと赤色がさす。迅は驚いたような顔をした後、困ったように小さく眉根を寄せた。迅は照れてどうしようもなくなった時に困ったような顔をすることは、友人よりももっと親密な関係性になってから知ったことだ。
「……なにそれ」
 ぼそり、と小さな声で迅が言うから、また潜めた声で返してやる。
「思ったことを言っただけだぞ」
 迅は一拍置いた後に、はあ、と小さく息を吐いてぐしゃりと自分の前髪を軽くかき混ぜた。そうして呟くように迅が言葉を零す。
「こんなときに言わないでよ、何もできないじゃん」
 それはつまり、人の目がなかったら何かしたかったと言っているようなものだ。そう思って、意地っ張りなんだか素直なんだかわからない迅をどうにも愛しく思ってしまう。くつくつと太刀川が笑っていると、迅がまるで先程の太刀川の真似をするみたいに耳元に唇を寄せてきた。
「ねえ、太刀川さん」
 迅の、普段より少し低い声が太刀川の鼓膜を小さく揺らす。
「何だ?」
「もうちょっとして、防衛任務の交代の時間になったらこっちにも人が増えてくるよ。成人組はお酒も持ってきて酔っ払うし、そしたらさ――二人くらい抜け出しても、誰も気にしないと思うんだ?」
 そう言った後迅は太刀川の耳元から唇を離して、太刀川に向けて口角を上げて悪戯っぽく笑う。
 迅の言葉の意味を理解して、太刀川も同じようにふっと笑った。
「なるほど、それはいいな」
 太刀川の言葉を聞いた迅が、返事代わりに微笑んだ。
 ひらり、また桜の花びらが二人の間を舞っていく。何事もなかったみたいな顔に戻った迅の横顔の、青い瞳の奥だけが、先程の名残が消えきらずにゆらりとちいさく揺れていた。



(2021年3月19日初出)



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