とくべつ
ブブブ、とローテーブルの上に伏せて放っておいた私用のスマートフォンが震えて静かな部屋の中に派手な音を立てたものだから、迅は思わずびくりと大袈裟に肩を震わせてしまった。目の前の太刀川がそんな迅を見てぱちりと瞬きをする。ああそうだ、そうだった、と心の中で苦く呟く。この苦い気持ちはメッセージの送信者へではなく、詰めの甘い自分自身に対してだった。
視えていなかったわけじゃない。けれど太刀川と二人きりの夜となれば目の前の欲に飲み込まれて、そのことに夢中になってしまって、すっかり思考の隅に追いやって忘れ去ってしまっていたのだ。――久しぶりにゆっくり会えたからといって、気持ちが急いてがっつきすぎてしまった。実力派エリートとしてこんな簡単な見落としは大変な不覚である。
スマホはサイレントモードにしておくべきだったと今更に後悔するけれど時既に遅く、スマホはメッセージの受信を立て続けに知らせてきてバイブレーションの音は止まない。薄暗い部屋の中、伏せた画面から光がわずかに漏れてそこだけが明るかった。メッセージの送信者たちも内容も予想がつくし、ありがたいと思う。心からそう思う、けれども!
微睡みかけていた意識もすっかり覚醒してしまった。行き場の無い感情を持て余しながら、仕方がないと「……ごめんね」と断ってからベッドから上半身を起こす。仄かに感じていた太刀川の体温が遠ざかっていくのを寂しいだなんてちらりと思ってしまう自分を気恥ずかしく思った。
「あー、もう日付変わったか」
ベッドに腰掛けた迅がテーブルの上のようやくまた暗く沈黙したスマホに手を伸ばす。その指先がスマホに触れる直前に、太刀川の言葉が背後から降ってきた。振り返れば、太刀川はヘッドボードの上で充電していた自分のスマホを手にとって画面を見つめている。薄暗い部屋の中で、スマホの画面の明かりに照らされた太刀川の顔だけがいやに煌々と明るい。太刀川自身も画面が眩しかったのか、眉根を寄せて目をじっと細めている。
「そうだね」
ようやく鳴り止んだスマホの方へと伸ばしかけていた手をさりげなく引いて、迅はそう返す。太刀川の顔を照らしていた明かりが消えて、部屋全体にまた薄暗さが戻ってきた。スリープモードにしたらしいスマホをヘッドボードに戻して、太刀川はむくりと上半身を起こす。迅が起き上がったことで離れた距離がまたぐっと近付いて、ほとんど同じ高さの目線がじわりと合った。太刀川の温度がまた、ふっと迅の素肌に仄かに絡む。
「誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
薄暗い部屋の中、散々求め合った後の空気がまだ冷めやりきっていない中で、揶揄も駆け引きもなくまっすぐに、太刀川が迅にその言葉を手渡してくる。それがこんなにもむずがゆいことだなんて、未来視で直前に分かっていたって実際に経験するまで知らなかった。
(あ、今年は太刀川さんがいちばんだ)
本当はメッセージ自体はもっと早く送ってくれた人が何人もいたはずだ。先程の、日付が変わった瞬間から震え続けていたスマホがその証拠である。きっと柿崎や嵐山、弓場に生駒あたりの同学年組が一番乗りだろう。駿も今年こそは誕生日になった瞬間に送ると息巻いてくれていたが、果たして起きていられただろうか。メッセージはまだ見られていないから、誰が送ってくれたかはまだ分からないが。
だけど、日付が変わるのをわざわざ待ち構えてメッセージを送ってくれた面々には申し訳ないけれど――今年一番におめでとうをちゃんと受け取ったのは太刀川からということになった。これは初めてのことだ、と気付いてしまった。
こういう関係になる前から、太刀川だって迅の誕生日祝いのメッセージをくれていた。ただ日付が変わった瞬間に待ち構えているなんてことはなく、昼過ぎくらいに思い出したように誕生日おめでとうとメッセージが届くか、本部でたまたま会った時にさらりと言われる程度のことだった。別に太刀川は迅だからどうということではなく、太刀川という男が特に誕生日を祝う早さにこだわりもないというか、そういう性格なのだろうと思う。迅だってそれを気にしたこともないし、迅も太刀川の誕生日は覚えていてもそれを祝う早さにこれまで毎年大したこだわりも無かった。そこはお互いさまだ。
だからそんなことを思ったのはそれ自体に強い思いがあるというよりも、今この状況を改めて客観視して、妙な感慨に耽ってしまったからだった。
(一年前はこんなことになるなんて思わなかったな)
サイドエフェクトで未来が視えるといっても、それがずっと先まで確定した未来が視えるみたいな完璧なものでもない。自分が視えるのは、あらゆる人間の選択の先にある可能性程度だ。ある程度可能性の高い未来以外は直前にならないと視えないことの方が多い。だから一年前の自分は、太刀川とこんな風に誕生日を迎えるなんて思ってもみなかったのだ。そもそも自分がA級に戻ってランク戦に復帰すること自体、未確定だったのだから。
「そうだ、ちょっと待ってろ。誕生日プレゼントがある」
太刀川がそう言って、ベッドから下りて立ち上がる。パンツ一枚だけを纏って、素足でぺたぺたとフローリングを歩いていく太刀川の背中を見ながら迅は言う。
「えー、また太刀川さんとランク戦できる券十枚綴りとかじゃないよね?」
それはひどく懐かしい記憶だ。今から四年前の迅の誕生日、まだ太刀川と時間を忘れてランク戦の順位を競っていた頃。迅の誕生日に太刀川が渡してきたのは、『太刀川さんとランク戦できる券』などという安っぽいという言葉すら勿体ないと思えるようなプレゼントだった。コピー用紙にサインペンで書かれたらしい太刀川のお世辞にも綺麗とは言えない字で、ご丁寧に十枚綴り。その上、『券』の漢字が微妙に間違っていた。なにこれ、と迅が呆れと笑いの入り交じった顔で返すと、太刀川はおかしそうに楽しそうになっはっはと笑っていたこと、その表情がいやにかわいく思えてしまって、そんな自分に驚いたこともよく覚えている。――とても、楽しかった記憶だ。
「あ、それにしときゃよかったな」
迅の言葉を受けて、太刀川はにやりといたずらに笑う。部屋のドアのあたりまで辿り着いた太刀川は、そのすぐ横にある照明スイッチをつけた。薄暗かった部屋が急にぱっと明るく照らされて、迅は眩しさに思わず目を細めてぱちぱちと瞬きをする。
迅が部屋の明るさに目を慣らそうとしている間に、太刀川は部屋の隅に置いていたトートバッグの中に手を突っ込んで何やら探し物をするようにその手を動かしていた。誕生日プレゼントとやらをきっとその中に入れていたのだろう。
「うーわ、言わなきゃよかった。そんな券渡されても結局本部で会えば絶対太刀川さんからランク戦誘ってくるから意味ないと思うんだけどなー?」
ようやく目が慣れてきて、太刀川の肩甲骨の浮いたきれいな背中や、しなやかなその身体の輪郭がはっきりと見えるようになった。太刀川がこちらに背を向けているのをいいことに、じっとそれを眺めてみることにする。
「誘ったって断るじゃねーか。たまにはお前から誘ってこいよ」
「別に太刀川さんとランク戦したいって気持ちがないわけじゃないよ。でも実力派エリートは大人気だからさー、なにかと忙しいの」
「ったく。三年ちょっとも待たせたかと思えば復帰してもなかなか捕まらねーんだもんなあ、まあお前はそーいうヤツだけど――あ、あった」
太刀川はそう言って、何かを拾い上げてくるりと迅の方へと振り返った。そしてまたぺたぺたと足音を鳴らしながらベッドまで戻ってくる。その右手はグーの形に握られていて、その中に『プレゼント』とやらが入っているらしかった。
「そーいうヤツってどういう意味で? おれ太刀川さんの中でどういうヤツだと思われてるわけ」
何やら聞き捨てならないことを言われた気がして聞いてみると、太刀川は事も無げに返す。
「しょーがねーヤツだってことだよ。ほら、手出せ」
「なにそれ」
言いながらも、とりあえずは素直に太刀川が差し出した手の下に手を広げて差し出してみせる。しかしそうした後に、変な悪戯とかじゃないよなとわずかに警戒心が頭をもたげてしまって、ズルかもしれないと思いつつ探るように太刀川の顔を見た。
――瞬間、ぱっと未来視が目の前に現れる。それにわずかに目を見開いて目をぱちくりと瞬かせると、視たらしいと気付いた太刀川の口角がにまりと上がる。太刀川は迅に未来を視られることを一度たりと嫌がった様子を見せたことがない。むしろそれを面白がって、視えるんなら好きに視ればいいと見せつけてくるくらいの剛胆さをみせる男だ。
咄嗟に反応ができないでいる間に太刀川が握った手をゆるりと開いて、その中にあったものが迅の手のひらに落ちてくる。手のひらに当たった、ほんの少しだけ冷たい金属の固い感触。室内の明かりに照らされて鈍く光った銀色の小さなそれが、先ほど未来視で視た光景と重なった。
「……、いいの?」
少しの沈黙の後に、ようやく出てきたのはそんな言葉だった。ひたりと喉が少し乾いて、吐き出したその音は自分で思っていた以上にぎこちないものになってしまった。
「いいの? も何も、よくなきゃ渡さないだろ」
けろっとした顔をした太刀川に至極正論で返されてしまい、迅はぐっと唾を飲み込む。乾いた喉にわずかな水分が流し込まれる感覚がした。
「や、それはそうだけど」
迅はもう一度手の中にあるそれを見つめる。
何の変哲もない、何のキーホルダーもついていない、銀色の、真新しい小さな鍵だ。
「わざわざ作ったんだぞー。この部屋借りた時に貰った合鍵は実家に預けてあるからな。大家さんに許可取ったり、合鍵作れるお店探したり、思ったよりいろいろ大変なんだな合鍵作るのって」
「……うん」
そう話す太刀川に何と返せばいいのかわからず、生返事のような相槌を打つことしかできなかった。太刀川はそんな迅の様子を気にした風もなく続ける。
「いちいち面倒だと思ってたんだよな、俺の方が早く出なきゃいけない日とかわざわざ一緒に出たりポストに鍵入れといてもらったりするの。鍵がありゃそんなまどろっこしいことしなくたっていいし、なんなら俺が帰ってなくても勝手に入ってくれてもいいぞ」
「いや、それは流石に気が引けるよ」
迅が思わずそう返せば、太刀川はくく、とおかしそうに笑った。
「遠慮するお前って珍しくて面白いな」
「だから太刀川さんはおれのこと何だと思ってるわけ?」
「さっきまであんなしつこくしといてよく言う」
そんな切り返しをされて、迅はぐっと言葉に詰まってしまう。つい数十分前まで耽っていた行為のことを仄めかされて、その時のことが生々しくフラッシュバックしてしまったからだ。その時の気持ちの良さだとか、太刀川の乱れた姿や声だとか、色々。そして太刀川の言葉にも残念ながら心当たりがあるのだからいけない。耳がじわりと熱を持つのが分かる。
迅が押し黙ったのを見て、太刀川は満足げに笑う。太刀川は迅のことを負けず嫌いと評するが、そう言う太刀川の方こそ迅に対しての負けず嫌いはなかなかのものがあると迅は思っていた。
ベッドに後ろ手をついた太刀川が、迅の顔を覗き込むように軽く顔を傾けて言う。
「ま、折角作ったんだからさ、貰っといてくれよ。使いたくなきゃ使わないでもいーからさ」
気安いような言い方をした太刀川は、しかしその瞳はじっと迅を射抜くように見つめる。迅の出方を待つみたいに、太刀川はそこで一度言葉を切った。その特徴的な格子の瞳を見つめ返しながら、迅はなぜだかふと、昔テレビで見た狩りのタイミングをじっと息を潜めて待ち構える肉食獣のまなざしを思い出していた。
(……その言い方は、狡いよなあ)
迅はそう、心の中で呟く。
四年前、まだ自分たちの関係性が友人であり同僚であり好敵手であるという域を出なかった頃。太刀川さんとランク戦できる券、だなんてふざけた紙っぺらを貰った時だって結局のところそれはそれで楽しかったのだ。ついぞ使うことこそなかったけれど、あのやりとりが既に太刀川との遊びのひとつで、太刀川と遊ぶのはいつだって楽しかったから。
けれど。迅は手の中の銀色の小さな鍵を眺める。部屋の照明に照らされて鈍く光るそれを眺めていると、あの頃とは自分たちの関係が変わったのだということを強く実感させられて、心の中が妙にむずむずと座り悪く疼くような心地だった。
使いたくなきゃ使わなくていいだなんていいとこちらに強要しない言い方をしながら、迅の逃げ道をじわりと削っていく。特別を示すものを形にして提示して、手渡して、のらりくらりと躱すことを得意とする迅を仕留めようとしてくる。
――特別なのだと。恋人なのだと。
そしてこういう関係になったからには、自分の手の中にようやく落ちてきたからには逃がすつもりはないのだと、そう言われているかのようだった。
単純にいちいち鍵のやりとりに気を遣うのが面倒になったというのも大きいところなのは本当だろうが、きっとそれだけじゃない意図ももっている。他でもない太刀川相手だから、迅はそう気付いてしまった。自分と太刀川は、どこか思考回路が似ているから。太刀川は多分、多くの隊員たちが思っているよりもずっと賢く厄介な男だ。そして厄介さで言えば、迅だってそうだった。
(……特別をつくるつもりなんて、もうなかったはずなのになあ)
そう心の中で呟いて、迅はぱちりとひとつ瞬きをした。脳裏にふとちらつくのは、特別だった、大切だった人たちの姿。今はもういない人たち。
別に厭世的になったわけじゃない。己を悲観したわけでもない。
でも、少なくとも今は為すべき未来のためのことで精一杯だったこともあって、そんな人をつくりたいとも思わなかった。思わないと思っていた。何か特定のものに心奪われずに、縛られずに、自由なふりでいたかった。飄々と軽やかに暗躍する実力派エリート、そんな自分を周囲に示すことに重きを置いてきたし、そうある自分が結構好きだと思っていた。
なのに。
いつからか、太刀川の家に迅専用の部屋着や歯ブラシを置くようになった。
迅が来た時だけ使われるマグカップがあることを知っている。
太刀川との間に特別が増えていく。引き返せない証拠が増えていく。絡め取られた糸が、解けなくなっていくのが分かる。
だというのに、それを嫌だと思わない自分がいる。嬉しかった。この人に――この人にだけは、執着して、執着されて、縛られることを厭わない己がいることが。
自分でもおかしいと思う。ばかみたいだとも思う。歪んでいるのかもしれない。しかし太刀川に出会わなければ、他でもない太刀川に恋をしてしまわなければ、きっと知らなかった感情だった。
きゅ、と手の中の鍵をゆっくり握り込む。その鍵はもう迅の体温が移って、冷たさはなくなっていた。迅の体温の滲んだ温い温度の、固い鍵の感触を手の中で確かめるようにした後、迅は顔を上げて再び太刀川の瞳を見つめ返した。自分は今どんな表情をしているだろうか、太刀川からはどう見えているだろうか。自分のことを自分で正確に把握することは難しいけれど、迅の表情を見た太刀川は、満足そうにふっと口角を緩めた。それを何だか嬉しく思った。
「一応、貰っておくよ。使うかはわかんないけどね」
そう言うと、太刀川は悪戯っぽくわずかに目を細める。
「おー。貰っといてくれ」
もう一度会話が途切れて、部屋の中がしんと静かになる。言葉は交わさないのに、目線だけはどちらも逸らそうとしなかった。じっと見つめたその瞳の奥、わずかに滲む、今なお絶えていない確かな熱をみた。迅がそれを見て取ったのとほとんど同時に、太刀川が動く。
押しつけられるように、なんなら食らいつかれるみたいに唇が重ねられた。春の夜のひやりとした空気の中で、触れ合った太刀川の唇が生温くて、生きてるんだなあ、人間なんだよなあこのひと、なんて当たり前のことを思う。少し前まであれだけ求め合っていたというのに、そんなことにまた熱が灯されてしまいそうになって自分で自分に呆れる。太刀川の熱を、欲を、剥き出しのけものみたいなその内側を、向けられる己を嬉しく思ってしまうのだから。
太刀川の首筋にゆっくりと指を這わせて、遊ぶみたいにうなじを指先で撫でる。それに太刀川はくすぐったそうに小さく身じろぎをした後、唇が離された。至近距離で視線が合う。太刀川が迅を見て楽しげに笑って、それで自分も口角を上げていることに気が付いた。
いつからだったんだろう、なんてもう、考えるだけ野暮だった。
たぶんもう最初からずっと今まで、引き返せやしなかった。どんなに遠ざけようとしたって、忘れたふりをしようとしたって、その熱に触れてしまえば悔しいほどに思い知る。
――どうしたってもう、とくべつなんだ、あんたは。その言葉は声にはしなかった。音に乗せる代わりに、ふ、と小さく息を吐く。
そうして太刀川を見つめ返せば太刀川は迅の表情をどう受け取ったのか、「……もっかいするか? たんじょーびだしな」なんて言って楽しげに目を細めたのだった。