ありふれたこいのはなし
「~~、あーーー」
そう唸り声を上げて背もたれにしていたベッドにぼすんと頭を乗せると、ベッドに座ってそれを眺めていた迅がくつくつと面白がっているのを隠しもしない様子で笑った。それが憎たらしくてちらりと目線を戻したローテーブルの上では、ノートパソコンが煌々と文書作成ソフトの入力画面を映している。シートの半分くらいまで文字が入力されたその画面の中では、縦棒が次の文字の入力を待ってちかちかと点滅していた。うるさい、と思わず言ってやりたくなったが、パソコンに八つ当たりをしたところでパソコンはうんともすんとも言ってくれるはずがない。虚しくなるだけだと思って口に出すのはやめた。
それよりうるさいのは迅の視線だ。迅は急に自宅まで訪れたかと思えば、「おれが見張ってないと太刀川さんレポートの途中で寝落ちして単位落とす未来が視えたからさー」なんて言い出して、期末のレポートに追われる太刀川のすぐ後ろの位置、ベッドの上に陣取って太刀川がレポートと戦っているのをニヤニヤと笑いながら眺めていた。指摘すれば「いやいやおれは良心的な実力派エリートだって」なんて躱すのだろうが、こいつは本当に変なところで趣味が悪いと思う。
レポートのデッドラインまであと数時間。これも教授の温情で引き延ばして貰った期限だ。つまりこれを越えると、本当に単位が危うい。流石に留年は避けたいからちゃんと提出はしようと思ったのだが――元々レポートのような堅苦しい文章を書くのは不得手な上に、そもそもこの講義自体出たり出なかったり、出たとしてもほとんど寝て過ごしていた為に教授が何を話していたのかなんてさっぱり覚えていない。なのでレポートなど書けるはずもない。ここまで書けたのが奇跡とも言える。パソコンの横には、履修者は全員購入させられた教科書と、堤や来馬からコピーさせてもらったノートがテーブルいっぱいに広げられている。
「あと二千字とか無理だろ、埋められる気がしない。あと何書けばいいんだ?」
「知らないよ、おれ大学生じゃないんだから。自分で頑張ってー」
「お前ほんと何しに来たんだ?」
素直な感想を言えば、迅は何がツボに入ったのかまた小さく笑う。
「言ってるじゃん、太刀川さんが寝落ちしないように見張りに来たの。優しいと思わない?」
「俺がレポートで苦しんでるのをニヤニヤ眺めに来たの間違いだろ」
太刀川がそう指摘すると、迅は「あら、鋭い」なんて言ってわざとらしく肩をすくめてみせた。
しかし、迅とこんな応酬をしていたってレポートは一文字も進んでくれやしない。そう思った太刀川は、はあ、と大きな息を吐いて渋々頭を起こして再びパソコンの前に座り直す。
画面の中の縦棒はチカチカと光ったまま、次の文字が入力されているのをじっと待っている。それに対抗するみたいに画面をじっと睨みつけてはみるけれどしかし、この後何をどう書けばいいのかはさっぱり分からないのは変わらない。うーん、とまたひとつ唸りながら、堤や来馬のノートのコピーを手にとってまた眺める。
レポートのヘルプを頼もうにも、諏訪隊と鈴鳴第一は今はタイミング悪く防衛任務中だった。防衛任務が終わるのを待っていてはこのレポートの提出期限も過ぎてしまうだろう。一学年下の月見や嵐山や柿崎なんかはこの講義を取っていない。風間は去年履修したらしいが、連絡したって自分でやれと一蹴されるのが目に見えていた。あと思い当たるところといえば二宮や加古あたりだが、奴らに泣きついてもうざがられるか面白がられるかで手伝ってはくれないだろう。――レポートをギリギリまで放置した自分が悪いのは分かっているが、この八方塞がり感に太刀川はついぐしゃぐしゃと頭を掻いてしまう。
とりあえず最低文字数くらいは埋めなければ、と無理やり文章をひねり出しながらパソコンに打ち込んでいく。パソコンも必要最低限以外はほとんど触ってこなかった人生なので、よくドラマなんかで見るような軽快なタッチで打ち込んでいけるわけもない。キーボードとにらめっこをしながら、一文字一文字入力していく。
と、手が滑って何やら違うキーを押してしまった。画面上特に変化はないのでそのまま続けようとしたが、次の文字を打とうとして太刀川は異変に気付きぱちくりと目を瞬かせる。
「ん? 待てなんか入力がおかしくなった、壊れたか!?」
焦って、色々マウスを動かしてみたりパソコンの横やら後ろやらを覗き込んでみたりする。先ほどまでは問題なく入力できていたのに、「あ」と打とうとしたら画面に表示されたのは「ち」だったのだ。試しに別のキーを押してみても、思ったのとは違う文字が打ち込まれる。
この時間にパソコン壊れるのはヤバいだろ、と冷や汗をかいたものの、迅はそんな太刀川を見て慌てるでもなくぐっと前屈みになってパソコンを覗き込む。
「今なんか変なとこ押したでしょ。えー……あ、入力ローマ字じゃなくてひらがなになってない?」
ローテーブルに片手をついた迅はそう言いながら勝手にマウスを繰り、画面の下の方のバーを何やらクリックして小さなメニューを表示させる。カチカチ、と何度か軽快な音を響かせた後、迅が適当にキーを叩くと画面に文字が表示される。
「うん、これで戻ったと思うよ」
ほんの数ステップの操作でそう言う迅に半信半疑で先ほどと同じキーを押すと、今度はきちんと「あ」が表示された。ほっとしたのと驚いたのとで、思わずおお、と声を零してしまう。
「お前パソコンも詳しかったのか?」
「別に、中高の授業でちょっと触ったくらいだよ。……太刀川さんも高校は同じような授業受けてるはずなのにおかしいな」
「情報の授業か? あれも全然分かんなかったな」
確か高校時代に授業でパソコンを使ったことはあったが、結局その場で先生に教えられながらどうにか操作をしたくらいでほとんどは授業が終わったら頭からきれいに抜け落ちてしまった。高校時代のことを思い出しながら言った言葉に、迅は呆れ混じりといった表情で太刀川を見る。言葉にはしないものの、しょうがないな、なんて迅の声が今にも聞こえてきそうな顔だ。
「まーとにかく助かった、ありがとな」
そう言えば、迅は「どういたしまして」と苦笑していた。
カタカタ、カタカタ、とぎこちないタイプ音が部屋の中に響く。ゆっくりとした速度で打ち込んでは止まって、しばらくしてまた打ち込み始める。どうにかあと残り千文字、というところまできた。千文字って何文字だよ、と文句を言いたくなりながらも、なけなしのかき集めた集中力ももう切れかけてしまって、ふとまた後ろからの迅の視線を思い出す。思い出せば気になってしまい、ふいと視線を迅の方に向ける。迅は時折私用のスマホやボーダー支給の端末を確認するくらいはしているようだったがそれ以外は特に何をするでもなくじっと太刀川を眺めているだけのようだった。太刀川からの視線に気付いた迅は、どうかしたかとでも言うように小さく首を傾げてみせた。
「……お前さ、楽しいか? ただ眺めてるだけで」
そう、疑問を投げかけてみる。人がただレポートを苦しみながら書いている姿を見ていたって普通は楽しいことも何もないと思うのだが、迅は退屈そうな様子も見せずずっとそこで眺めているものだから、いくら見張るとか言っていたとはいえ退屈にはならないのかとひどく疑問だったのだ。
しかし迅は気にした風もなく、いつもの飄々とした軽やかな口調で返してくる。
「んー? 楽しいよ。太刀川さんがうんうん唸りながらレポート書いてるの見るの」
この返事に深い溜息を吐いてしまったのは、絶対に自分じゃなくたってそうなると思う。「性格悪いなおまえ」と言えば迅はどこか演技がかってすらいるような口調で「えぇ~、この良心的な実力派エリートを捕まえて人聞きの悪い」なんて言ってみせる。
「言っとくけど、おれが来なかったらほんとに単位やばかったからね? さっきのだって太刀川さん一人じゃ直せなかったかもでしょ」
迅の言葉に、太刀川はふとピンとくる。
「あ、もしかしてそれが視えてて来たのか?」
周到なこの男のことだ、わざわざレポート作成を見張るなどと言って家に来た上にこうして居座っている理由はそれだったのかと思って聞けば、しかし太刀川の予想に反して迅は意表をつかれたような顔をして首を振る。
「え? それは別に視えてなかったけど」
「……そうなのか?」
じゃあ何でだ、と太刀川は再び疑問を抱く。太刀川がレポートに悪戦苦闘しているのを他に何をするでもなく眺めている迅を不思議に、というか、不可解にすら思ったのだ。
(いつもは忙しい忙しいって嘯いて全然捕まらないってのに)
そう心の中で呟いてみれば、普段は心の奥の方に仕舞い込んでいる感情がむくむくと頭をもたげてしまう。
少し前に迅が風刃を手放し、S級からA級に戻った。それに伴ってランク戦復帰するよ、攻撃手一位目指すからよろしく、なんて宣戦布告までしてきたのだから、また迅と思う存分ランク戦で競い合えるとワクワクしていたというのに実際はどうだ。迅はなかなか捕まらないし、本部で顔を合わせてもあれやこれやと理由をつけて躱される。
迅の方にも事情があるのも分かっている。もとより未来視のサイドエフェクトを持っているゆえに、よりよい未来のためにとあっちこっちと暗躍しているのがこの男の常であるし、実際少し前に人型近界民を含む大規模な侵攻があった時にもああ最近迅が忙しそうにしていたのはこれかと合点がいったものだった。今また色々と忙しそうにしているのも、迅なりの理由があるのだろうと思う。
それは理解したいと思っている。しかし、頭では分かっていても気持ちまでちゃんと納得させることができるとは限らない。
(だって、なあ)
こっちは三年ちょっとの間失ったと思っていたものがまた目の前に戻ってきて、わくわくと浮かれていたのにお預けされっぱなしなのだ。期待していたものがいつまで経っても与えられないままで、そりゃふて腐れたくもなる、と思う。
ランク戦は誰が相手だって楽しい。迅がランク戦を離脱してから新しい隊員もたくさん入ってきて、面白い戦いを楽しめる相手も沢山できた。そんな三年間だった。
――だけど俺はやっぱり他の誰よりお前がいいのだと、お前と戦うのが一番楽しくてたまらないのだと、沢山の相手と刃を合わせる度それを思い知った三年間でもあったのだということを、きっとこいつは分かっていない。
「~~……ランク戦復帰するって言っといて、そっちは全然来ないくせに」
そう零れるみたいに口にした言葉は自分で思っていた以上に拗ねた子どものような口調になってしまって、自分で自分に驚いてしまった。太刀川の言葉に、迅も驚いたように目を丸くする。
「あー……、色々タイミングとかあるんだよ、実力派エリートは忙しいからさ。ちょっとしばらく立て込んでて時間作れなかったのはしょうがないと思ってほしいな」
迅はそう言った後少し迷ったような間をおく。そして、すう、と小さく息を吸ってから再び口を開いた。
「……おれも太刀川さんとランク戦したくないわけじゃないからね。もう少ししたら時間作れるようになると思うから」
先ほどまでの演技がかった軽い口調とは違う、少しだけ低くなった声がしんと部屋の中に落ちる。その声のトーンに、普段は飄々と躱して本心など見せようとしない迅の心の内側の部分にちらりとだけ触れられたような心地になった。それに少しだけ驚いてしまって、咄嗟に返事が紡げなかった。太刀川の一瞬の迷いの隙をつくようにして、迅はぱっと口調をわざとらしいほどに明るく戻して言う。
「さて、太刀川さん。頭使ったからお腹空かない? 夕飯にはちょっと早いけど、なんか買ってこようか」
迅の言葉で、わずかに真剣な色を孕みかけた部屋の中の空気がからっと明るいものに変わる。言うが早いか立ち上がる迅に気圧されてしまって、「あー、おう」と太刀川の返事は曖昧なものになってしまった。しかし確かに、言われてみれば確かに腹は減っている。空腹を自覚してしまえばそちらに思考が向いて、何か食べたいなという気持ちがむくむくと膨らんできてしまった。
「うわ、自覚したらすげー腹減ってきたな」
「でしょ?」
迅はそう言いながら部屋の隅に置いていたコートを手にとって羽織る。そんな迅を見ながら、太刀川は今何が食べたいだろうと考える。そうしてぱっと頭に浮かんだものを口にしてみた。
「あれだ、商店街の肉屋で売ってるコロッケが食べたい。あのちょっとちっちゃい、おやつコロッケってやつ」
そう言えば、迅はこちらを振り返ってニヤリと得意気に笑った。
「りょーかい」
その表情に、あ、これはこいつ視てたな、と思う。多分未来視で既に太刀川が食べたがるだろうものを知っていたのだろう。迅に未来視を使われるのは特に嫌でもなんでもないので、なるほどな、と納得する。口角を楽しそうに上げて笑うその表情がどこか子どもっぽくておかしい。というかそれなら別に先に買っておいてくれてもよかったのにと思うが、そんな回りくどさも何だか迅らしいなと心の中で笑ってしまった。
出かける準備をてきぱきと整えていく迅に、じゃあ俺も、と立ち上がろうとしたところで「あ、ダメダメ、太刀川さんはレポートあるでしょ」と先回りで制止されてしまう。
「バレたか」
「そりゃバレるよ」
迅はふふん、と鼻を鳴らして笑って、コートのポケットに財布と携帯、トリガーなど必要最低限のものを入れてからまた太刀川のほうを振り返る。
「それじゃ、もう一息がんばって。サボらないでよね~」
まるで歌でも歌うみたいに軽やかに言って、迅は玄関の方に向かっていく。ドアが開いて閉まる音がしてから、太刀川はベッドに凭れて小さく息を吐く。
ひとりきりになった部屋の中はしんと静かだ。確かにあいつがいなかったら一人でレポートやるとか無理だな、飽きて本部行ってるか寝るかしてそうだななんてことを思う。だとすると迅が来てくれたのはある意味で正解だったのかもしれないが、しかしやっぱり迅の側にどういうメリットがあるのかはよく分からなかった。
しかし今日の迅は、ただ何をするでもないというのにいやに楽しそうだったので、不可解なことは不可解なままだがまあそれでいいのかなとも思う。迅がよくわからないのなんて今に始まったことでもないのだから。
(……あいつのそーいうとこがなあ)
どうにも憎めなくて、そんなところも含めて迅らしいと思う。端的に言えば迅のそういうところを、かわいいやつだと思っている自分がいるのだ。
◇
商店街を抜けてしばらく歩くと開けた土手に出る。空にはもう夕日が滲んで、空と川の水面を鮮やかな橙色に染めていた。部活帰りらしい自転車に乗った学生たちとすれ違いながら、がさがさと小さなコロッケの入ったビニール袋が迅の足音に合わせて音を鳴らす。まだまだ冷たい夕方の風が迅の頬をさらりと撫でるように吹き抜けていった。
(いやータイミングばっちりだったな、流石は実力派エリート)
ちらりと手に持ったビニール袋に視線を向けた後、迅はそう声には出さず自画自賛した。
このコロッケは、本当は行きがけに差し入れだと言って買いに行ってもよかったのだ。というか、最初はそのつもりでいた。
しかし丁度今頃の時間に揚げたてのコロッケがちょうど補充される未来が視えてしまって、折角なら揚げたての方が太刀川さん喜ぶかもなあ、なんて思ってしまったらどうにもその顔を現実として見たくなってしまった。だから太刀川の家に行ってから途中でまたわざわざ買いに戻るだなんてまどろっこしいことをした。そんな自分に、心の中で苦笑する。
夕日を眺めながら、太刀川の家までのんびりと歩いていく。太刀川は今頃ちゃんと真面目にレポートを書いているだろうか。未来視によれば、今頃パソコンの前で悪戦苦闘している未来が半分、ベッドにもたれて「無理、書けねえ」とうだうだしている未来が半分だ。果たして自分が帰宅する頃にはどちらの太刀川がいるだろうか。
(……今日おれが行かなかったらレポート結構やばかったのは本当、だけど)
嘘は言っていない。だけど、太刀川には言わなかったこともある。
本当は今日迅が行かなくても、太刀川にとっての最悪の事態――留年を免れる未来に辿り着く為の選択肢はいくつかあった。例えばもう少し早いタイミングで堤や来馬に声をかければなんだかんだ手伝ってくれただろうし、嵐山を頼ればその授業を履修している友達に参考になりそうな本を教えてもらうことだってできた。隊室にパソコンごと太刀川を押し込んで、出水たちに監督をしてもらうことだってできただろう。
そもそも迅だって今は、次に近界民絡みで三門に起きそうなことを既になんとなく予知しているためやるべきことは色々あるのだ。それを疎かにするのを自分で自分に許すことはまずできない性質なので、色んな事を前倒しにして周到に今できる下準備をした上で、無理やりに時間をこじ開けたのが今日だった。
わざわざ無理やり時間をこじ開けてまで迅が自分で出向いて、そしてただただ太刀川のレポートを見張るだなんてことをしているのは、単純に迅個人のわがままのようなものだ。我ながらばかみたいだなと呆れる。だけど後悔はしていないのだからまた質が悪かった。
先程の太刀川の言葉を思い返す。太刀川があんな風に、拗ねたような口調で言うのが予想外で驚いてしまった。あの太刀川の言葉をどう心の中に置けばいいのか迷って、座り悪くむずむずとした気分になる。しかしその驚きや戸惑いと同じくらい、じわりと心の中に柔らかな嬉しさも広がっていくのも確かだった。
(……太刀川さんも、結構、おれが思ってたより楽しみにしててくれたのかな)
三年と少しの間離れていれば、忘れられても仕方がないことだと思っていた。けれど同時に、忘れないでいてほしいとも、あの頃と同じだけの熱を絶やさないでいてほしいとも思っていた。自分から離れておいてそれはひどいわがままだと自覚していたから、おくびにも出さないようにしてきたのだけれど――太刀川も、迅とまた戦えることをとても楽しみにしてくれていたのだろうか。
A級に戻った時に宣戦布告こそしたものの、今はもう少しやることがあるからランク戦に本格的に参加できるのはあと少しだけ先になりそうだった。実際のところは、たまーに十本勝負くらいなら時間を作れないわけではない。しかし一度刃を交えればすぐにもっともっとと求めてしまいそうになるだろうこと、そしてどうせやるなら何も気にせず全力で熱中したいからと、あえて自分に我慢を課している。
本音を言えば、迅だって今すぐにでも太刀川と戦いたい。あの人の手が繰る弧月を、靡く黒の隊服を誰より近くで見て、そして誰よりその刃を叩き落として斬り落としてやりたい。楽しくて、楽しくて仕方のなかったあの日々を思い出せば、それだけで期待にぶるりと身震いをしてしまいそうになった。
でも、と迅は心の中で呟く。
そんな暴力的なほどの気持ちと同時に、ただただ太刀川と居ることが楽しいとも思う。
S級になってからの日々だって太刀川との交流が完全に途絶えたわけではない。本部で会えば雑談くらいは交わす仲だった。
しかし風刃での対峙を終え、太刀川に対して密かにずっと背負っていたものがなくなって、またランク戦で競い合える立場に戻って。何も気負わず、気楽に太刀川と一緒に居られる今は、想像していた以上に楽しい時間だった。
今日のことだって、一緒に過ごしたかった、なんて言葉にすればひどく甘ったるいようなわがままだけれど、内心のところはレポートに苦しんでいる太刀川を眺めるのも楽しそうだなんて悪戯心も大きなところを占めていた。しかし実際にそうしてみれば、ただ太刀川を眺めているだけでこんなに楽しくて満たされるなんて、自分でもひどく驚いてしまった。
(……あー、戻れないなあ)
その言葉を音にはしない。その代わりに、は、と小さく吐き出した息は空気を薄く白に染めた後、橙色の夕日を浴びてじわりと溶けていった。
薄々気が付いていた。ずっとかたくなに認めたくなかったけれど、一度大きな肩の荷を下ろしてしまえば、その開いた心の隙間にするりと我が物顔でその感情が入り込んで居座ってしまう。
(――太刀川さんがすきだ、なんて言ったら、あのひとどんな顔するんだろうな)
言いたくて、言いたくない。太刀川がどんな顔をするのか、視たいような気もしたけれどそれを使うのはズルのように思えて、そして少し怖くもあって、意識しないようにしてきた。
(好きな人と一緒に居たい、喜ぶ顔が見たいだなんてさ。おれ、自分がこんな健気だなんて知らなかったなー)
言葉にすれば笑ってしまいそうなほどに拙い恋だ。ようやく認めてしまった感情は持て余してどうしたらいいか分からないままで、しかし太刀川とこうして気楽に過ごせる時間が楽しいのだと今は素直に思えている。
住宅街まで戻ってきて、いつの間にかもう太刀川の住むアパートが遠くに見えてきていた。
がさり、と手の中の袋が揺れる。もうすぐ家だと思えば太刀川の喜ぶ顔が早く見たくなってしまって、知らずのうちに迅は歩調を早めていたのだった。