夢なんかにわたしてやりはしない
ずるり、と自分の中から迅の自身が抜け出ていく感覚に、敏感になった体はそれだけで小さく震えた。長く息を吐いてその感覚をやり過ごしている間に、迅は役目を終えたゴムの口を手早く縛ってベッドサイドのゴミ箱に放っていた。快楽の余韻と体を動かした疲労感で、今はまだ体を動かすのを億劫に思う。視線だけを迅の方に向けてそのままぼんやりと見ていると、迅の青い瞳がゆっくりとこちらを見た。ぱちんと目が合う。
「迅。……喉渇いた」
そう言った声は少しだけ掠れている。先程まで何度も声を上げさせられていたから、喉が渇いて水分を欲していた。迅は太刀川の言葉を聞いてひとつ瞬きをした後、「ん、ちょっと待ってて。水持ってくる」と先程までの余韻かこちらはいやに甘ったるい声色で素直に返事をしてきた。
ベッドから立ち上がった迅はベッドのすぐ下に無造作に放っていた自分のパンツを拾い上げて履くと、パンツ一枚のままで居室を出て行く。普段の迅の軽やかな動作とは違う、どこかのったりとした動きに、迅が自分を取り繕おうとしないオフの状態であることを感じさせる。こういう迅の姿を、他の誰がどのくらい知っているだろうか。
深夜の住宅街はしんと静かだ。警戒区域にほど近いこの部屋でもこんなに静かということは、今日はほとんど門も開いていないのだろう。この部屋の中で知ることのできる生きものの息遣いは、自分と迅のふたりだけしかなかった。
廊下から冷蔵庫が開閉される音を聞きながら、太刀川はゆっくりとした動作で体を起こす。腹の辺りに散った自身の精液をティッシュで適当に拭った後、自分だけ出しっ放しなのもなと自分もベッドの下に放ってあったパンツを拾い上げて履き直す。まだ体は汗やらなにやらで体がじっとりとした感じはあるが、まあそのあたりは色々まとめて後でシャワーで流せばいい。
最低限の身支度を整え終えるのとほとんど同時に、迅が戻ってくる。その手には小さなミネラルウォーターのペットボトルが二本。そのうちの片方を迅は太刀川に手渡す。
「はい、太刀川さん」
「おお、ありがとな」
礼を言ってペットボトルを受け取り、キャップを開けて水を飲む。迅もベッドに腰掛けてもう一本のペットボトルを開けてごくごくと飲んでいくのを横目で見ていた。冷蔵庫で冷やされていた冷たい水が渇いた喉に染み渡って心地が良い。少しばかり多めの量を口に含んで、ごくりと飲み込む。と、先に水を飲み終えたらしい迅がペットボトルを手に持ったままこちらをじっと見つめていたので、不思議に思って見つめ返す。
「どうかしたか?」
そう聞けば迅は少しぼんやりとした様子で、「んー……」と少し考えるような素振りを見せた。
「なんかさ、今も時々思うんだよね。夢の中にいるみたいだなって」
迅の言葉に、太刀川はぱちくりと目を瞬かせる。迅がそんなことを言い出すなんて思ってもみなくて、驚いてしまったからだ。迅の言葉の意味を知りたくて、太刀川はじっと迅の言葉の続きを待ってみる。迅は太刀川が何も反応を示さないことには構わない様子で、続きを口にする。
「……あの頃はまだこんな未来が来るなんて全然視えてなかったしさ」
迅は太刀川を見ながら、しかしどこか遠くを見つめるみたいにして言う。
あの頃、というのはきっと、三年と少し前――迅が風刃を手にし、ランク戦を離脱した頃の話だろう。あの時の迅は、太刀川も見たことのない表情をしていた。迅が何を考えているか、なにひとつ読み取れないような気持ちにさせられたのは、迅と出会ってから初めてのことだった。しかしその鋭く細められた青い瞳は普段の軽やかで意識的に人なつっこさを纏っているようなそれとは正反対の、何人も立ち入ってくるのを拒むような、そんな色を纏っていたことは分かった。
迅は未来視のサイドエフェクトはあるが、それはその人間の全ての未来を視ることができるみたいな万能な能力なわけじゃないらしい。視えるのは未来のいくつもの可能性で、そしてよっぽど可能性の高い未来でなければ数年先まで視えるようなことはほとんどないと言っていた。
あの時きっと迅は、覚悟を決めていたんだろうと思う。自らの師である武器を手にすることと引き替えに、これまでの日々を手放す覚悟を。
迅がA級に戻ってきてから少し後。何かを観念したような表情で、耳を赤くしながら太刀川に告白をしてきた時、迅は「ずっと好きだったんだ、太刀川さんのこと」と言った。その「ずっと」というのがいつからなのかは明確には聞いていないけれど、高校生の頃、二人で日夜ランク戦ブースにこもってバチバチ戦りあっていた頃のことを指しているのかもしれない。
そうだとしたら迅は、自身の恋情ごとあの日心に押し込めたのだろうか。
脳裏にあの日の迅の表情がフラッシュバックする。あんな、誰も立ち入らせないみたいな、ぴんと張り詰めたような強くて脆そうな瞳で。どんな思いでこの男は、まだ十六歳だったこいつは、何を思っていたのだろう?
――あの頃の自分は、ついぞ尋ねることはできなかったけれど。
太刀川は迅を見つめる。と、その視線に今更に気付いたような表情になった迅は、はっと大きく目を見開いた。
「――……って、待って。うわ、今のなし、忘れて! ちょっ、何言ってんだろおれ」
先程までの淡々とした声色とは打って変わって、我に返ったらしい迅は急に慌てたような声を上げる。そんな迅がいやにかわいく思えて、太刀川はぐっと迅との距離を詰める。目線は逸らさないまま肩と肩とが触れ合う距離まで近付いて、太刀川はにっと口角を上げる。
「俺がそう言われて素直にハイ忘れますって言うと思うか?」
太刀川がそう言えば、迅は唇をわななかせる。その耳があの告白の日ほどではないがうっすらと赤く染まっているのが見えた。
「……授業で聞いたことはチャイム鳴ったら即忘れるくせに!」
「違うな、チャイム鳴る前からもう忘れてる」
「自慢げに言うことじゃないからそれ!」
そう返してくる迅がおかしくて、なっはっはと太刀川は笑う。そんな太刀川に、迅は「あ~、もう」とペットボトルを持っていない方の手で恥ずかしそうに口元を覆った。
いくら誤魔化そうとしたって、聞いてしまったものはもう遅い。忘れてやるわけにはいかないな、なんてことを思いながら、持っていたペットボトルをベッドのすぐそばのローテーブルの上に置いてから太刀川は「迅」と呼ぶ。
「なに、……っ」
ふてくされたような仕草をしながらも律儀に返事を返してきた迅の手首を掴んで、抵抗をされないうちに顔から引きはがしてやる。そうして晒された唇を奪ってやった。触れた唇はあたたかくて柔らかくて、何度触れたって新鮮に心地が良いと思える。数秒の間そのまま塞いでから、ゆっくりと唇を離す。
至近距離で目線がかち合う。小さく揺れる青の双眸は動揺しているようで、しかしその奥に確かにまた温度の高い炎が灯ったのを見つけて太刀川は口角を上げた。
「ねえ、太刀川さん」
牽制するように迅が太刀川の名前を呼んだ。ぐっと唇を引き結んで、何かを耐えるような表情だ。そんな強情な仮面なんて剥がしてやりたくて、太刀川は返す。
「なんだよ、したくないか?」
「した……くない、わけじゃないけど、なに、急にスイッチ入ったみたいに……」
――そんなの、いじらしくて仕方のないこの男を、どうにも愛しく思ってしまって、甘やかしてやりたくなってしまったからに決まってる。
そう返す代わりに、太刀川は口を開く。
「なあ」
呼びかけると、迅は素直に太刀川の言葉の続きを待った。太刀川はじっと迅の青い瞳の奥を覗き込みながら、迅に言い聞かせるみたいにして言う。
「これは夢なんかじゃないからな」
掴んだままの迅の手首はあたたかくて、しっかりとそこに血が通っていることを、これが今で、現実であることを教えてくれる。
迅は困ったように眉根を寄せて目を細めて、そうして零れ落ちるみたいな声色で返してきた。
「……、知ってる」
「そりゃよかった」
掴んでいた手首を解放してやって、空いた手で今度は迅の頬に触れる。見た目の印象よりずっと滑らかで柔らかい、普段よりも少しだけ高い温度を灯した頬の感触をしっかりと感じながら、再び唇を重ねた。唇が重なる直前、至近距離にあった迅の瞳が観念したみたいにゆっくりと細められるのをみた。太刀川が唇の隙間から舌をねじ込むのとほとんど同時に抱き込むみたいに腰に迅の手が回されて、素肌に感じるその温度を、感触を、呆れるくらいに心地よく思った。