AM3:00、世界にふたり
目が覚めた瞬間、じっとりとした蒸し暑さを覚えた。部屋の中はまだ暗くて、夜がまだ明ける前であることを知る。窓の外からは細い雨音が聞こえてきて、いつの間に降り出したんだろうかとぼんやり思った。この部屋に来た時はまだ曇ってはいたけれど、雨は降っていなかった。その後は――互いの熱に夢中になってしまったから、外がどうだったかなど覚えていない。
蒸し暑さと雨の音に、梅雨だなあ、と思う。春が過ぎて、夏の前。その谷間にある雨の季節。雨は嫌いではないけれど、この梅雨特有の蒸し暑さはあまり好きなものでもなかった。
すぐ隣に眠る熱源を見やる。均整のとれた体が健やかに上下している。眠っているのでこの人の特徴的な格子の瞳は今は見えない。いや、蒸し暑いのはこの人のせいじゃないんだけどさ。しかし狭いシングルベッドに大の男二人で寝ればもうぎゅうぎゅうになって、体感の暑さを増していることは確かだろう。自分だけソファにでも移動して寝れば多少はこの暑さはマシになるだろうが、けれどこの人がもたらす温度だと思えばそちらはどうも拒むつもりにはなれないのだった。
蒸し暑さに気付いてしまえば、薄く汗のかいた体が少し落ち着かない心地になる。そういえば喉も少し乾いている。朝が来るまで二度寝しようかと思っても、それが気になり始めてしまえばどうもうまく寝付けそうになくなってしまった。
(……水でも飲むかあ)
仕方ない、と心の中で呟いてゆっくりと体を起こす。起き上がれば、ぎゅうぎゅうのシングルベッドから脱したためかわずかに体感温度が下がった気がして心地がいい。しかし同時に隣に感じていた体温も離れたのを、ほんの少しだけ寂しく思ってしまった。
と、「んー……」と隣から小さな呻き声が聞こえる。思わずぱちりと瞬きをした。その間にゆっくりと目の前の男の瞼が開かれる。暗がりに慣れた目が、その自分とは違う模様をした瞳を捉える。
「じん? ……どっか行くのか?」
まだ覚醒しきっていないせいか、どこかとろんとしている、子どもっぽいような響きで名前を呼ばれる。この人にはそんな声色はひどくアンバランスなように思えて、妙に落ち着かないような気持ちにさせられてしまう。
「や、……ちょっと水でも飲もうと思って」
そんな気持ちを隠そうとしながら出した声は、少し喉に貼り付くような感覚がした。やっぱり喉が渇いているのだ、ということを改めて思い出させられる。迅の言葉を聞いた太刀川は「あー」と返した後、くぁ、と大きく口を開けて欠伸をした。
「俺も行く。暑くて喉渇くよな」
太刀川はそう言うなり、ベッドから体を起こした。太刀川の声に先程のとろけるみたいなふわふわした響きはもうすっかりなくなってしまって、寝起きいいよなあ、なんてことを思いながら迅は「うん」と返す。
「まだ夜中か。変な時間に起きちまったな。あー雨」
ふいと窓の外を見た太刀川がそう呟く。カーテンを閉め忘れた窓には細かい水滴が貼り付いて、その向こうの空は暗い雲が覆っている。太陽はまだ気配すら見えない。今は何時なんだろうか、と迅は頭の片隅でちらりと思ったけれど、どうせ明日の防衛任務は夕方からだ。午前中は非番なので、別に今正確な時間を知る必要もないなと思ってスマホを手に取るにはやめることにした。
「そうだね」
そう言いながらベッドから立ち上がると、太刀川もそれに続いて立ち上がる。部屋のドアの方へ向かって歩きながら、太刀川が口を開く。
「また夜中のうちに逃げられて朝起きたらおまえがいないなんてごめんだしな」
揶揄するような言葉に、ぐ、と迅は何も言えなくなってしまう。そのことを突かれてしまえば本当に言い訳のしようもないのだ。
初めて体を重ねたのは、ほとんど勢いだった。ランク戦に復帰して、互いの距離もかつてのような近いものに戻った頃。ランク戦を二十本やって興奮冷めやらぬままに太刀川の家に誘われて、二人きりで、ほんの少しだけ手を伸ばせば簡単に触れてしまえそうな距離で。ずっと隠していたかったはずの、隠せるつもりだったはずの気持ちがどうしようもなくなって唇を寄せた。抵抗なんてなにひとつせずそれを受け入れた太刀川に、ぐしゃりと気持ちをかき乱されてしまった。嬉しさなのか、焦りなのか、苛立ちなのか、期待なのか、とても一言では形容できそうにない感情だった。
そんな情動に突き動かされるままに押し倒して「ねえ、太刀川さん、いいの? おれは太刀川さんとこういうことしたいって思ってたんだよ。ずっと前から」と吐き捨てるみたいに言った、その声はひどいものだったと自分でも思う。どんな表情をしていたかまでは意識しないようにしていたからわからない。だって言葉を重ねる度に、未来視はひとつの未来に収束していってしまうのだ。本当は嬉しいことのはずなのに、それにひどく焦燥のようなものを感じていた。「逃げるなら今だよ。これ以上進んだら――」そう言いながら、ああ言葉選びまずったな、と気が付いた。しかしもしかしたら、無意識にあえてそんな言葉を選んだのかもしれない。自分が太刀川に対してとても負けず嫌いになってしまうのと同じくらいに、太刀川だって迅に対してかなりの負けず嫌いなことを、迅もよく知っていたはずなのだ。「逃げる?」太刀川は案の定そう言ってくっと笑った。その表情がこれまでに見たことのないような色気を纏っていて、迅はごくりと喉を鳴らしてしまった。「逃げねーよ。いいぞ、迅」そう言っていやに優しい手つきで頬に触れられたら、もう、止まれるはずもなく。
――そうして体の関係を持った後、最低限の後処理をしてから疲れて寝入って、今日みたいに不意に目が覚めた夜明け前。隣ですやすやと寝ている太刀川を見て、昨夜のことを思い出して動揺と後悔で居ても立ってもいられなくなってしまい、朝を待たずに太刀川の部屋を一人で飛び出してしまったのだった。
あの後また色々と、まあ紆余曲折あって、今はこうしてしっかりと「恋人」という位置におさまっているのだが。しかしあの時のことは動転していたとはいえ我ながらひどいなと言わざるを得ない。
「……それは悪かったって。反省してる」
心からの反省の弁を述べると、太刀川はふっと息を吐いて笑う。
「冗談。もう気にしても疑ってもねーよ」
そう言う太刀川の声色は軽くてさっぱりとしていて、本当に何も気にしていないのだろうということが伝わってくる。あの後だって、何も言わずに出て行ったことを「逃げるなら今だとかおまえが言ってたくせに、おまえの方が逃げてんじゃねーか」と呆れたように怒られはすれ――太刀川に怒られたのは、太刀川との短くはない付き合いの中でもあの一度だけだ――告白すら中途半端なまま勢いでセックスをしたこと自体はなにひとつ怒られなかったことを思い出す。
太刀川がもう気にしていないというのは大変ありがたいし、もう逃げるようなことはしないだろうと信じてもらえているのはじわりと嬉しい気持ちにもなる。しかしだからこそ、あの時の話になれば迅は居たたまれないような心地にもなるし、心がくしゃりとかき乱されてしまう。こうして太刀川がただ迅をからかうためにあの時の話題を差し向けてくるのはそんな迅を知っていてのことに違いなかった。半分はいつものような自分たちなりの戯れで、もう半分はきっとそんな迅の反応を楽しんでいる。
「ほんと、……」
ひどい人だな、なんて言おうとして、それを自分が言えた立場でもないなと思い直して言葉にするのはやめにした。暗がりの中で太刀川の楽しげな視線を感じたけれど、それには気付かないふりを決め込んだ。
部屋を出てキッチン兼廊下に出ると、太刀川が慣れた手つきで照明のスイッチを押す。すぐにぱっと点いた電気が暗がりに慣れてしまった目には眩しくて、迅は何度かぱちぱちと瞬きをした。そうしている間にも太刀川は全く怯む様子もなくすたすたと食器を乾かしているかごの方に向かっていくので、この人の目ってどうなってんの、トリオン体みたいに通常モードと暗視モードをワンタッチで切り替えられんの? なんて気持ちになってしまった。
太刀川はかごの上に置いていた自分用のマグカップと共に、いつの間にか迅専用のようになっている来客用のマグカップを迷うことなく棚から取り出す。水道の蛇口を捻って、二つのマグカップの中に水を注いでいく。ざあ、と水が水道から流れ落ちていく音と、先程よりも少し遠くなった雨粒が窓を叩く音が重なる。
「はい」
「ありがと、太刀川さん」
太刀川が差し出してくれたマグカップを受け取って、なみなみに注がれた水を一瞥してからぐいと喉の奥に流し込む。そのままの水道水なのでキンキンに冷たいというわけではないけれど、蒸し暑い夜にはこのくらいの冷たさでも十分心地が良かった。普段は何とも思わない水が少しだけ美味しいように感じて、思っていたよりも自分はどうやら喉が渇いていたらしいと知る。
適当な量を飲み込んでから隣の太刀川を見やると、太刀川も喉が渇いていたらしくまだ水を飲んでいる最中だった。なんとなく手持ち無沙汰で、ぼんやりと太刀川の横顔を眺める。ごくりと水を飲み込む太刀川の喉仏が上下する様子が不思議なほど艶めかしく思えて、目に焼き付いてしまった。自分のものよりもずっと男らしく飛び出た喉仏と、そこから伸びる鎖骨や胸のラインが、きれいだななんてことを意識の隅で思った。
そんなに熱心に鍛えているとは思えないのにしっかりと均整の取れた体は、同じ男として羨ましくつい見惚れてしまいそうになるのと同時に、形を確かめるみたいに触って、噛みついてみたいとも思わされる。つい数時間前も散々そうしていたのに、まだまだ尽きない己の欲に呆れる。そして、そうしたとして、この人が拒まないだろうことも知っていた。
太刀川がマグカップから口を離して、視線に気付いたのかゆっくりとした仕草で迅を見る。視線が絡み合う。凪いで穏やかだった瞳が迅を見つめて、伝染するみたいにほんのわずか、色を灯したのを確かに見つけた。
「太刀川さん」
何かに誘われるみたいにして、名前を呼んだ。その先のことはなにも考えてはいなかった。呼ばれた太刀川は、「ん?」と言ってまるで迅の目の奥を覗き込もうとするかのように見つめる。甘やかされている、なんてことをその一音で気付かされてしまう。普段、本部で会う時なんかは全然そんな素振りすら見せないくせに。
――どうしてこの人は、おれに抱かれてくれるんだろう。
そんなことを、不意に思う。
あの衝動に任せて太刀川を押し倒した夜からずっと、行為の時の上下は変わっていない。「逃げるなら今だ」なんて最初の日に忠告はしたし、その後にも、嫌だったら止めてということは何度か言ったことはあるが、改まってそういった時の役割について相談したことはない。あの日からずるずると、なんとなく、そのままできてしまったというような状況だった。
実のところ、迅としてはそこはあえてなんとなくのままにしようとしている節があった。改まってどうしようかなんて聞くのは、少しだけ怖いのも本音だったのだ。もし太刀川が本当は不本意だったら、とか、自分も抱いてみたいとか言われてしまったら、なんて。いや、太刀川がもし迅を抱きたいと本気で言ってくるようであれば自分もちゃんと考えようとは思う、思ってはいる……ただ覚悟と気持ちの準備がすごく、かなり、必要になるだけで。とにかく、あえて聞かないことで、自分はきっと太刀川に甘えている。
それを迅は心の隅で少しだけ申し訳なく思っているというのに、しかしこれまで体を重ねてきた中で、太刀川に拒まれた記憶などただの一度もなかった。痛いとかきついとか言われたことはあっても、次に続くのは「でも大丈夫だからもっときていいぞ」なんて許しの言葉ばかりだ。だからブレーキなんてかけられずに、そのままずっときてしまった。
どうして、なんて。聞いて確かめたいような気持ちもずっとあって、でも、聞く勇気がなかった。勇気がない、というより、気恥ずかしいというほうが近いのかも知れない。
本当は、最近はもう、さすがに気付いてもいる。太刀川がこの関係を不本意だなんてきっとかけらも思っていないこと。太刀川が迅を抱いてみたいかどうか――は確かめないと分からないけれど、しかしきっと迅が本気で不安に思ってしまうようなことは、自分たちの間にはきっともう無いんだろうということ。
(……こんなにも強い人が)
拒もうと思えばいつでも拒めるだろう。本気でひっくり返そうとすればひっくり返せるだろう。それなのに、どこまでもおれの好きなようにさせて、素直におれに組み敷かれてくれるということ。
それは、きっと。
「……なんでもない」
何も考えずに呼んでしまった名前の後、何を言うかしばらく逡巡した後に結局口にしたのはそんな言葉だった。迅がそう言うと、太刀川はわざとらしく拗ねたような表情をする。この人が大人になった今もこんな子どもっぽい表情をするんだということを知ったのは、恋人という関係になってからだった。
「なんだよ、気になるだろ」
太刀川の言葉を聞きながら、迅は誤魔化すみたいにマグカップの中に残っていた水を一気に飲み干す。空になったマグカップを戻そうとすると、太刀川の手がそれを流れるように受け取る。
「ま、別にいーけど。どうせおまえ言いたくないことは言わないだろ」
言いながら二人分のマグカップを流水で軽く洗って、かごの上、今度は二つ並べる形で戻していく。二つのマグカップの縁を水滴が流れていくのを迅が眺めていると、まだ少しだけ濡れたままの手でくしゃりと頭を撫でられた。この人がこんな戯れをする人なんだってことも、恋人になってから知ったことだ。
触れた指先の温度が心地がいい。太刀川の体温はいつも迅よりも少しだけ高い。
この人がただただ強いだけじゃない、一見した胡散臭さに紛れて分かりにくいけれど優しい人だって、おれ以外にもボーダーで彼に関わりのある人ならきっとたいてい知っている。だけどこの人が、こんな優しい手つきで触れてくること、柔らかい目でこちらを見つめることを知っているのは、きっとおれだけだ。
太刀川が、きっと自分を一等特別の位置ににおいてくれていること。それを言葉にせずとも不意にこんなときに気付かされてしまって、そのたびどうしようもないような気持ちが渦を巻く。
「太刀川さん」
「ん、今度はどうした」
また呼びたくなってしまった名前、今度は浮かんだ言葉を素直に口にすることにした。伝えておきたい気分だったから。
「すきだよ」
そう言うと、太刀川は小さく眉毛を動かしたのが見えた。その後、ふっと太刀川の口角が上がる。
「俺も好きだぞ、迅」
何気ないふうに言われたその言葉が、その声が。どれだけやわらかくて無防備だったかなんて、世界中でただひとり、おれだけが知っていればいいことだった。