その名前と声のいろ



「迅」
 まだ今みたいに顎髭も生やしていなかったあの人が初めてその名前を口にしたとき、どういう文脈だったかまでは覚えていない。ただ、他のものとは少しだけ違う、いやに大事そうで、なのにどこかそっけない、そんな不思議な音でその名前が呼ばれたことを覚えている。ただ、その意味が何なのかを正確に知るには自分はまだ幼かったし、ボーダーにも入ったばかりで右も左も分からなかった。
 だから、一瞬心には引っかかったものの、覚えること、やるべきことが山ほどある目まぐるしいボーダーの日々に埋もれて、ずっと忘れてしまっていたのだ。

「――それじゃあ、お世話になりました」
 あまり多くはなかった隊室に置いていた私物を鞄の中に詰め込んで、烏丸はぺこりと頭を下げる。今日で、この太刀川隊とはお別れだ。
 センチメンタルになりそうなシチュエーションの中、「おー、元気でな」と隊長はじめニコニコさっぱりとした空気で送り出してくれるのが太刀川隊らしいとも思う。そういうところも太刀川隊の好きなところだった。
 別に今生の別れでもなし、所属が変わるだけでまたすぐにでも会う機会はあるだろう。比較的歴の長い隊員の多いこの隊は、それをみんな知っているから。
 顔を上げた拍子に、餞別に、と言ってここだけは旅立ちの日らしく太刀川が持たせてくれたどら焼きの紙袋が小さく揺れて音を立てる。
「迅と小南にも話しといたから。うちの京介がそっち行くからよろしくなって」
 迅。その人の名前が、この人の口から出るのを随分久しぶりに聞いた気がする。ふと、かつての記憶が、シャボン玉がみたいにぱちんと脳裏に浮かんで小さく弾ける。太刀川と話すようになって、隊にすら正式に入る前、太刀川隊に勧誘されていた頃の話だったと思う。
 あのころ、風の噂程度にしか知らなかった。迅悠一。玉狛のS級の人。
 うちの隊長の――うちの隊長、なのも今日までだけれど――かつてのライバルだったことすら、知ったのはその少し後のことだった。
 人の感情の機微にそこまで関心があるわけでもない。なのに、あの時の、この人の声色だけは、なぜだか今も記憶の片隅にあってふとした時に思い出すことがある。それだけ印象的だったということだろう。
「ま、なんか困ったら迅に聞いとけ」
 あいつ、なんだかんだ言って人の世話焼くの大好きだからなー。そう言って太刀川はなっはっはと笑う。その名前を口にする声に、あの日のような一種の感傷のような色はもうみえない。けれど、その名前を呼んだ時、最後までわかりにくいと思い続けていた目がほんの少しだけ――勘違いなのではないかと思うほどわずかに――やわらかく笑んだ気がした。わからない。勘違いかもしれないけれど。
「わかりました。何かあったら迅さんを頼ります」
 烏丸が言うと、太刀川は満足げに頷く。
 今の自分は、この人と迅さんがライバルだったことを知っている。きっと特別だったのだろうことを知っている。だから、それで、あの時のことはなんとなく自分の中で納得させている。
 太刀川の心の中、どんな気持ちであのときその名を呼んだのだろうことは今でも烏丸には分からないし、知るつもりも、知る必要もなかった。だから別に深く考えるつもりはない。だけど、この人があんな風に名前を呼ぶ人は、今でもあのとき以外、あの人以外、他に聞いたことはないのだった。 



 川の真ん中だからか、本部の近くより幾分涼しく感じる風に青い隊服を揺らしたその人はこちらの姿を認めてにっこりと笑った。
「お、来たな」
 言いながら、ブーツを鳴らしてこちらに歩いてくる。流れるようなその動きに、そういえばこの人は予知のサイドエフェクトがあるんだもんな、ということを思い出す。
 本部でたまたま会った時などに何度か話したことはある。だが烏丸がボーダーに入った頃にはもう迅はS級隊員だったので、ランク戦などで手合わせをする機会などはなかったのだ。だからこうして深く関わるのは初めてのことだ。
 実力派エリートと嘯く、実際実力もある、S級隊員。未来視のサイドエフェクトを持つ。昨日までの、“うちの”隊長――太刀川さんのライバルだった人。
「荷物そんだけか?」
「はい」
「りょーかい」
 そう言って、目の前の男――玉狛支部の迅悠一はついと支部の建物の方を視線で振り返る。それにつられて烏丸も建物をまじまじと見つめた。防衛任務の時などに近くまで来るときはあれど、本部所属であれば何か用事などない限り中まではなかなか立ち寄らない建物だ。こんなに間近で見るのは初めてだと今気付かされる。
「改めて、玉狛支部へようこそ、烏丸京介くん。太刀川さんから聞いてるよ」
 太刀川さん、と、この人がその名前を呼んだのを初めて聞いたと気付く。気付いたのは、その名前を口にした時、迅の瞳がわずかに笑うように細められたからだ。それは昨日、太刀川がそうしたみたいに。
 ――昨日までの隊長と、今日からの先輩。二人の間の不思議な相似を見つけて、そうか、本当にライバルだったのだろうな、となんだかすとんと胸の中に落ちてくる。
「これからよろしく」
 かろやかに、人の好きそうな笑顔をこちらに向ける迅に、そういえば世話好きって太刀川さんが言ってたなということを思い出す。
「はい、よろしくお願いします」
 そう言ってぺこりと頭を下げると、迅はうんうんよろしくねと言った後、支部の扉を開けて「どうぞ」と烏丸を招き入れたのだった。



(2021年6月18日初出)



close
横書き 縦書き