青い春のゆくさき
「それじゃ、かんぱーい」
ビールの缶を軽くぶつけ合わせると、カン、と小気味いい音が狭い部屋の中に響く。手の中のそれをあおると、冷たくてしゅわしゅわとしたビールが喉を通って、夏の入口のこの蒸し暑い夜にはとても心地がよかった。
初めて飲んだ時こそ独特の風味や苦味をあまり好きになれなかったものの、背伸びをしてなんでもないような顔で何度も飲み続けているうち、段々とビールの美味しさというやつが分かり始めてきたような気がする。それがなんだか嬉しいと思ってしまうあたり、結局自分もまだ子どものままの部分があるのだということには迅は気付かないふりを決め込んでいた。
迅が缶から口を離した時、目の前の太刀川はまだ缶をあおっていた。数秒の後、ぷはあ、と息を吐きながら太刀川がようやく缶を口から離す。
「はーやっぱライブの後のビールは最高だな」
満足げにそう言って太刀川が頷くものだから、迅はくっと笑ってしまう。
「太刀川さんおじさんみたいなこと言って」
「おまえだって一歳しか違わないだろうが。だから来年にはおまえもこうなる」
「そうかな~?」
迅がとぼけたような声をつくってみせると、太刀川は真面目くさった顔で「そうだぞ」と断言する。それがまたなんだかおかしくて、迅はけらけらと笑ってしまう。
いやに楽しい。思考がふわふわしているように思う。まだ缶の半分も飲んでいないのにもう酔い始めたのだろうか。いや、きっと飲む前からもうお互いにちょっと酔っているような感じだった。
だってこんな夜だ。梅雨が明けていやに蒸し暑くて、そんな熱さを吹き飛ばすどころかさらに温度を上げようとでもするかのようなチケット完売満員御礼の客席の前でのライブ、からの太刀川との打ち上げと称した宅飲み。ばかみたいに楽しくてしょうがない。ライブが終わってから、もはや恒例となりつつある太刀川の家に転がり込むまでの間、自分はずっとふわふわしている。
それは多分太刀川だってそうだ。普段と変わらない、うさんくさくてわかりづらい表情のようなくせして、その目はいやに爛々と輝いている。それがまた嬉しかった。同じ時間を、感情を、共有していると思えることがどうしたってこんなにも嬉しい。
高校生の頃に学祭の出し物という遊びの中でバンドを始めてから、早いもので数年が経つ。それぞれの事情や進路などの都合で何人かメンバーの入れ替わりもありつつ、なんやかんやと続けて、気付いたら今に至っている。最初こそライブハウスに出ても地元の友達くらいしか見てくれなかったのが、最近ではチケットが完売することも随分と増え、注目のインディーズバンドとして取り上げられることだって増えた。
確実に今、波がきていて、そのうねりはもっと大きくもっと楽しいものになっていくような予感がしていた。自分のこういう予感というのは、昔から自分でもびっくりするくらいによく当たるものなのだ。きっともっと大きな世界を、これから自分たちは見ることになるんだろうと、迅の中にはそんな確信があった。
バンドをやりたいと言い出した生駒から、誰かバンドできそうな人に心当たりはないかと聞かれて。迅が当時所属していた剣道部の先輩であり、部活を引退したばかりで暇を持て余していた様子だった太刀川を推薦したのも、こんな蒸し暑い夏の日だったことを覚えている。
随分と遠いところまできてしまったように思う。
そう改めて思ってしまえばいやに嬉しいような浮かれるような気持ちが生まれるのを少しばかり気恥ずかしく思って、迅は缶を傾けてビールをあおる。こんな火照った体と気持ちには、冷蔵庫できんきんに冷やしていたビールの冷たさが丁度良かった。
「にしても、今日も楽しかったな」
「だね」
「ラストの生駒のギターすげえ良かったよな」
「あれ終わった後、裏で生駒っち超ドヤ顔してた」
「まじか、見逃した! 惜しいことしたな~」
コンビニで買ってきたつまみを適当に箸でつついていた太刀川はドヤ顔の生駒を想像したのだろうか、迅の言葉にくくく、とおかしそうに喉を鳴らして笑った。その後にまたビールを一口飲む。暑さにわずかに汗ばんだ、男らしく突き出した喉仏がゆっくりと上下していくのがいやに画になって、色気があって、迅はついそれをじっと眺めてしまった。
迅と太刀川が出会った高校生の頃は、勿論二人ともこんな風にお酒なんて飲めなかった。それが今ではこうして、太刀川の一人暮らしの部屋で二人で顔を突き合わせてビールを飲んでいる。あの太刀川と自分が、大人の顔をして、こうして飲んでいることを改めて思うとまた楽しさが募っていくような心地になった。
「太刀川さんのサックスソロもすごいよかったよ」
迅がそう言うと、太刀川はぱちりと目を瞬かせる。そして嬉しそうにふっと迅に笑いかけた。その表情がいやに柔らかく見えたのは、お酒が入っているからだろうか、それとも。
「お、やった。ありがとなー、俺もあれは楽しかった」
わずかに目を細めて笑う太刀川をかわいく思ってしまって、迅の心臓がドキリと音を立てる。お酒に強くない太刀川はもうほんのりと肌が色付いていて、余計に心の中がそわそわとしてしまった。
声も低いし、大学生になった頃から髭だって生やし始めたし、体つきもしっかりと男のそれだ。身長は同じくらいだが、見た目で言えば太刀川の方がずっとがっしりとしている。それなのにこの人のことが、時々妙にかわいく見えてしまうのは、惚れた弱みというやつなんだろうか。まあ、どちらだっていいんだけど。どうせおれは、この人のことになると弱いのはずっと――それこそ、高校生の頃から変わらないのだから。
(にしても、ほんと、ぐんぐん上手くなっちゃってさ)
今日の太刀川のサックスソロが良かったというのは、お世辞でも何でもなく迅の心からの本心だ。それは悔しいほどに、だけど、同じくらいに誇らしくてたまらないほどに。
バンドを始めた時点で、太刀川の楽器経験はサックスどころか授業で触ったリコーダーやピアニカ程度、楽譜もまともに読めないという、なんとも心許ないものだった。迅以外のメンバーは誰もが最初は不安げな表情をしていたが、しかし、迅は誘った時点である程度の勝算があった。
この人は、体を使って覚えることであれば驚くほどに要領を掴むのが早いのだ。
それは迅と太刀川が出会った剣道部でもそうだった。この人の強さは、近くで見て、戦ってきた自分が誰より知っている自負があった。迅が鍛えて新たな手で太刀川に挑んでも、太刀川はすぐに応じてくる。その動物的とも言うべき勘の鋭さと判断力、それらを活かす体を動かす力は迅も舌を巻くほどだった。
だから、迅は疑っていなかった。この人はきっと上手くなると、迅の予感もそう教えてきていたのだ。
(まあ、こんなに上手くなるなんていうのは予想外だったけど)
迅の予想と予感に違わず――いや、その予感を遙かに超えて太刀川はあっという間に上手くなった。一度コツを掴めば上達するのはすぐで、しばらくすれば皆が目を見張るほどに太刀川のサックスの腕前は上達したのだ。今もなお、太刀川のサックスは成長を続けていて、それを末恐ろしいともどうしようもなく楽しみにも思う。
太刀川のサックスが奏でる、太刀川自身を表したような、力強いのに伸びやかで、自由できれいなその音色が迅は一等好きだった。
今日のライブの時も、太刀川のことを斜め後ろから見ながら、ぎらぎらとステージを照らす暑くて仕方のない強いライトの中、会場中の注目を浴びてソロパートを吹くその姿に、もう何百回も見ているはずなのに新鮮に心を掴まれてたまらなかった。心臓がばかみたいに疼いて、ああこの人が好きだななんて思って、焦がれて、眩しさに思わず目を細めてしまった。
この人のことを世界中に自慢したいような、それなのに同時に自分だけのものにしてしまいたいような、相反する思いに駆られた。暴走しそうになる思いをどうにか鎮めながら、指先にその熱量を込めるみたいに鍵盤を叩く。ソロパートを終えた太刀川がちらりと迅の方を見て楽しげに、自慢げににまりと口角を上げて、それだけでひどく満足してしまった自分に少しだけ呆れたけれど、楽しくて嬉しくてそんなことはすぐにどうだってよくなってしまった。
――本当は。バンドに太刀川を誘った理由は、人数合わせとかこの人は上手くなる気がしていたからとか、そういうことだけじゃなかった。もっと自分本位な、自分のためだけの理由。
この人と、もっと一緒にいたかった。
もっと一緒に遊びたかった。
同じ部活の先輩と後輩、という括りの中では自分たちはかなり仲の良い方だったと思う。部活の中でもなにかと意識し合って張り合って、部活が終われば二人で一緒に帰りながらどうでもいい話をしたり買い食いをしたり、思いつきのようなくだらないメールのやりとりをしたり。しかし太刀川が部活を引退して、たまに顔を合わせた時の距離感は変わらないけれど、部活という時間を共有できなくなって、自分たちの関係性が少しずつ薄らいでいくんじゃないかって、そんなことにうっすらと怯えていた。
自分たちを繋ぐなにかが欲しかった。形のある、名前のある何かがないと、きっとあの頃のおれはこわかったんだ。
(青かったよなあー……)
自分のその感情が何からくるものなのかさえ無自覚で、だけど、この人の手を離したくないと心から思ってしまった。そんな自分の必死さを今思い返せば少し恥ずかしくも思うけれど、しかし、そんな時があったから今があるのだ。
今の自分は、その気持ちにつける名前を知っている。ひどくシンプルな、小さな子どもでも知っている、二文字の言葉だ。
「迅ー? どうかしたか、黙り込んで」
不意にこみ上げた懐かしさに物思いに耽ってしまった迅を見て、太刀川が怪訝そうな顔をする。その声にはっと迅の意識は現実世界に戻ってきて、「ああ、ごめんごめん」と言って太刀川を見る。背もたれ代わりにしていたベッドに凭れ直して、迅はふっと笑う。
「ちょっと懐かしいこと思い出してた」
「ふうん?」
太刀川がそう言って少し思案するような表情をした後、しかしすぐに考えるのをやめたように手の中のビールをまたごくりと飲む。それにつられるみたいに、迅も段々と汗をかき始めたビールの缶をあおった。お互いに缶から口を離して、太刀川の目がちらりと迅を見て目線がぶつかる。太刀川がテーブルの上に置いた缶は、からん、と軽い音がした。どうやらもう中身はなくなってしまったらしい。「冷蔵庫――」と言って立ち上がりかけた太刀川の手首を掴んだのに、たいした理由はなかった。それよりもっとここにいてほしかったから。触れたかったから。ただそれだけ。
手首を掴んだ手に力はほとんど入っていなかったのに、太刀川はそれに律儀に動きを止めてくれた。迅が強請ねだるようにその手を軽く引くと、太刀川は察したように迅の方に引っ張られてくれる。再びしゃがみ込んだ太刀川の顔がすぐ目の前に迫って、そのままキスをした。
重ねた唇からは、同じビールの味がした。ひやりと冷たくて、少し苦くて、しかしそれが互いの温度によってじわりと熱を帯び始めるのにいやに色気のようなものを感じてしまう。初めてキスをした高校生の時はもっと、こう。少なくともこんなビールの味はしていなかった。おれたちも大人になっちゃったなあ、と残念がるふりをして、しかしそれが妙に楽しい。太刀川の手が迅の後頭部に回って、迅の髪の毛に遊ぶように触れる。
あの、迅の大好きな音色を灯すくちびるが、奏でる指先が、迅に触れて温度を溶かし合っていく。そう意識してしまえば、自分の内側の熱が上がっていってしまうのはすぐだった。
今も時々、不思議な気持ちになる。自分と太刀川が大人になってもこうして一緒にいること。こうして一緒のステージに立っていること。手で触れられる距離にいて、こんなふうに、互いの熱を分け合える関係性になったということ。
だって、嬉しく思わないなんて無理な話だ。
あの頃欲しかった未来が今ここにある。こうしてすぐ隣で、同じものを見て、一緒に未来をみて、隣同士で追いかけていられる。それを改めて思うたび、自分でも呆れてしまうくらいに、心がわくわくと浮ついて疼いて仕方がなくなってしまう。自分は太刀川のことになるとずっとこうだ。だけどもうこれは、しょうがないのだ。迅自身ももう諦めている。
青春の続きのなかで、ずっと、同じ夢をみている。
唇を離して、太刀川と至近距離で目が合う。腰に回した手をシャツの間から滑り込ませると、素肌に触れた手のひらからじわりと太刀川の温度を滲みだすように感じた。太刀川の腰が迅の手の動きに反応するようにぴくりと小さく揺れる。
窓の外では月が慎ましやかに夜に光を灯し、その周りでは星がきらきらと瞬いていた。数時間前までの熱気や喧噪は消え去ったしんと静かな夜の中で、スポットライトとは程遠いごく普通の室内照明に照らされた太刀川のその目に、迅が映っている。
(やっぱ今日は、妙に浮かれてるな……)
――恋をしている。ずっとずっと、何度だって、この人に。
腰に回したのとは反対の手で太刀川の頬に触れた。太刀川が少しだけくすぐったそうな顔をしたのを見つめた後に、もう一度そのやわらかな唇に唇で触れる。
その唇はやっぱりビールの味がして、だけど先程よりもその奥に太刀川の味も滲んでいる気がして、迅はそれを確かめるみたいに重ねた唇の角度を深める。
触れ合った場所の全部が先程よりもじわりと熱くなっているように感じるのは、きっと半分はアルコールのせいで――もう半分のことは聞かなくたって分かる自分に、いやに誇らしいような気持ちになってしまった。