永遠の色はシルバー



 店内はクーラーが効いているはずなのにじわりと暑く感じるのはこの空間が盛り上がっているからなのか、自分がアルコールが回ってきたからなのか、それともこの大衆居酒屋のエアコンの効きが悪いのか。入口のすぐ近くの席に座っている私はそんなことを考えながら、お酒と会話が進むにつれてざわざわと騒がしく雑然とした様子になってきた店内を眺めていた。
 今日は三門市立第一高校二年C組の同窓会だ。
 久しぶりに開かれた同窓会の出席率は案外良くて、そういえばうちのクラス結構仲良かったもんなぁ、なんてことを思い出す。個人的にたまに遊んでいたような特に仲の良かった友人以外は成人式以来に会う顔が大半で、一気にあの頃に戻ったように懐かしくなる。私も大学からは県外に出ていて、実家も賃貸だった三門のアパートから隣町の蓮乃辺に買った一軒家に移っている。私にとって三門市に来ること自体がそれこそ成人式ぶりだった。もうじき二十代も後半にかかろうかという私たちはみんなすっかり社会人で、それぞれの仕事の話、あるいはもう結婚した人たちは家庭の話など、色々な話に花を咲かせている。
 私はとはいえば、先程まで話していた今でも仲の良い友達の一人であるトモちゃんがお手洗いに行ってしまったので今は少し手持ち無沙汰だ。まあみんなと色々話せたし、お腹も膨れたし、お酒もそこそこ飲んじゃったし、小休憩かな。そう心の中で呟きながら、ふうと小さく息を吐いて壁の柱に凭れる。
 ――と。廊下から聞こえてきた足音と共に、不意に私の視界に影が落ちた。
「すまん、遅れた」
 降ってきたのは、言葉に反して少しも悪びれるような気配のない、のんびりとした声色。私がその声の主を見上げるのと、真ん中の辺りの席から「お、太刀川!」という声が上がるのはほとんど同時だった。
(……太刀川くん?)
 見上げたその姿は、記憶の中の彼の姿よりもさらに背が高くなっているように思えた。いや、それは私が座っているから余計に感じるのかもしれないけれど。声はあのころよりもさらに低くなって、すっかり大人の男性という印象を受けた。
 高校の頃から変わらない緩く癖のついた髪に、独特な格子模様の瞳。対してあの頃は生やしていなかった顎髭と、彼のイメージになかった落ち着いた色のジャケットとすらりと上品なシルエットのパンツが今の彼の大人びた印象をさらに強めていた。いや、大人びたといっても、もう私たちはすっかり大人と呼ばれる年齢なのだけれど。
「太刀川!? 久しぶりだなー!」
「遅いぞ太刀川~! もう料理も半分以上出ちまってるぞ」
「うわ、まじか。仕事だったんだからしょうがないだろ~」
 彼の姿を認めるなり程よく酔いの回った男子たちがわっと盛り上がって、随分と遅い登場となった太刀川くんに声をかけた。
 そういえば太刀川くんって、特定の誰かと特別仲が良いイメージこそなかったのに、クラスの輪の中に気付いたら混じっていて、皆から愛されていて、誰ともフラットに話す不思議な存在だったよなぁと不意に高校時代がフラッシュバックして懐かしい気持ちになってしまった。
 私がそんな懐かしい思い出に浸りかけている間に太刀川くんはあっという間にあの頃みたいにするりと盛り上がる皆たちの輪の中に入っていく。真ん中のテーブルの空いている席に座らされて、格好の話題の種とばかりにかつてのクラスメイトたちが口々に太刀川くんに話しかける。
「うわ、土曜まで仕事とかお疲れ~」
「太刀川ってボーダーだったよな、今もボーダーなの?」
「おう。そのままボーダーに就職した」
 おしぼりで手を拭きながら、誰かが呼んだらしい店員さんに太刀川くんが「生ひとつ」と注文する。注文を終えて店員さんが去って行くと、今度は太刀川くんの斜め前に座っていた斉藤くんが質問を飛ばした。彼はかつて学級の副委員長を務めていて、今は県内とはいえ三門からは少し遠い町のメーカーで営業をしているそうだ。
「ボーダーって私服でいいんだっけ?」
「いや、仕事中は制服」
「あれでしょ、テレビでたまに会見してるような人が着てるようなやつ」
「そーそー、それそれ」
 あの頃クラスの中心的存在で、今は一児の母として育児と仕事をパワフルに両立している小宮さんの言葉に太刀川くんはへらりと笑いながら頷く。その飄々とした雰囲気はあの頃から変わらないのだなあ、とそんな光景を眺めていると、今度は高校生の頃は少しヤンチャをしていたものの紆余曲折あり今は真面目に三門市内の建築系の会社に就職したという渡辺くんが、ほろ酔いの赤い顔で太刀川くんに聞く。
「え? 太刀川って戦闘員じゃなかったっけ?」
「いやー、ちょっと昇格しちまったっつーか……最近は書類仕事メイン。肩こってしょーがない」
「うっわ! 昇格しちまったとか言ってみてー!」
 太刀川くんの言葉に、その周りがどっと沸く。その真ん中にいる太刀川くんは変わらずマイペースな表情のままで、まるで台風の目のようだなあ、なんてことを思った。
(なんか、懐かしいなあ……)
 しばらく放っていたせいですっかりグラスに汗をかいてしまっていたカシスオレンジを一口飲みながら、心の中でそう呟く。程よく甘い味が口の中に広がって美味しい。

 ボーダーというのは、三門市にとってヒーローのような存在だ。未知の怪物から街を守る、まるで漫画や特撮の世界から飛び出してきたかのような私たちのヒーロー。だけど同時に当時の私にとっては、少しだけ怖いというか、どこか私たちとは別の世界の人たちのように思えて、どう接していいのか分からないような気持ちもあった。だって、私たちとそう歳の変わらない人たちが、あんな大きくて怖い怪物に対して命を賭して戦っている。
 私の家は幸いにして近界民の被害は受けなかったし個人的な恨みはないけれど、後に「第一次侵攻」と呼ばれるようになったあの近界民の攻撃によって街がめちゃくちゃに破壊されていったのは、思春期真っただ中だった私の心に少なからずの傷をつけたものだし、近界民に対する恐怖心も植え付けた。その数年後にうちの家族が家を買う時に三門市ではなく蓮乃辺市に買うことにしたのだって、近界民の存在が影響している。
 ボーダーで戦う彼らの恩恵に甘えて、私たちは基本的に「平和」な日々を過ごせている。そんな後ろめたさのような感情と、彼らはどういう気持ちで戦っているんだろうかという尊敬と畏怖の入り交じったような気持ちを、あの頃の私はどう落としどころをつけていいのかわからない部分が確かにあった。
 太刀川くんは、私のクラスで唯一のボーダー隊員だった。
 私たちの母校である三門市立第一高校は、ボーダーが警戒区域の真ん中に基地をつくるのとほとんど同時にボーダーの提携高校になった。とはいえボーダーの隊員もまだ少なかった当時は、一学年に数人いるかどうかという程度で、私たちにとってまだまだ珍しい存在だったように思う。
 クラスの中にいる時はそんなに目立つような存在でもない、勉強は――多分かなり出来なかった方だったと思うけれど、運動も突出してすごい成績を残しているわけでもない、いつもマイペースでぼんやりとした雰囲気の太刀川くんが「あの」ボーダーの隊員だと知った時は、とても驚いた。そして同時に、彼に向けるまなざしをどう位置づけるべきものなのか、しばらくの間うまく落としどころがつけられなかったものだ。
 彼はどうして戦うのか? どんな風に戦うのか? 近界民のことをどう思ってるのか? そう想像してみようと思ったけれど、私にはうまく想像ができなかった。だってクラスにいる間はごく普通で、面倒くさそうに授業を受けて休み時間には時にクラスメイトとバカ話もするような、私たちとなんにも変わらないような等身大の高校生にしか見えなかったから。
 だから、私の中で太刀川くんというのはいちクラスメイトであると同時に、ずっとどこか不思議な存在でもあった。そんな太刀川くんがボーダーの中でもすごく強いのだという話を聞いた時もにわかには信じられなかったし、ボーダーを辞める人も少なくない中で高校を卒業してからもずっとボーダーを続けて活躍しているらしい、と三門から遠く離れた街で、雑談のLINEの流れでトモちゃんから聞いた時もやっぱり不思議な気持ちになったものだった。だけど大人になった私は、素直に「すごいな」と尊敬もした。太刀川くんは今でも、私の故郷のあの街で、頼もしいヒーローを続けているのだと。彼がどんな風に戦って、どんな風に強いのかは、私は未だよく知らないのだけれど。

「ごめん、お手洗い混んでた~。おまたせ」
 その声に顔を上げると、少し前にお手洗いに行ったトモちゃんの姿。私は奥の席に戻ろうとする彼女のために少し体をずらして道を空けてあげながら、今話題の中心になっている彼の方を目線で指しながら言う。
「おかえり。太刀川くん来たよ~」
「え、懐かしー! っていってもたまにボーダーの広報誌で見かけてはいたけどさぁ」
 私の言葉にトモちゃんは自分の席に腰を下ろしながら太刀川くんの方をちらりと見て、わっと表情を明るくする。やっぱり、私たちにとって太刀川くんは大事ないちクラスメイトであると同時に、少しだけ特別な存在でもあるのだとその表情と声色で分かる。
「あ、そうなんだ。三門だとコンビニとかに置いてるもんね。太刀川くん結構出てるものなの?」
「うん。って言っても私もそんなに熱心に読んでないけどねぇ。これ前にも言ったかもしんないけど、大学の頃の彼氏がボーダー好きでたまに見せてもらってたのよ。なんか、太刀川くんやっぱすごい強いらしくてたまに写真とか載ってて~」
 昔から変わらないのんびりとした口調でトモちゃんが話しているところに、真ん中のテーブルの方から「え!?」という大きな声が響いてくる。あんまり驚いたような声だったので、会話の途中だったのに私たち二人とも何事かとそちらの方を振り返ってしまった。するとやはり皆の視線の真ん中にいたのは、台風の目――太刀川くんの姿だ。何があったのだろうと、私たちもそちらをつい注視してしまう。すると先程の声の主であった渡辺くんが目を丸くしながら、ビールのグラスを持った太刀川くんの手元を見つめて言葉を続ける。
「え、まって、太刀川って結婚したの……?」
 その言葉に、皆の視線が一気に太刀川くんの手元に集まった。私も思わずその左手を見てしまった。
 遠目だから分かりづらかったが――よくよく見てみれば、居酒屋の少し暗い照明を受けて、きらりとその薬指にはめられたシンプルなリングが輝いている。
「ああ、これか? そうだぞ」
 太刀川くんはその指輪を一瞥した後、相変わらずマイペースを崩すことなくあっさりとした声色で言った。その言葉を受けて、ほんの一瞬の静寂の後――元々賑やかだった空間が今日一番じゃないかというくらいの盛り上がりをみせる。
「嘘だろ、あの太刀川が!?」
「太刀川が俺より結婚早いとか……マジか……」
 頭を抱える人、驚いて目を丸くする人、さまざまな反応が飛び交う。そんな中で「相手ってどこで知り合ったの、ボーダーの人?」という質問に、太刀川くんが「ん、そうだな」と頷く。その言葉に小宮さんは「職場結婚かあ~」なんて興味津々といった様子で身を乗り出していた。
「写真とかないの?」
「無いな。俺もあいつもそういうの撮りたがるタイプじゃねーしなあ」
「なんだよ~」
「ないもんはしょーがないだろ」
 ぶーぶーと文句を垂れる面々に、太刀川くんは肩をすくめて言う。そうした後、ビールをテーブルに置いた太刀川くんは何か悪戯を思いついた子どものような表情になる。そしてその左手を周りを取り囲むみんなに見せつけるように上げて、にやりと口角を上げて笑う。
「いいだろ」
 その自慢げな言葉に、また太刀川くんの周りがわっと盛り上がる。「惚気やめろ!」「ちくしょー羨ましい……」なんて言葉がわーわーと太刀川くんに向けられる中で、その真ん中にいる彼は楽しそうににやにやと笑っている。
 だけどそんな太刀川くんの表情が悪戯っぽいのに、同時にいやに柔らかくも感じて、その表情が意外で私はなんだかドキリとしてしまった。
 先程の言葉はみんなを盛り上げるためなのかと思ったけれど、しかし同時に、結構本気の自慢なのかもしれないと思った。いや、私は一年間同じクラスでも太刀川くんと話したことなんて学祭の出し物の準備の時とかプリントを渡す時とかくらいの数えるほどしかなかったから、彼がどんな人なのかなんてよく知りはしないのだけれど。
 太刀川くんもこんな表情するんだ、なんて。
 不思議で、どこか遠いように思っていて、少しだけこわかった太刀川くんが、急にひどく人間くさい人のように思えたのだ。
(……大事なんだろうなあ~)
 そのお相手のことなんて本当に何も知らないのに、私は太刀川くんのあの表情だけで、すとんと落ちるみたいにそう思ったのだ。それだけ大切で大好きな人を見つけられたのであろう太刀川くんを羨ましくも思ったし、ついこちらまで少し照れくさいような気持ちになってしまった。
 ――ああそういえば高校の時も、今のとは少し違うけれど、太刀川くんの楽しそうな表情を見たことがある。不意に思い出した。
 たまたま見かけたのだ。後輩の、おそらく同じボーダー隊員の子と、学校が終わるなり一緒に自転車に乗って校門を出ていく時の横顔。あの時の太刀川くんも、クラスで見るどんな表情よりも楽しそうで、少しだけ驚いてしまったんだ。
 まあ、今も太刀川くんが楽しくて幸せならよかったなぁ、なんて心の中で呟く。人の幸せというのは、全然関係なくても見ているだけでこちらまでなんだか嬉しくなるものだ。
(あーなんか、まだいいと思ってたけど私も結婚したくなっちゃったな)
 そんな気持ちを喉奥に流し込むようにカシスオレンジを飲むと、グラスが空になってしまった。あ、どうしようかな、と思ったところで、世話好きのトモちゃんがこちらのグラスにすぐに気付いて声をかけてくれる。
「あ、メニューいる?」
 彼女らしいそんな気遣いをありがたく思いながら、私は首を横に振る。
「いや、大丈夫。次はノンアルにしようと思ってたから、ウーロン茶かなあ」
「いいね、私も頼もうかな。店員さん~!」
 止まない賑やかさの中で、トモちゃんが少し声を大きくして店員さんを呼ぶ。「はーい」と廊下の奥の方から店員さんが返事をする声を聞きながら、私は空になったグラスをテーブルの上に置いた。



 ◇



「太刀川さーん、こんなとこで寝てたら風邪引くよ」
「んー……」
 玄関のドアを自力で開けてちゃんと帰宅したと思ったらこれだ。ドアが開く音がしたから「おかえり」と言って玄関まで出迎えに行ったら、明らかに酔っ払った赤い顔の太刀川さんが靴も脱がずにその場で寝転んでいたものだから、そんな太刀川さんを見下ろしておれはつい呆れて肩をすくめてしまった。
 今日は高校の同窓会だったそうだ。このところはもうじき行われる次の近界遠征――遠征といっても昔のそれとは形を変えて、今は基本的に同盟国との交友や情報交換を目的としているものだが――に向けて本部も立て込んでいて、今回は遠征に参加するわけではない太刀川さんもあらゆる書類仕事に忙殺され、今日も仕事が終わってからそのまま参加すると言っていた。
(まあ、楽しかったみたいだからよかったけどさ)
 年齢と共にゆるやかに弱まりつつある未来視がなくたって、酒に弱くて意外と人懐っこい、そして周囲からもなんだかんだと愛されている太刀川さんが旧友との楽しい宴会に顔を出せばこうなるだろうと予想はついていた。おれが呼び出されずにちゃんと一人で帰ってこられただけでもいいか、と思う。別にもうとっくに関係を公表しているボーダーの面々との飲み会ならいざ知らず、知り合いが誰もいない飲み会に呼び出されて迎えに行くのは流石に少し気が引ける。
 さて、こうなってしまうとこの人は自力で動くか分からない。流石にこのままここで寝て風邪でも引かれたら困るので、寝室までおれが抱えて引きずっていくしかないか――そう思案していたところに、太刀川さんが自分の左手を上げて、お酒のせいで普段よりも少しとろんとした目でその薬指を眺め始める。おれは不思議に思って口を開いた。
「なに、指輪がどうかした?」
 おれの問いかけに、太刀川さんはにまりと口角を上げる。
「いやー、指輪見つかってから散々いじられたな」
 なっはっは、と笑う太刀川さんはその言葉とは裏腹にいやに楽しげだ。嬉しそうだ、なんて思ってしまうのは欲目だろうかと思って、そこを深く考えるのはやめることにした。
「そっか」
 ひとまずその言葉だけをシンプルに受け取ることにして、太刀川さんの方に手を差し出す。普段より緩慢な動作で掴まれたその手をぐっと握って引っ張り上げてやると、予想よりもずっと軽い力で太刀川さんは立ち上がってくれた。どうやら自分の足でちゃんと立てる程度ではあるようだ。
 しかしそのまま寝室の方へ歩き出してはくれず、凭れかかるようにして太刀川さんの腕がおれの首に回る。それだけで彼が何を求めているのかを察して、仰せのままにおれは唇を触れさせた。
 お酒のせいで、普段よりその唇はしっとりしていて熱い。そして――
「酒くさ」
 そう言ってわざとらしく顔をしかめてみせると、太刀川さんは反省の色もなくまたくつくつと笑う。そしてもう一度キスをしようと唇を寄せてくるので、おれは慌てて手のひらで太刀川さんの口を塞いでそれを寸でのところで止めた。
「あーだめだめ、早く水飲んで着替えて寝なよ」
「なんだよつれねーな」
 至近距離で、お酒のせいで赤い顔に水気を含んだ瞳で、拗ねたような声色で言われると少しだけ理性が揺らいでしまいそうになる。しかしこれ以上は今夜はしない。同意の上だろうと翌朝この人に絶対責められることなどないだろうにしても、この人のことを、おれなりに大事に思っているからだ。――なんたっておれは、理性的で紳士的な実力派エリートなので。
「これ以上すると止めらんないってわかってんでしょ。おれは流石に明日の朝記憶なくしてるようなぐにゃぐにゃの酔っ払いを抱く趣味はないの」
「ケチ」
「お誘いは素面の時にして。そしたら受けたげるから」
「へいへい」
 おれがこうなると頑固なことは太刀川さんもよく分かっているだろう。するりと首元に絡んだ腕の力が緩められる。しかしその拍子に太刀川さんが少しふらついたものだから、おれは慌てて手を背中に回してその体を支えた。
「あっぶな。もー、支えててあげるから寝室までがんばって」
「おー」
 ふにゃふにゃとした声で太刀川さんが答える。その腕を自分の肩に回すようにして支えてやって、半分引きずるみたいにして寝室まで歩き始める。
 太刀川さんの左腕を掴む自分の左手を、ちらりと横目で見やる。二人の薬指には、いつの間にか当たり前みたいになった揃いの指輪がきらりと光っている。
 いじられたって、一体何を言われて太刀川さんは何を言ったのか。そう少しだけ考えようとして、いや多分碌なことじゃない気がすると思ってすぐに止めにする。考え出すと墓穴を掘るやつだ、これは。ボーダー内で自分たちの関係を公表した時も、恥ずかしいからあまり詳しくは話さないでいようと思ったおれに対して、太刀川さんは話題を振られると堂々と楽しそうに、にやにやと笑っていたものだから。

(……指輪なんて別に記号っていうか、あってもなくてもそんなに変わるもんじゃないと思ってたけど)
 でも、それでも。この人とこうして揃いの指輪をつけていることにふとどこか誇らしく嬉しく思ってしまう自分は確かにいて、そんな自分を自覚する度むずがゆくて。多分これは、陳腐な言葉だけれど――幸せってやつなのだと思う、きっと。
 ふたつの指輪を見ながらつい緩んでしまう口角を、隣の酔っ払いにはどうか気付かれていませんように、とおれは心の中で密かに願った。

(2021年7月18日初出)



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