夏はまもの
別に太刀川さんの家じゃなくたって、本部のラウンジだって玉狛だって何だって、他に場所はあった。それでも「太刀川さんちがいいな」だなんて言ったのは、単なる自分の下心だ。そしてそれを素直に口にできたのは、勝算があったから――未来視がその「可能性」を律儀におれに教えてくれていたからに他ならなかった。
八月三十日。あんなにたっぷりあったと思っていた夏休みも明日で終わりだ。毎日のようにランク戦ブースにこもって、競い合って、沢山戦った。そんな、迅にとってこれまでにないほど楽しい夏だった。
しかし楽しい時間の後には現実というものがつきものだ。――そう、夏休みの宿題という名の現実が。
「あ~、昨日はあんなに楽しかったのにな」
ぐでん、という効果音がよく似合うほどに太刀川が力なくローテーブルに上半身を沈ませる。クーラーの効いた、六畳ほどの涼しい太刀川の自室。太刀川が顔を埋めた先はペンを走らせた形跡もない大量のプリントやテキスト類だ。
「しょーがないでしょ、夏休みに宿題はつきものなんだから。……それにしてもほんとに真っ白だったんだね、何となく視えてたけど」
「俺がコツコツ夏休みの宿題を進めておくタイプに見えるか?」
「そんな自慢げに言うことじゃないよ」
そんなくだらない応酬を終えると、太刀川はまたテキストに顔を埋めて唸る。迅は英語のプリントを最後まで埋めて、最後の数学のワークに取りかかる。
夏休みの宿題はちゃんと終わっているのか、と忍田に聞かれたのは昨日の帰りがけのことだ。太刀川の誕生日祝いと称して一日中二人で散々ランク戦にしけ込んだ後、その帰りにたまたま本部で忍田に出くわした。忍田は太刀川の誕生日を祝った後、ところで――とその話題を繰り出しのだ。その後の太刀川が答えに窮したこと、そして忍田の眉間にぐっと皺が寄って呆れたような悲しそうな声を出したことは言うまでもない。あと二日の夏休み、太刀川に関しては宿題が終わるまではランク戦ブースに立ち入り禁止とまで言われてしまった。
かくして、宿題に取り組まなければなくなった太刀川はこうして今自室で唸っている。その場にうっかり居合わせた迅も、まあおれも宿題は全部終わってはないし、と太刀川と一緒に夏休み最後の二日間、一緒に宿題に取り組むことになったのだった。
勿論学年は違うから内容を教え合うことはできないが、一人でやろうとすると絶対にだらけてしまうから――この二人でしたって大して変わらないだろうがそこは突っ込むのは野暮だというものだ――と、二人で顔を突き合わせて一ヶ月と少し前に学校から貰ったプリントやらテキストやらを引っ張り出して向き合っている。
場所はどうするか、という話になった時に、「太刀川さんちがいい」と言ったのは自分だった。「そういえば行ったことないし、教科書とか本部に持ってくるのめんどくさいでしょ?」なんて至って軽い口調で言った迅に太刀川は「なるほど。いいぞ」あっさりと首肯したが、実のところは、そんなのは口実でしかなかった。
ちらりと目の前の太刀川を見やる。太刀川はテキストから顔を上げたものの、テーブルの上に転がしたシャープペンを拾いもせず、グラスの中に入った麦茶を飲み始める。ごくりと飲み込む度にその喉仏が上下するのを、いやに扇情的に思ったのは、自分がそのつもりでこの家に来たから余計になのだろうか。身長こそこの数ヶ月でぐんぐんと伸びたもののまだどこか幼さの残る顔立ち、しかしその大きく飛び出した喉仏はすっかり大人のそれのように見えて、そのアンバランスさにくらりとする。
噛みついてみたいなんて物騒なことを思うのは、昨日まで昼夜も忘れてやっていたランク戦の名残なのか、それともこれが自分の恋情の発露というやつなのだろうか?
淡い好意程度なら保育園の時の先生とか、小学校低学年の頃とかもあったけれど、こんなに強い感情を人に対して抱くのは初めてのことだから、自分の恋愛感情というものがこれほど物騒なものなのか、それとも太刀川に対してだからなのか、いまいち判断がつかない部分もあった。
太刀川の家は共働きだから、平日真っ昼間のこの時間には他に誰もいない。迅と太刀川のふたりきりの家の中は静かなもので、エアコンの静かな稼働音と、閉め切った窓の外で蝉が鳴く声が聞こえるのみだった。
それを視ていて、全部分かっていて、この家に来たいと言った。
「あー、空……」
氷だけになってしまったグラスを見て太刀川がそう呟く。キッチンまで降りていって新しい麦茶を注いでくるためだろう、太刀川がグラスを持って立ち上がる。ドアに向かいかけたところを、「太刀川さん」と呼んで止める。太刀川が振り返って迅を見る。その格子の瞳と、目線が合ったことがこんなにも嬉しい。
未来視に現実が重なる。未来が確定する。知っていたのに、視ていたのに、心臓がばくばくと暴れ出してうるさい。それを太刀川に察されないことを祈った。
手を伸ばせば、簡単にその手首を掴めた。トリオン体じゃない、血の通った、しっとりとあたたかい生身の肌の感触。その手首をぐいと引くと、太刀川は思っていた以上にあっさりとこちらに倒れ込むようにしゃがみ込んだ。抵抗がないのをいいことに、空いた手でその頬を逃がさないように触れる。
(忍田さんごめん、宿題ちゃんと見守れなくて)
そう心の中で謝りながら、ぐっと顔を伸ばして、その唇に触れた。太刀川の体が驚いたようにわずかに揺れる。なのに抵抗らしい抵抗なんてされないことに心がかき乱された。触れた太刀川の唇が想像以上に柔らかくて、だけど先程まで飲んでいた麦茶のせいか少しだけ冷たくて、ぞわりと言いようのない興奮が背中を駆けていく。
言葉の無くなった部屋の中で、窓の外で蝉が終わりの近付いた夏を惜しむみたいにひっきりなしに鳴く声が、いやに大きく鼓膜を揺らす。ああ、夏だ、なんてどうだっていいことを頭の隅で思った。
触れてしまえば離れるのが惜しくなって、どれだけそうしていただろう。太刀川の手の中にあるグラスの中に残った氷が溶けて、カラン、と音を立てて崩れる音を合図みたいに、どちらともなく唇を離した。
至近距離で見つめ合う。二人でいればどうでもいい話をいくらだってしていられたのに、不思議なほどに今はお互いに何の言葉も言わなかった。太刀川の後ろの窓から見える空は、絵の具を惜しみなく使ってひと思いに描いたみたいにきれいな青色をしていた。
「迅」
太刀川がそう名前を呼ぶ。知り合った頃よりも幾分低くなった声が、迅の耳を通って、じわりと全身に巡っていくようだった。太刀川はその後に何かを言おうと口を開きかけたが、しかし少し考えるような仕草をした後にその口は閉じられてしまった。
何を言おうとしたのか聞きたかった。逃げるなら今だよ、とも言ってやりたかった。でも聞きたくなかったし、言いたくなかった。少しだけ、こわかったから。だけどもう、なぜか未来は確定してしまっている。何度確認しても揺らがないのはどうしてだろうか。ねえ、あんたもしてもいいと思ってるって、そのつもりだって、そう思ってもいいの?
太刀川が手に持ったグラスをテーブルの上に置く。小さな音なのに、ふたりだけの部屋の中ではそれが何かの合図みたいに大きく聞こえた。グラスの表面をいくつもの水滴が伝って、すぐにテーブルの上に新しい水たまりを作っていくのを、ぼんやりと視界の端で見ていた。
太刀川の目が再び迅をまっすぐに捉える。その目の奥に宿る色は、よく知っているようなのに、今までにひとつも知らないような色をしているようにもみえた。ぐらりと、理性を食い潰されるような感覚に襲われる。一体何にだろうか。太刀川さんに? それとも夏の魔物ってやつ?
汗をかいたグラスを持っていたせいで少しだけ濡れた太刀川の手が迅の髪の毛に触れる。その指先が頬に触れた。その指先も、自分の頬も、いやに熱く思えたのは、きっと夏だからで、そしてお互いだからであるということに間違いはなかった。