うすあかりの渇きに触れた



 ブースが閉まる時間ギリギリまでランク戦をして、昂ぶった気持ちのままどうも別れる気になれなくて太刀川の家に転がり込むのはもう珍しいことでもなかった。遅い夕飯を食べながら感想戦をして、その後はぐだぐだとどうでもいいことを話しながら、適当に風呂に入って寝る。それがそんな日の自分たちの常だ。太刀川は自分のベッドで、迅はそのすぐ下に敷かれた来客用の布団で。来客用に仕舞いやすさを売りにした布団は薄くて普段の玉狛の自室のベッドより心許なく感じるけれど、何度も太刀川の家に来る度にもう大分慣れてきた自分がいた。
 不意に目が覚めたのは、蒸し暑さを感じたからだった。太刀川に借りた部屋着用のTシャツは首元が薄く汗を吸っている。暗い部屋の中で何度か瞬きをしてタイマー設定をしていたはずのエアコンを見れば、ランプは消えている。時間が来てエアコンはもう運転を止めたらしい。どおりで暑いわけだ。去年はまだランク戦に復帰もしていなかったから、こんな風にランク戦終わりに太刀川の家に転がり込んで――なんてこともしていなかった。最初にこうした日は寒くて布団を深く被って寝たはずなのに、いつの間にやらすっかり夏だ。そう思うと、ひどく不思議な感じがしてしまった。もうそんなに経ったのか。
 カーテンの向こうは眠った時と同じように暗いままで、夜明けはまだ遠そうだ。もう一度眠ろうと目を閉じるけれど、一度意識してしまえばひたりと纏わり付くような暑さが気になってなかなかうまく寝付けない。エアコンをつけなければ我慢が出来ないというほどでもない、けれど、心地よく眠るには少しばかり蒸し暑い。エアコンをもう一度つけてもいいだろうか、それとも我慢して眠ろうか――そんなことを考えながらじっと眠気が再び訪れるのを待つ。しんと静かな部屋の中で、もう一人分の静かな呼吸の音が迅の耳を静かに揺らす。
(太刀川さんは、寝てるかな)
 そう思えばなんだか気になってしまい、それにじっと目を瞑って眠気を待つのにも飽きてしまったから、迅はゆっくりと上半身を起こす。部屋着にタオルケットが擦れる小さな音がしんと静かな部屋の中に落ちた。
 すぐ横のベッドの方を見れば、太刀川は目を閉じてすやすやと寝息を立てている。普段は胡散臭くて掴めないくせに寝顔ばかりはどうもあどけなく見えてしまって、そんな風に思った自分に驚いた。しかしそう思ってしまえばもっとよく見たいなんて欲が頭をもたげてしまった。いやそれは、と躊躇う自分と、だけどこんなに暗い中だし少しくらいは、と言い訳じみた言葉を脳内で並べ立てる自分がいる。数秒の逡巡の後、軍配が上がったのは後者だった。やはりまだまだ自分も、欲には勝てない。
 半分立ち上がるようにして、太刀川の顔を正面から見下ろす。見慣れたはずの髭面なのに、どうしてこんなに惹かれてしまうんだろうと不思議に思った。体重をかけすぎないように、慎重に片手を太刀川の顔の横につく。こうしてこんな体勢で見下ろしていると、まるで押し倒してでもいるみたいだな――なんて思ってしまえば、また心の中がざわざわと欲深く騒ぎ出す。目線がその閉じられた瞳から唇に下っていって、迅は思わずぐっと唾を飲み込んでしまった。
 一度見つめてしまえば目を逸らせない。暗闇にようやく慣れてきた目がぼんやりと捉えるその唇は、どんな感触をしているのか。柔らかいだろうか。どんな温度をしているだろうか。そう想像するだけでじわりと興奮ともつかない小さな衝動が自分の体の中をぴりぴりと巡るのが分かる。餌を目の前に「待て」をされている犬みたいな気分だ。それはさすがに――と思うのに、してもバレないだろうかなんて未来視で可能性を探ろうか迷ってしまう自分もいる。

 太刀川にこんな感情を抱く自分に気付いたのは、少し前のことだった。いや、本当はもっと、ずっと前からこの感情の種のようなものはあったのかもしれない。しかし少なくとも、明確にこの感情につけるべき名前を知ったのは比較的最近だ。
 いやあ、まさか、太刀川さんに――なんて思うのに、同時に太刀川さんだから仕方ない、なんてすとんと納得してしまう自分もいた。
 だって昔からずっと、どんな時だって、自分の情動をなにより強く突き動かすのは太刀川ただ一人だったから。
 触れてみたい。知りたい。この人のことを、もっと深いところまで。自分のものになってほしい。ライバルも、友人も、同僚も、どれももう持っているのに、もっと特別が欲しくなってしまった。その肌の温度も、感触も、触れてみたらこの人はどんな顔をするのかなんてことも、自分だけが知りたかった。この人のことになると子どもじみたわがままを振りかざしたくなる自分がいて、ひどいなと思うのに止められない。だというのに、一歩を踏み出すことを躊躇ったままこれまで通りを演じている自分にも呆れてしまう。

(……あ)
 不意に現れた未来視に、ドキリと心臓が跳ねる。体を離そうかと思って、しかしほんの一瞬躊躇った間にその未来視と現実が重なる。太刀川の瞼が持ち上がって、この暗い部屋の中でも一際昏い、底知れない色をした格子の瞳が迅をとらえる。
「なんだ、何もしないのか?」
 この人は、いつから起きていたんだろうか。どこまで知っていたんだろうか。そう思うと気恥ずかしくてなんだか悔しいのに、そうやってこの人がこちらをまっすぐに見て、迅のことを見透かしているみたいににやりと笑いかけるのが、どうしてか嬉しくもあるのだ。こんな矛盾した気持ちも、恋愛感情とかいうやつのひとつなんだろうか。太刀川と一緒にいると、初めて知る感情にばかり出会う。
 抵抗もせず、何もしないのか、なんて聞いてくるということは、何かしたってよかったってこと? そう思えば、喉がひたりと乾くような心地になる。しかし表情には敢えていつもの余裕を張りつけて迅は答える。それがいつもの自分たちらしいように思えたからだ。
「太刀川さんがそうやって待ってくれるのが意外だよ」
 そう、太刀川が、欲しいものに手を伸ばすのを躊躇ったり大人しく待ったりしているような性質だとは思えなかった。もっと自由に、ありのままに生きている人だと思っていたから。迅からキスをされるのをただ待っているなんて、太刀川がそんな慎ましい人間だなんて迅には思えなかった。しかし太刀川は、迅の言葉ににまりと口角を上げる。
「別に俺だってお行儀よくただ待ってたつもりじゃないんだがな。お前が観念して、自分の意志で来るのを待ってた」
 そう言った太刀川が、迅を見つめる。目が合っている、ただそれだけなのに、まるで強く腕でも掴まれているみたいにその場から動くことができなかった。視線に縫い止められるまま、迅はじっと太刀川を見つめ返す。太刀川の表情は変わらない。なのに暗い部屋で、太刀川の瞳が小さく光った気がした。
 いや、光ったなんてかわいいものではない。獲物を前にした肉食獣みたいな、厄介で獰猛な、鈍い光。本当に光ったかどうかは分からない。迅の錯覚だったかもしれないけれど、しかし、確かにそう見えたのだ。
(――ああ、そういうこと)
 迅に選択肢を委ねておいて、自由にさせているように見せかけて、迅が自分の意思で太刀川を選ぶことを待っている。誰に強制されるでもなく、何かに流されたわけでもなく、迅悠一という男のひとりの自発的な選択として太刀川に手を伸ばすことを。
 飄々と立ち回って、取り繕うことの上手い迅のことをよく知っていて。その上で、得意の言い訳なんてきかないように。
 そんなことに気付かされて、迅は思わずくっと笑ってしまう。
「……ほんと、やっかいな人だなあ」
「おまえに言われたくないな」
「そっか」
 不意に、太刀川とのこれまでのことを思い出す。
 太刀川がボーダーに入ってきて、ランク戦が始まってから楽しくて毎日のように戦っていたこと。風刃争奪戦があって、ランク戦を離れることになったこと。そうして遊真の一件で結果的に風刃を手放してA級に戻って再びランク戦でこの人と戦えるようになったこと――。
 ただそこに太刀川がいたからとか、気付いたら自然にとか、あるいは何か大きな潮流の中で失ったり得たりしたとかじゃない。
 おれは今、他でもないおれの意思で、この人を選ぶ。
「太刀川さん」
「おう」
 太刀川が試すみたいに迅を見ている。そんな顔しなくても、もう覚悟は決めたよ。
 未来は既に確定してしまった。だというのになぜこんなに緊張するのか、自分でもおかしい。じわりと首元に滲んだ汗は暑さのせいなのか緊張のせいなのか分からなかったけれど、そんなこと今はどっちだってよかった。
 ねえ、その唇に触れる権利をおれにちょうだい。おれは、あんたの特別が欲しい。今だって十分特別な位置に置いてくれているのは分かっているけど、それだけじゃもう足りなくなってしまったんだ。
「キスしたい」
 真夜中、しんと静かな部屋の中で、いつもより少しだけ低い自分の声が二人の間に落ちる。さっきの意趣返しのように、射抜くようにまっすぐ迅は太刀川を見つめる。太刀川もその目を逸らさない。
「悪くはないが、その前に言うことあるだろ」
「……太刀川さんが好きです。おれと、付き合って」
「よろしい」
 太刀川が満足げに笑う。
「俺もお前が好きだから、なろうぜ、恋人」
 恋人。恋人だって。おれたちが。そんな響きの似合わなさがおかしいのに、その言葉を噛みしめてふっと笑ってしまう自分がいた。
 返事の代わりに唇を降らせる。初めて触れた太刀川の唇は、想像していたよりもずっと柔らかくて熱かった。

(2021年8月4日初出)



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