極彩の夏夜をきみと



 どこかのスピーカーから流しているらしい祭り囃子に誘われるみたいに、段々と人が集まってくる。昼間はあんなにもじりじりと暑い日差しで肌を焼いてきた太陽は、今は穏やかに空を夕暮れの色に染めていた。わざとゆっくりと歩いていると、後ろからどんどん元気な中高生くらいの少年少女に追い抜かされていく。誰も彼もわくわくと楽しそうな表情をしていて、そしてその期待に違わずたくさん楽しそうな未来が視えて、自然と迅の表情もふっと綻んだ。
 さて、おれの予知ではもうあの人は到着しているはずだ。それを狙って少しだけ歩くペースを遅らせた。自分の方が早く着いてしまうのはなんだか気合いが入っているみたいに思われそうで、それが気恥ずかしかったからだ。わざわざ未来視で視て、彼が着く少し後に到着するようにした自分こそやはり必死で結局恥ずかしいのではないかなんてちらりと思ったけれど、それには気付かないふりをした。
 祭りの会場のちょうど目の前、広い駐車場のあるコンビニの入口横。迅が太刀川を見つけるのとほとんど同時に太刀川も気付いて、お、という表情で顔を上げる。そんな何気ない仕草ですら何だかほんのりと嬉しいように思えてしまったのは、自分もこの高揚した空気にあてられて少し浮かれてしまっているせいなのかもしれない。自然、歩調が速くなって、先程よりも大きな歩幅で太刀川に近付いていく。何を考えているのかよくわからない、と称されがちなその格子の瞳がそんな迅を見つめた。
 太刀川の目の前に立つ。ほとんど変わらない身長、視線の高さはほぼ同じだ。
「よお、迅」
「おつかれー、太刀川さん」
 普段と変わらないような、平静ぶった声で言う自分を見て太刀川が笑うようにわずかに目を細めた。その仕草に見透かされているのではないかと少しだけドキリとしてしまったけれど、それ以上は何も追及をされなかったのでこちらからも何も聞かないことにする。墓穴なんて、掘らないに限る。
「んじゃ、行くか」
 そう言って、歩き始める。迅の普段の速度よりも、少しだけゆっくりな歩調の太刀川に合わせて隣に並んだ。まるで大きな獣がゆったりと歩いているみたいに思えて、そんな太刀川の歩くさまが迅は結構好きだったりする。
 祭りの日だからといって太刀川も迅も服装は普段通りだ。太刀川はシンプルな白のシャツにすらりとした九分丈のパンツ。迅もいつもの生身の時の普段着と変わらない、Tシャツにチノパン姿だ。なんとも色気がないけれど、そちらの方が自分たちらしいと思って好きだった。久しぶりに生身で外を歩いたから、肌で感じるじっとりとした蒸し暑さと時折吹く風の涼しさに、ああそうだ夏ってこうだったなんて思い出させられる。
 見慣れた道が今日は歩行者天国として車の通行が封鎖されて、そこに所狭しと屋台が立ち並んで人でごった返している。一歩進む度にじゅうじゅうと鉄板が焼ける音と共に美味しそうなにおいが鼻をついて、そんなにお腹が空いている自覚はなかったはずなのに、急に食欲がそそられてしまった。
 色々なソースのにおい、焼けたとうもろこしやしょうゆのにおい、わざとらしいほどに甘ったるいチョコバナナのにおい。食欲が刺激されたのは太刀川も同じだったようで、「うわー急に腹減ってきた。迅、何から行く?」とわくわくと楽しそうな顔になって迅の方を見てくる。胡散臭い髭面をした成人男性だというのにまるで子どもみたいな表情をするものだから、かわいいな、なんて感想をつい抱いてしまった。
「そうだなあ、迷うところだけど」
 言いながらきょろきょろと辺りを見渡す。もう一度太刀川を見て、どれが一番喜んでくれるかな、なんてこともこっそりと視てみたりしながら。目移りしてしまいそうになりながら、さてどれから行こうかと考えをまとめる。このはちきれそうなほど楽しい空気が充満している空間に簡単に影響されてわくわくと気持ちが疼いている自分だって、結局太刀川とそう変わらないんだろう。
(あー、久々だな)
 心の中でぽつりと呟く。祭りに来るのなんて、本当に久しぶりのことだ。
 別に、祭りが嫌いなわけじゃない。むしろがちゃがちゃと雑多で、活気があって、みんなが楽しそうなこの雰囲気は結構好きな方だ。だけどここ最近は全然来ていなかった。最後に来たのはもうずっと前。自分が小さかった頃――ボーダーに入るよりも前のことだ。

 三門市の今年の祭りのチラシをテーブルに広げて、玉狛支部のメンバーたちが話しているところに居合わせたのは数週間前の夕方、暗躍と言う名でいつものように市内を視て回って帰ってきた時のことだ。
「お、祭りの相談?」
 ひょこりと顔を出して、いつもの軽いノリで話しかけると宇佐美が「あ、迅さん。おかえりなさい~」と返してくれる。その後口々にかわいい後輩たちが挨拶を返してくれた。テーブルの真ん中に置いてあったクッキーをふたつ一気に掴んで口に運びながら、置いてあるチラシを眺める。チラシには、祭りの最後に行われる名物とも言える、花火大会の写真が大きく使われていた。
 玉狛のメンバーは、防衛任務が入っていなければ祭りには予定の空いている隊員で誘い合わせて毎年行っているはずだ。自分はいつも防衛任務が入っている、というか入れているから一緒に行ったことはないのだけれど。今年だってそうだ。ちょうど祭りまっただ中の夜の時間帯に、防衛任務のシフトが入っている。
「いいねえ、楽しんできて~」
 特に遊真たちにとっては玄界で初めての夏祭りだ。きっと楽しい思い出になるだろう、いやなると、既にサイドエフェクトはそう伝えてきていた。
「迅さんは行かないのか?」
「んー、おれは防衛任務だから」
 遊真の疑問にさらりとそう返す。すると、「ああ」と合点がいったように烏丸が声を漏らした。そういえばそうだった、というような顔。旧ボーダー時代から、あるいはもう何年も玉狛にいるメンバーにとっては祭りの日は迅は防衛任務に出ているというのは周知のことだが、烏丸も段々と分かってきたようだった。
 しかしそう思ったところで、烏丸は至って変わらない冷静な表情で口にする。
「……てっきり、迅さんは太刀川さんと行くのかと」
「え」
 再びクッキーに伸ばしかけた手が、一瞬止まりかける。しかし動揺を悟られないように、どうにか手を止めずにクッキーをひとつ摘まんで、口に運んだ。
 迅と太刀川が付き合っている、ということは、近しい人間は既に知っていることだった。迅はどちらかといえば隠したいと思う方だったはずなのに、それもこれも、隠すなんていう繊細な機微をもたない太刀川のせいだった。付き合い始めて少しした後に太刀川がぽろっとそういったことを零した結果、あっという間に周囲の人間に噂が駆け巡り、今この状況である。ぽろっと零した、なんて言っているが、本当のところはあの人はわざとやったのではないかと迅は思っている。そういう悪ガキめいたというのか、妙なところで頭が回るというのか、そういうことをしかねない人なのだ、太刀川という性質の悪い男は。
「……あー、うん、でもまあそもそも防衛任務入ってるからね」
 そう言う自分の声は、自分らしくもなく妙に硬かった。
 誤魔化せただろうか、と思いつつ、遊真の視線が痛い。しかし分かっていて何も言わないでいてくれるあたり、優しいよなあ……なんて心の中でそっと呟いたのだった。
 ――しかし、それからしばらく。祭りの数日前になって、急に用のできた隊員がいるからシフトを代わって貰えないかという相談が上から舞い込んできて、代替日に関しても迅は予定はなかったのでシフトを代わることになった。
 それ自体は全く問題はない。しかし、シフトを代わったことで、祭りの日の夜の予定が急にぽっかりと空いてしまった。
(うーん、どうしようか)
 別に祭りの日に予定が空いていようが、祭りに行かなければならないという決まりなどない。だから別に行かなくたっていいのだが、折角なので玉狛のみんなに混じって行くのも悪くないという気持ちがある。それもきっと楽しいことだろう。
 しかし、そこまで考えた時に、不意に烏丸のあの言葉を思い出してしまう。
(……いや、いやー……そんな、ねえ?)
 思わず、口元に手を当てて考え込んでしまう。そんな風に思うのに、一度思ってしまえばどうしてもそんな思いを振り払い切れない自分に呆れる。
 だって、おれと太刀川さんだよ? なんて。
 いくらそういった意味でのお付き合いをしているからといって、別に、世間一般のカップルみたいな甘酸っぱい遊びなんてしなきゃいけないわけじゃない。それよりも、二人でランク戦ブースにこもってバチバチと戦って、その辺の定食屋やうどん屋で適当に飯でも食べて、ずるずると太刀川さんの部屋に雪崩れ込むみたいな、そんな色気がないんだかあるんだか分からないような付き合いのほうが、きっと自分たちには似合っている。
 そう思うのに。
 本部の廊下を歩いていると、こんなにすぐどこから聞きつけてきたのか、太刀川が迅を見つけてきて「おまえ祭りの日の防衛任務なくなったんだって?」なんて声をかけてくる。その太刀川の声色がいやに楽しげで、迅は少し驚かされてしまったほどだった。
 迅が「うん、そうだけど……」と肯定すると、太刀川はにまり、と少年みたいな顔をして笑う。
「じゃあ一緒に行こうぜ、祭り。おまえいっつも来てないだろ」

 気の向くまま、思いつくまま、二人で色々な屋台を巡る。焼きそば、じゃがバター、フランクフルトに焼きとうもろこし。通りがかった射的の屋台では当真をはじめとする狙撃手の奴らが、狙撃手専用に難易度を上げた的が用意されたにも関わらず遠慮なく景品をかっさらっていくのを遠目に見て二人で笑っていた。もはや射的屋と狙撃手の攻防は三門の祭りでは毎年の恒例のようになっている。
 ある程度腹も膨れて、今は隣を歩く太刀川はといえば先程手に入れた水ヨーヨーを手を動かして跳ねさせて遊んでいる。
 太刀川がやろうと言い出して引っ張るように連れて行かれたヨーヨー釣りではなんだかんだと太刀川に煽られるまま迅も熱くなってしまった。結果は引き分けでこんなところでまで引き分けるのかよと太刀川は少しだけ悔しそうに、しかしおかしそうに笑っていた。
 持ち帰っても遊ばないだろうしと迅はヨーヨーの持ち帰りを断ったが、太刀川は折角だからと釣ったうちのひとつを貰っていった。薄い水色に、黄色や赤のラインが入った可愛らしい水ヨーヨー。太刀川の骨張った大きな手が動かされるたび、ふよんと弾力がついて跳ねる。その太刀川の手と水ヨーヨーというアンバランスさが面白くて、しかし妙にそれを気に入ってしまう。
 と、向こうから見慣れた顔がやってくる。こちらに気付いた二人は、「あ」と口を丸くして声を上げた。
「太刀川さん、と、迅さん」
 そう言ったのは米屋の方だ。続いて出水も「おつかれさまでーす」と軽い会釈と共に挨拶をする。高校も同じクラスだという二人は祭りも仲良く一緒に来ているらしい。その目線には偶然会ったことへの驚きとともに、妙な含みも感じてしまって少し気恥ずかしいような気持ちにさせられてしまう。しかしそんな動揺をおくびにも出さないように、迅は飄々とした実力派エリートの顔で「おつかれー」とへらりと笑い返した。
「おー出水、米屋。うまそうなもん食ってんな」
 そんなことは気にも留めないような太刀川が目を付けたのは、二人が持っているイカ焼きだった。本当にこの人のマイペースさはすごいよな、なんて内心で思う。そんなところもまた、好ましく思うところのひとつではあるのだけれど。
「あ、これあっちで売ってましたよ。つーか珍しいっすね、迅さんが祭り来てんの」
 出水が自分たちが来た方向を指差して太刀川に答えた後、そんな言葉を付け足すと米屋も「確かに」と頷く。出水も米屋も今やそこそこ古株の方の隊員だから、迅が祭りにいることは珍しい、というくらいには認識しているようだった。
「まーね」
 それだけ返すと、横から太刀川が追撃してくる。
「いいだろ、デートだ」
 にまりと人の悪い笑みを浮かべてそう言う太刀川を、思わず肘で勢いよく小突いてしまいそうになった。それを寸でのところでこらえると、出水は「うわー惚気!」と苦笑する。そうだよな自分のとこの隊長にいきなりそんなこと言われても反応に困るよな出水、と心の中で少しだけ同情する。その隣の米屋は、ひゅう、と悪ノリみたいに口笛を吹いた。
「まーデート邪魔するのもあれなんで、オレらはこのへんで。二人とも今度またランク戦相手してくださいよー」
「おー」
 米屋の言葉に太刀川がいつもののったりとした声で答える。じゃ、おつかれさまでーす、と言って二人は迅と太刀川が来た方向に歩いて行った。その背中を少しの間眺めて、そして太刀川の方を振り返って迅は口を開く。
「……太刀川さん」
 少しだけじっとりとした自分の声。しかし太刀川はそんな迅の声色を気にした風もなく――いや、これは気付いていてあえて触れてやるつもりなんてない顔だ――迅を見て挑戦的に目を細める。
「なんだよ、別に間違ったことは言ってないだろ。それともこれ、デートじゃないとか言うつもりか?」
 本当、この人は変なところで口が上手い。迅は観念したように小さく息を吐いた。別に、嫌だったわけじゃない。そもそもあの二人にももう自分たちの関係はバレているわけだし、今更隠したり誤魔化したりしたって意味もない。これはただ、自分が照れくさかっただけの、ただの子どもじみた拗ね方だ。嫌じゃないどころか、気恥ずかしいもののデートだとこれを太刀川が認識していることが嬉しかったとすら思ってしまう自分に呆れてもいる。
「別に言わないよ」
 迅の返事に、太刀川は満足したように「よし」なんて言う。そうして太刀川は進行方向を向いて、楽しげに言う。
「それよりあれだ、さっきあいつらが言ってたやつ、買いに行こうぜ」
「そうだね、異議なし」
 あのイカ焼きは美味しそうだったから、自分だって食べたいと思っていた。迅が首肯すると、そうこなくちゃと太刀川が口角を上げた。

 そこからまた、二人で適当にぶらぶらと会場を歩いた。
 太刀川と巡る祭りは楽しかった。勿論祭り自体を気が向くまま見て回ることもとても楽しいのだけれど、なにより隣の太刀川がずっと楽しそうに笑っていて、その表情を見るのが楽しかった。
 ――本当は、太刀川と一緒に祭りに行くことをすぐに諦められなかったのは。
 いつものように、おれはいいよなんて大人ぶった顔をして切り捨てられなかったのは、あの日太刀川と会った瞬間に、この楽しそうな表情を視てしまったからだった。

 会場の端まで一通り巡った後、自分たちが待ち合わせたのとは反対側の祭りの会場入口のすぐそばにある神社の石段に二人で座って休憩する。祭りのど真ん中の賑やかさから少しだけ離れた、木に囲まれたこの場所は少し涼しくて心地が良い。
「あー、食った食った」
 太刀川の言葉に、迅もくつくつと笑いながら返す。
「だね。おれも結構お腹いっぱいだなー」
 美味しそうなにおいに誘われるまま、あれを食べたい、あっちも美味しそうだ、と言い合って屋台を巡っていたらすっかり結構な量を食べてしまった。祭りという特別なシチュエーションだからこそ、あれもこれも普段より美味しく感じるところはあるのだろうと思いつつ、しかしそんな雰囲気にたまには流されてみるのも悪くないものだ。
 少し遠くなった祭りの人混みを、二人並んでのんびりと眺める。太刀川が手遊びに、手の中の水ヨーヨーを跳ねさせた。ふよん、ふよん、と中に入った水のせいで独特の重さをもって上下するそれを、迅はなんとなくじっと目で追ってしまった。
「おまえさあ」
 そうしていると、不意に太刀川が口を開いた。ふよん、と水ヨーヨーがまたひとつ大きく跳ねたあと、太刀川が手を止める。太刀川の手に掴まれて、小さく余韻のように揺れるそれを見届けた後、迅はゆっくりと顔を上げて太刀川を見た。視線が絡んだのを確認した後に、太刀川が続きの言葉を口にする。
「いつも祭りの日防衛任務入れてたの、わざとだろ」
 ドキリ、と、小さく心臓が音を立てた。
「……なに、いきなり」
 知っていたのか、というのと、いまさらそれを言われるのか、というのと。
 勿論先程会った出水や米屋のように、祭りで迅を見かければ珍しいと言うやつらは少なくないだろう。だが、別に防衛任務がなくたって勿論祭りに来ないやつなんて沢山いる。
 しかし玉狛のメンバーならさておき、太刀川は今確かに『防衛任務』と言った。この人、おれのシフトまでちゃんと把握してたってことだろうか。しかも、『いつも』だなんて言って。
「結構拗ねてたんだぞ、俺は」
 そう唇を尖らせる太刀川に、迅はまた驚いて目を瞬かせてしまった。
「拗ねてた? 太刀川さんが?」
「悪いか?」
「……悪かないけど。でも別に、太刀川さんには関係ない話じゃ――」
 言いかけたところで、太刀川がぴしゃりと迅の言葉を遮る。
「関係なくない。高校生の時さ、俺、おまえを祭りに誘うつもりだったんだよ。おまえと行ったら楽しそうだと思って。なのに防衛任務入ってて、ならしょーがねーなって諦めたんだけど。次も、その次もそうだったろ。あーこれわざとだなって思って」
 迅は、ぐっと言葉に詰まる。完璧に図星だったからだ。……祭りにあまり来ないやつ、とくらいは認識されているかもしれないとは思っていたが、まさかそこまで読まれていたとは正直思っていなかった。
 だって、太刀川がこんなに、迅と祭りに来ることにこだわっていたなんて夢にも思わなかったから。
「祭り嫌いなのかと思ったけどそういう風にも思えなかったし」
 太刀川の目が、こちらをじっと覗き込むようにして見つめる。
 他の誰よりも大好きで、苦手な目だ。迅を逃がそうとしない目。
 この目にこうやって見つめられると、全部見透かされてしまっているんじゃないかって、そんな錯覚にすら陥る。その深い場所の色が読み取りにくいくせに、いつだって迷いなくまっすぐに迅を見つめてくるものだから。
「……お祭りは別に嫌いじゃないよ。絶対来たくないなんてわけじゃなかったし、別にそんな大層な話じゃないんだ」
 太刀川の目にとらえられるみたいにそれを見つめ返した後、迅はふっと祭りの会場の方に目線を向ける。楽しそうで、華やかで、賑やかで、沢山の笑顔に溢れた空間。それを眺めているだけで、こちらまで楽しい気分になるものだ。
 頬杖をついてそれをじっと眺めた後、今度は夜の空を見上げた。雲ひとつない、瞬く星がいくつか見えるようなきれいな空。油断すると肌に纏わり付いてくるようなじわりとした蒸し暑さを、時折吹く涼しい風が浚っていく。
 迅につられたように、太刀川も空を見上げるのを横目に見た。その数秒後、今年一発目の花火が上がって夜空を大きく、色とりどりに染める。人々が楽しそうにどよめくのを、遠目から二人並んで見ていた。
 もうすぐ、夏が終わる。二発目、三発目。大仰な音を立てながら花火が上がってはちりちりと散っていくさまを眺めながら、迅はぽつぽつとこぼれ落ちるみたいに言葉を続ける。
「だってあの頃は今よりもっと隊員も少なかったし、今よりもっと若い隊員が多かったから、祭りに行きたいやつらは多かっただろうし。それなら、じゃあ別におれが入ればいっかーって」
 ――もっと、本当のことを言えば。
 自分が小さかった頃。まだ母親が生きていた頃に、祭りに来たことがある。シングルマザーで毎日忙しく働いていた母が、その日は休みを取って連れてきてくれた。それが嬉しくて、すごく楽しかった、大事な思い出だ。
 だから母が亡くなって日が浅い頃、祭りに行くのはあまり気が進まなかった時期があったのは事実だ。幸いと言えばいいのか、ボーダーに入ってそっちの活動が忙しくなって、それを言い訳にできた。……当時のボーダーの大人たちは少しだけ困ったような顔をしていたけれど、最終的には迅の言葉を尊重してくれた。それにはとても感謝している。
 ボーダーが今の形になる頃には、それについてはもうだいぶ平気にはなっていた。別に行こうと思えばいつだって行けた。だけど同時に、行っても行かなくてもどっちだっていいと思っていた。行きたいやつらがいるならおれはいいよなんて大人ぶって、年下の隊員たちを優先させた。
 それが、ちゃんと今のおれの本心のつもりだった、けれど。
 太刀川の方に再びゆっくりと顔を向ける。迅と同じように花火を見ているとばかり思っていた太刀川は、いつの間にかまた目線を迅に戻していた。それにふっと表情が緩んでしまった。
 太刀川に視線を返して、迅は再び口を開く。
「……でもまあ、久々に来たら、やっぱ楽しいもんだね」
 迅の言葉を受け取った太刀川は、わずかに考えるような表情をした。言葉にしなかったことがあるということ、もしかしたら気付かれているかもしれない。
 だって、他でもないこの人だ。
 けれど太刀川は結局何も言葉にすることはなく、その代わりに小さく息を吐いて少しだけ呆れたように、しかしこの人こんな顔できるんだってくらい柔らかく笑った目を迅に向けて言う。
「だろ?」
「うん」
 素直に頷くと太刀川が水ヨーヨーを持っていない方の手を迅の頭に伸ばしかけて、おっと、というように引っ込めた。今ここが外であることを思い出したせいだろう。意外とそういうところはちゃんとしているというか、さすがにそんな甘さのある触れ合いを外でするなんて、関係をもう隠してはいないものの迅がひどく恥ずかしがることを分かっていてのことなのだろうと思った。そんな太刀川なりの気遣いをじわりと嬉しく思うのと同時に、触れて欲しかったななんて思いがあることも本当で、そんな自分が結局恥ずかしくなる。
 太刀川の手に触れられるのが好きだ。弧月を誰より美しく操るその大きくて無骨で、迅より少しだけ体温の高い手。その手が迅に触れる時、時々びっくりするくらい優しいのが、恥ずかしくて、だけど嬉しかった。
 そして触れられるだけじゃなくて、触れるのは、もっと好きだ。程よく筋肉のついた肢体、迅が触れると律儀に反応を返してくれる体、汗をかくとしっとりと吸い付くような肌。来る物拒まずといったような太刀川の、他の誰も触れられない場所に触れる許可を貰っているのは自分だけであるということが、何度だってばかみたいに高揚してたまらなくて――。
(あー、ほんと)
 結局こうなるのかあ、なんて嘯きながら、本当は知っていた。未来の可能性は、もうほぼほぼ。
 再び空を見上げる。色とりどり、きれいな花火が夜空に上がっては散っていく、その刹那の美しさをぼんやりと二人で眺める。そうして、なんでもないことみたいに、隣の恋人の名前を呼ぶ。
「太刀川さん」
「ん」
「このあと、太刀川さんち行きたい」
 そう言って、太刀川を見つめる。一際大きな花火の光に照らされて、太刀川の表情が先程までよりもよく見える。
 迅の言葉を受けた太刀川は、いたずらっ子みたいに楽しげに笑った。迅が何を求めているのか、これから何をするのか、されるのかなんてもうすっかり分かっているくせに、こんな風に余裕ありげな笑みでいつだって迅のしたいことを許してくる。抱えた荷物も感情も全部一旦下ろして、今この瞬間の、そのままの迅悠一にさせられてしまう。心の内からの情動。それをまるごと手渡したって、この人はもっとこいよと笑ってみせる。
「いいぞ」
 そう言って立ち上がる太刀川の手の中の水ヨーヨーがまた小さく揺れた。祭りの会場の方から吹いてきた夏の終わりの夜の風が、賑やかさと小さな寂寥を孕んで二人の頬を撫でる。
 歩き出す太刀川に合わせて迅もまた太刀川と同じ歩幅で、アスファルトの地面を踏みしめて歩き始める。夜空を色とりどりに染める花火や、祭りのにぎやかな音たちがゆっくりと遠ざかっていくたび、じわりと隣の人の体温が鮮明になっていくように感じていた。

(2021年8月22日初出)



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