sweet bright
帰宅すると、玄関の小さな明かりだけが点けられていてリビングなどの照明は既に落とされていた。あー、もう寝てるよな、迅はと心の中で呟いて、廊下を歩いて大きな音を立てないように気を付けながら寝室のドアを開ける。そっと中を覗き込むと、太刀川は予想通りベッドの上ですっかりすやすやと寝息を立てていた。それもそうだろう、もう夜も遅い。自分は元々宵っ張りなタイプだが、彼は迅と比べれば寝るのは早いほうだ。
今日はすっかり残業をしてしまった。昔よりは個人に負荷がかかりすぎることは減ってきたものの、まだ新しい体制になって間もないために忙しい時期には帰りが遅くなることも間々あるし、そもそも二十四時間稼働していて不規則な勤務も多いボーダーである。こうして遅い時間に帰ることも、お互いの生活リズムがずれることも珍しいことではないし、そんな時にお互いが帰ってくるのを毎日健気に待っているような関係性でもない。今日はちょっと遅くなるかも、と連絡を入れて、わかった、と返ってきて、それだけだ。
現に太刀川は迅に遠慮などすることなく、気持ちよさそうに眠っている。そんな自分たちが良いと思っている。迅はふっと、小さく表情を綻ばせた。
軽くシャワーを浴びて寝間着代わりのTシャツに着替えてから、再び寝室に戻る。先程は仰向けだった太刀川は寝返りを打ったらしく、今度は横向きになっていた。大の男二人で寝ても窮屈じゃないように買った大きなベッド、迅のスペースはしっかり空けられている。
廊下の電気を消して、寝室のドアを閉めると部屋の中はすっかり真っ暗だ。うっすらとした暗い視界と慣れた感覚を頼りにベッドに潜り込む。太刀川は窓の方を向いて横向きになっているから、迅のために空けられたスペースには背中を向けるような形になっていた。大きくて広い背中が、呼吸に合わせて穏やかに上下している。顔が見えないことを寂しく思って少しだけ拗ねてしまいそうになるけれど、しかしわざわざ回り込んで覗き込むほどでもない。迅も横向きになって、太刀川の背中を見つめるような体勢になる。
(……せっかく向こう向いてるんなら)
どうせ、この人寝付き良すぎてちょっとやそっとのことじゃ起きないんだから。そう思って、迅はゆっくりと太刀川の背中に体を近付ける。密着と言えるくらいに近付いて、その首元にそっと鼻を埋めた。すん、と香ってくるのはボディソープとわずかな汗のにおいに混じった、太刀川のにおいだ。男っぽいくせに少しだけ甘いような、不思議な香り。もし太刀川に言えば「俺そんなにおいとかするか?」なんて首を傾げられてしまいそうだけれど、こうして生身でぐっと近付いた時にわずかにだけ感じられる。きっと迅のほかに知っている人はいないだろうと思うと、なんとも言えない優越感が心をじわりと充足させた。
昔はドキドキと落ち着きのない気持ちにさせられたこのにおいに、ほっと安心するような、満たされるような気持ちになるようになったのはいつからだろうか。それこそが自分たちが重ねてきた時間の深さの証明のように思えて、少しだけ面映ゆくて、でも嬉しく思う。
好きだなあ、この人が、なんて、今でも素直に全部は伝えきれない思いが太刀川のにおいを、温度を、感触を感じる度に迅の心を満たす。目を閉じて、すうと息を吸い込んで、二人分の呼吸の音がいつしか重なって、迅はゆるやかに眠りの中に落ちていった。
目を開けると、部屋の中はカーテンの隙間から漏れる光でうっすらと明るくなっていた。どうやらもう朝のようだ。ぱちぱちと瞬きをして眠気を飛ばしているところに、背中に温かさを感じた。いつの間に帰ってきたのか、全然気付かなかったなと思いながら起こさないように太刀川がゆっくりと体を反転させると、予想通りの姿が目の前にあった。
迅はこちらの方を向いて、すやすやと穏やかに寝息を立てている。いつもは真ん中から後ろに流している前髪も寝る時は下ろしているのも相まって、眠っている時の迅は実年齢よりも少しだけ幼いように見えた。普段は気取って大人ぶって振る舞おうとするこの男のこういう無防備な姿を見られることに、結構、優越感のようなものを覚えていたりする。自分の中にそんな感情があることがおかしい。独占欲も、優越感も、執着も、こんなにも強い恋愛感情だって性欲だって、全部迅のせいで知ったことだ。
起きている時の生意気な顔だって好きだが、寝ている時のこういうかわいい顔も好きだ。結局迅であればなんだっていいんじゃないかと言われればその通りかもしれない。とどのつまり、迅悠一という男のことをどうしたって好ましく思っている。昔から、今に至るまで、ずっと。
重たげな前髪に手で触れる。髪の手入れに頓着がないからか――それは太刀川だって人のことは言えないが――見た目の印象よりも少しぱさついた感触を軽く指で弄んだ。指先で髪をかき分けてやると、迅の無防備な寝顔がよく見える。目の前に現れたおでこに、なんとなく気分の向くままに唇を寄せた。触れるだけで離れた額へのキスでは、よく眠っているらしい迅はちっとも起きる気配はない。
起きた時に知ったら、きっとこいつは「そういうのは起きてる時にやってよ」なんて言って拗ねるだろうな――なんて思って太刀川は小さく笑った。想像すると楽しくて、あえて黙っていてやろうなんて悪戯心が顔を出す。迅には言わない小さな秘密だ。迅といると、何歳になっても子どもじみた遊びをしたくなる自分がいることに気付かされる。しかし、そんな風にこの男と在れることが、楽しくてしょうがないのだ。
さて、もう起きて久々の二人揃っての休日を始めようか、それとももう少しこの顔を眺めながらだらだらしておこうか。そのどちらも捨てがたいように思えて、太刀川はうーんと思案し始めるのだった。