refrain



「太刀川。たーちーかーわー」
 とんとんと頭を軽く小突かれながらそう声をかけられて、意識がじわりと浮上する。顔を上げてぱちぱちと瞬きをすると、太刀川が目覚めたことに気付いた前の席の同級生は「もうとっくに授業終わってんぞ」と笑いながら太刀川にプリントを渡してきた。まだ状況を良くわかっていないままそれを受け取ってまじまじと見つめる。
 あー、よく寝たな、と思ってようやく頭が少しずつ回転してくる。六限の数学の授業が始まったところまではギリギリ覚えている。が、教壇に今いるのは数学のおじいちゃん先生ではなく元気な担任のおばちゃん先生だ。どうやら先程の同級生の言葉の通り、とっくに授業は終わっていて、今はホームルームの時間らしい。机の上には開かれもしていない数学Ⅱの教科書とノートが置かれたままだ。
 さて貰ったプリントの文字を読んでみると、『進路希望調査』なんて書いてあって太刀川は思わず顔を顰めてしまった。
(進路、……進路、ねー)
 進路なんて、まだわかんねえよなあ、なんて心の中で呟きながら。しかし、いつの間にかもう季節は高校二年の秋なのだと気付かされる。窓の外は抜けるような濃い青色をしていて、とても天気が良くて、しかしきっと冬服の制服でも風が吹けば少しだけ肌寒いのだろうと思う。
 まあとりあえず後で考えよう、と問題を先送りにして数学Ⅱの教科書とノートと一緒にプリントを机の中に突っ込む。そうこうしているうちに担任の話が終わってホームルームも終了、掃除当番じゃない生徒は放課後だ。太刀川は今週は掃除当番ではないので、このまま帰っていい。机の横のフックに掛けていた教科書なんて全然入っていないすかすかのスクールバッグを手にとって机の上に置く。ちらりと廊下の方を見る。教室から出て部活に向かう、あるいは帰宅するクラスメイトたち、同じようにホームルームが終わった他のクラスの生徒たちが歩いているのが見える。
 なんとなく、数秒、じっと見つめてみる。その中に、脳裏に思い描く姿はない。当たり前だ。そう思って太刀川は立ち上がる。椅子を引いた拍子に床と椅子の脚が擦れて、ぎぎ、と乾いた音がした。
 柔らかい色をした茶色い髪、あの抜けるような青色の目。いつしかお互い掃除当番とか委員会とかの用事がなければ学校から連れ立って本部に行くのがいつもの流れになっていて、たまに太刀川のホームルームが予想外に長引いたりするとあいつが教室の外まで迎えに来ることもあった。今日みたいに太刀川が直前まで寝ていたときなんかには、寝跡ついてる、なんてけらけら笑われたものだった。
 平静ぶってるくせにその目だけは楽しそうな、待ちきれないような色を揺らしていたあの目に会うのが楽しみだったと、気付いたのはそれを見られなくなってからだ。あの目に太刀川が最後に会ったのは、まだお互い夏服を着ていた暑さの残る時期だった。
 迅が決めたことに、何か口を出すつもりはない。迅には迅なりの思いとか、考えとか、色々あるのだろうとは分かっているつもりだし、迅の人生は迅のものでしかないから太刀川の個人的なわがままを押し付けるなんてことはしないし、できない。
 だから、後悔なんていうものをしているつもりはないけれど。
 教室を出て、下駄箱へ向かう。今日の防衛任務は夜からだ。このまま本部に向かうか、それとも家に帰るか。上履きから靴に履き替えながらぼんやりと考える。
 本部に行ったとして何をしよう、なんて。
 少し前まではこんなことを考えるなんて発想もなかった。暇さえあればランク戦がしたくて、放課後が来るのが毎日待ち遠しかった。迅とバチバチやり合って、勝つと嬉しくて負けると悔しくて、もっともっとと中毒みたいになって――。
 迅がランク戦からいなくなったって、それ以外の日常は何も変わらない。ランク戦だって続いているし、学校はあるし、こうやって放課後は来る。
 なのに。迅がランク戦からいなくなった他は何も変わらないはずなのに、ぐらぐらと揺らぐ自分の心中がおかしい。こんなふうになるなんて、自分だって、思っていなかった。あんなに楽しかったランク戦なのに、今は足が少しだけ遠のきつつある。だって、行ってもあいつはいない。
 ふと夢想しては、そこにないのを知っていて、なのに目が探したくなってしまう。
 だってあの時間が、あまりにも、楽しかったせいだ。
 この後どうするかを決めかねたまま、太刀川は正面玄関を出る。予想通りに外は少しだけ肌寒いように感じた。するりと吹いた風が頬を撫でて、太刀川の体の周りを通り抜けていく。落ち葉が風に吹かれてからからと踊るように地面を走っていくのを視界の端で見ていた。

(2021年9月2日初出)



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