愛おしきぼくらの日々よ



 こんな風に熱で寝込むなんて一体いつぶりだろうか。いや、熱を出したこと自体はそこまでものすごく久しぶりというわけでもない。ただ、大人しく寝込んでいたとは限らないというだけで。
 体温計の数字は何度見ても変わることはない。はあ、と小さく息を吐いたところで、太刀川が寝室に戻ってきた。いつものようにすらりとシンプルなジャケットを羽織っている太刀川は先程行ってきたらしいコンビニの袋をベッドサイドに置いてから、「お、測り終わったか」と言いながら迅の手の中にある体温計をひょいと奪う。そして相変わらずその表情の読みにくい目でその数字をじっと確認して口を開いた。
「完全に、風邪だな」
「……どうやらそのようで」
 迅が答えると、太刀川の手が伸びてきて迅の額にぴたりと添えられる。いつもは体温が高いと思うはずの太刀川の手が少しだけ冷たく感じてそれが心地よくて、自分の体温の高さを改めて自覚させられた。太刀川は迅の体温を手で確認して、小さく顔を顰める。
「あー、熱い。こりゃ今日は休みだな。上と、あと玉狛のやつらには俺から言っとくから」
「はーい……」
 おとなしく返事をすると、太刀川が迅の頭をまるで小さな子どもにするみたいにくしゃりと撫でた。
「換装体になって出歩こうとか考えるなよ」
「今更しないって、そんなの」
 痛いところを突かれてぐっと唇を尖らせると、太刀川はおかしそうに笑った。
 まだ十代の頃。風邪を引いたときに、心配をかけるのも煩わしいし市内を視て回れないのが嫌だからって、換装体になればそんなの関係ないからと換装体で通してしばらく過ごしていたことがある。しかし換装体で動き回れても生身で養生しないと風邪は治るわけもなく――結局生身に戻った瞬間ぶっ倒れて、流石にあの時は、あの支部長にすらこんこんと怒られた。そしてその時のことは、迅と親しい隊員には反面教師として語りぐさとなっているのだった。当然、太刀川も知っている。
 ガキだったなぁと思い出せば恥ずかしくなるし、もうそんな無茶は思いついても実行するような無鉄砲さはない。自分の体が資本であること、組織に属している以上無茶をしてしっぺ返しを食らうのは自分だけではないということは、大人として数えられる年齢になった今なら、重々理解しているからだ。
「よろしい。俺は朝から会議あるからもう行くけど、おまえはちゃんと寝て休めよ」
「わかってるって」
 ぽん、と最後に頭に置かれた手が優しい。そして手のひらの温度がゆっくりと遠ざかっていくのを少しだけ寂しく思ってしまって、風邪引くと人恋しくなるってやつ? なんて心の中で言い訳をした。
 迅から離れた手のひらが先程ベッドサイドに置いたコンビニの袋に伸ばされる。太刀川は、その中に入っていた先程買ってきたらしい冷却シートを取り出してぺりぺりと包装を剥がしていく。そしてそれを自然な手つきで迅のおでこに貼ろうとしたものだから、迅は慌ててそれを止める。
「いや、そのくらい自分でできるよ」
 そう言って太刀川の手から冷却シートを奪うと、太刀川はわざとらしく拗ねたような表情を作る。しかしその下には面白そうににやけた表情が隠し切れていないのだから、ひどい人だ。
「なんだよ、病人なんだから素直に甘えりゃいいのに」
「余計熱上がるっての」
 迅の言葉に、太刀川はくっと笑う。
「別にこんくらい。かわいーやつだな」
「あんたにかわいいって言われてもあんまり嬉しくない」
「そーいうとこはかわいくないな」
 別にそれでいいよ、なんてぶつぶつ呟きながらぺたりと自分のおでこに冷却シートを貼る。ひやりとした感触が、熱を持った体には心地が良い。
「残りのやつは冷蔵庫に入れとくな」
「ん、わかった。ありがと」
 コンビニの袋を適当に畳んで、残った冷却シートを持った太刀川が改めて迅を見る。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃ~い」
 ベッドの上からそう言って、寝室を出て行く太刀川の背中を見送る。寝室のドアが閉まって足音が遠ざかっていくのを聞きながら、迅は再びぼすんとベッドに沈むように寝転がった。冷蔵庫が開閉する音、そして遠くで玄関の鍵の音がした後、しんと部屋の中はいよいよ静かになってしまった。
 一人きりになってしまえば気を紛らわすものもなくて、いよいよ自分の体調不良がいやに鮮明に感じられるような気になってしまう。体が熱くて重くて、太刀川がいなくなっていよいよスイッチが切れたみたいに、少し動かすのすら億劫に思えた。先程貼った冷却シートの冷たさが心地良いのが、今の自分の体温の高さを改めて自覚させる。
 あーあ、ガッツリ風邪引いちゃったなこりゃ、なんて心の中で迅は静かな部屋の中に溜息を落とした。その息すらも熱っぽくて少しだけ嫌になってしまう。
 ここ最近仕事が少し忙しくて、それが落ち着いたと思ったらこれだ。気が抜けて疲れが出てしまったということだろう。昔ほど無茶はしなくなったつもりだけれど、忙しさを言い訳にして食事や睡眠などを若干疎かにしてしまっていた自覚はあり、自己管理の甘さを突きつけられたようでどこか座り悪いような気持ちにさせられてしまう。そんなことを言えば、旧知の仲の隊員たちには自覚があるならもうちょっとちゃんとしろと言われてしまいそうだけれど。
 やることもなくて、ゆっくりと目を閉じる。視覚情報をシャットアウトすると、その分他の感覚が少し強くなる。窓の外で、これから学校に向かうらしい賑やかな子どもたちの声や走っていく車の音が遠くに聞こえる。街がいつものように忙しなく動き出している音がして、そんな中でこの部屋の中だけがいやにゆったりと静かで、まるでこの部屋の中と外で時間の流れが違うんじゃないかというような不思議な感覚がした。あー、平日に休むってこんな感じだったなあ、なんて、遠い昔の学生時代に思いを馳せてみたりなんかして。
 太刀川と一緒に暮らすようになったこの部屋がこんなに静かなのも、なんだか変な感じだ。別に、シフトや生活リズム、予定が全部合うわけでは勿論ないので部屋に一人でいることは何も珍しいことではないはずなのに、こういう時ばかりそんな気分にさせられるのは何故だろう。最初は太刀川と暮らす、という状況自体が不思議というか新鮮なものだったはずなのに、それがいつしか自分にとって当たり前の日常に馴染んでいたのだとこんなところで気付かされた。
(仕事、……急ぎのやつはもう先週のうちに片付けてあるし、おれが絶対やらなきゃいけないようなやつは今はないだろうし)
 熱でぼんやりと溶けるような思考の中で、ついそんなことを考えてしまう。繁忙期を抜けたタイミングだったのはまだ幸いだった。それに自分が一日くらい抜けたところで、他の人にある程度の負荷はかかれど、現場が回らないなんてほどのことはないだろう。玉狛及び他のやつらだってみんな優秀だ。未知の近界諸国を相手取って防衛するために『未来視』が重要な役割を果たしていた、今よりまだまだボーダーが小さかった頃ならまた少し話は違ったかもしれないが、今のボーダーは迅の減衰しつつある『未来視』に頼らずとももはやそのあたりについて脆弱な組織ではない。
 と、いうことなので。やはり今は何も考えず、太刀川の言う通りちゃんと寝て休むというのが今日の迅の唯一にして最大のミッションだろう。
(朝飯……でもそんなにお腹空いてないし、それよりだるいから寝たい方が強いな……)
 額に貼った冷却シートが迅の熱を吸い込んでゆっくりと温度を融解させていく。通勤通学ラッシュが少しだけ落ち着いてきたらしい街の音が段々と遠ざかっていく。目を閉じてじっとしているうちに自然に眠気が足下から静かに意識を浚ってきて、迅はそれに素直に身を委ねた。



 ふっと遠くに聞こえる物音を耳が拾って、意識がゆっくりと浮上する。何だろう、とぼんやりと思いながら目を開けた。物音がするのは扉を隔てた居室の方からだ。小さな、かちゃかちゃと何か硬いものが擦れ合う音や棚を開閉するような音。前者は食器の音だろうか?
(え、……今何時?)
 そう思って、迅はぱちくりと目を瞬かせる。よく寝たなあという感覚はあるが、一体自分は何時間寝ていたのだろうか。太刀川が帰ってきたのか、と認識するものの部屋の中はまだ明るくて、最近は日が長いとはいえまだ夕方にもならない時間だろう。まだ全然、帰るような時間じゃなくない? と思って少し頭が混乱してしまう。
 額に貼った冷却シートはもうすっかり温い温度になっている。しかしそれに反比例して、体の熱は少しだけ引いてくれたようだった。まだいくらか体温の高い感じと怠さはあるけれど、今朝よりは幾分マシだ。それにほっとしながら、迅は額の冷却シートをぺりぺりと剥がす。接着部分を内側に丸めて、上半身を起こしてそれをベッドサイドのゴミ箱に入れた。
 ヘッドボードの上で充電していたスマホを手に取る。充電コードを外してスリープを解除すると、表示された時刻は十四時を少し過ぎた頃。朝どころかもう昼もすっかり過ぎている。メッセージアプリから何件かの通知が来ていたので見れば、玉狛のメンバーや同い年の奴らをはじめ、気心の知れた面々からの見舞いのメッセージだ。それをじわりと嬉しく思いながら、後でちゃんと返信をしようと一旦スマホをスリープモードに戻す。そして迅はベッドを降りて、ぺたぺたと足音を鳴らしながらドアの方に向かった。
 扉の向こうでは小さな物音が続いている。調理器具か食器か何かが触れ合って擦れる音、かつかつと何かをかき混ぜるような箸の音。料理をしているのだろうか。体というのは素直なもので、そう思い至れば誘発されて思い出したかのように空腹を訴えてくる。何でこの時間に太刀川が家にいるのか、まさか早退? なんて、半信半疑の状態のままではあるけれど。
(お腹空いたな)
 とりあえず、なんにせよご飯を食べよう。そう思いながら寝室のドアを開けると、その音に反応して思った通りの顔がカウンターキッチンからこちらを覗き込むように顔を出した。想像通りとはいえ、今朝の時点では全く予想していなかった展開に迅はぱちくりと目を瞬かせてしまう。未来視がまだ鮮明に働いていてくれた頃だって、予知を覆すと言って憚らない太刀川に驚かされたことは何度もあるが、未来視がゆるやかに減衰していってからはより一層だ――迅だって、そんな太刀川の言動をどこかで楽しんでいるところはあるのだけれど。ドアを開けたことで音だけでなく美味しそうなにおいがこちらにまでかすかに香ってきて、迅の食欲をぐっと刺激してくる。優しい出汁のにおい。ぐつぐつと鍋の煮立つ小さな音が耳に届いた。
「お、起きたか。おはよう」
 迅の姿を認めた太刀川は、そうのんびりとした声色で言う。太刀川が今朝家を出る前に羽織っていたジャケットはダイニングの椅子の上に適当にかけられて、今はその下に着ていた襟付きのシンプルなシャツ一枚だ。
「おはよ。……太刀川さん、まさか早退してきたの?」
 そう聞いてみると、太刀川は「おう」と事も無げに頷く。
「正確には半休だけどな。使いどころもなくて地味に有給たまってたんだよ」
「や、別にそんな、ただの風邪だし……半休とって帰ってきてもらうほどのことじゃ」
 太刀川の方に歩いていきながら、まさかそこまで心配させていたのだろうか、とつい慌てて少し早口になってしまう。しかしそんな迅の言葉を遮るように太刀川は言葉を続けた。
おまえが体調崩して休みって言ったら、忍田さんすげー心配しててさ」
「あー……」
 そう言われて、容易に想像ができてしまう。仲間への情に厚い、そして旧ボーダー時代――迅がまだ子どもだった頃からの付き合いである忍田は、頼れる上司であると同時に、プライベートの場になると未だ時々親のような目線で迅や太刀川を見守ってくれる一人である。
「林藤さんにも、『あいつ体調崩す時は急にすごい崩すタイプだから、頼むな』って」
「……」
 咄嗟に何も言えなくなってしまったのは、気恥ずかしさからだった。同時に、じわりと染みとおるような嬉しさもある。林藤だってああ見えて迅のことを保護者代わりに見守ってきてくれた一人で、ああいうつかみ所のない人だけれどその実すっかり大人になった今でもそんな風に優しく見守ってくれていることを実感すると、どうにも気恥ずかしくて、しかしそれはとてもありがたいことであるともちゃんと自覚していた。何も言葉を返せずにいる迅に対して、「頼まれちまったしなあ」なんて太刀川はいたずらっぽく小さく笑う。
「今朝、おまえすげーしんどそうだったし、俺も今日は午前中の会議終わったら別に急ぎの仕事もなかったし。忍田さんに許可とって半休にさせてもらった」
 カウンターキッチン越し、そう言って柔らかく口角を上げる太刀川の顔に、鍋から立ち上った湯気がうっすらとかかっている。小さな器の中に溶いてあった卵を鍋の中にさっと回しかける太刀川を見ながら、迅は少し渇いた喉から「……ありがと」という言葉を口にした。その言葉を受け取った太刀川が、自分の手元に向けていた目線を再び迅の方に戻す。
「おまえさ、昼食べてないだろ」
 何だってこんな中途半端な時間に料理をしているのだろうと思ったが、気付かれていたのか、と思って腑に落ちた。まあ妙なところで鋭い太刀川の観察眼からすれば、気付かれていたとしてもおかしい話ではない。
「うーん、ずっと寝てた」
「だろうな。洗い物のかごの中、俺が今朝家出た時と全然変わってねえんだもん。まあよく寝れたならよかったけど。熱は?」
「あ、それは寝てたらだいぶ良くなったよ。まだちょっと熱っぽい感じはあるけど、食欲も戻ってきた」
「おっ、そりゃよかった」
 言いながら太刀川はもう一度鍋の中を覗き込んで、火を止める。そしてその中身をお玉で掬って、迅がいつも使っている深めの器に盛っていった。ふんわりと優しいにおいの、卵雑炊。一人分の量を盛り付けた後、その上に小口切りにした小ねぎを散らしていく。白と黄色の淡いコントラストに青々としたそれがいいアクセントになって、余計に食欲をそそられてしまった。
「もう昼飯っつうか、どちらかといえばおやつの時間って感じだけどなー」
 くつくつと笑って、太刀川は冷蔵庫を開けて常備している大きめのペットボトルを取り出す。迅用のグラスに烏龍茶を注いで、ペットボトルを冷蔵庫に戻してからグラスとスプーン、そして雑炊の器を持ってこちらに歩いてくる。「ほら、座れ座れ」なんて言いながらダイニングテーブルの迅の席にそれらを置いた。迅も言われた通りに、ダイニングチェアを引いて自分の席に座る。ふわん、と美味しそうな香りと共に白い湯気が薄く立ち上っている。
 太刀川も迅の正面、ジャケットをかけてあったいつもの太刀川の席に座る。仕事の時と同じシャツ姿の太刀川と寝間着のままの自分というこの状況が普段と違って何だか不思議な感じなのに、目の前に太刀川がいることに対する安心感のようなものも少なからず感じてしまった。
「どーぞ。またちょっと熱いかもしんねーけど」
「うん。……いただきます」
 グラスを手にとって、熱のせいで乾き気味だった喉を烏龍茶で潤す。喉を通っていく冷たさが心地が良かった。その後スプーンを手にとって雑炊を一口分掬ったところで、太刀川が思い出したように口を開いた。
「そうだ、あーんしてやろうか」
「それは遠慮します」
 またこの人は変なことを思いついて、と思ってぴしゃりと断ってやると、太刀川が唇を尖らせる。優しいかと思えば油断するとこうして迅で遊ぼうとするのだから、本当にこの人は油断ならなくて、いつまで経っても飽きさせてなんてくれない人だ。
 太刀川の言う通り雑炊はまだ少し熱そうだ。ふーふーと少し息を吹きかけて冷ましてから、それを口の中に運ぶ。熱くて少し火傷しそうになりながらも、卵と出汁の見た目以上に優しく深みのある味がふっと口の中に広がって、その美味しさに少しびっくりしてから、じわりと心の中まで満たされるような心地になった。まだ少し怠さの残る体とすっかり空いたお腹には、その優しくて温かい雑炊の味が普段以上に染みていく。
 普段の食事はお互いの忙しさと食事に対する頓着のなさにより惣菜やレトルトに頼ることの方が多いのだが、太刀川の手料理を食べたのは初めてというわけではないし、切る・焼く・煮る程度の必要最低限程度の料理はできることは知っている。しかしあの太刀川がこんなに優しい味付けもできるのか、なんて思うとどこか不思議な気持ちになってしまった。
 ふと顔を上げると、太刀川が観察するようにこちらを眺めている。これは感想待ちなんだろうか、と思って思ったことを迅は素直に口にする。
「美味しい」
 そう言うと、太刀川は満足そうに、嬉しそうに目を細めて笑った。その表情が妙に子どもっぽくてかわいらしくなんて思えてしまう。もうアラサーの、髭面の男の顔だっていうのに。
「だろ? おふくろに作り方聞いたんだよ。出汁何使ってるかとか」
 楽しげに言う太刀川の言葉に、ああ、と脳裏に太刀川の母親の顔が思い浮かんだ。おっとりと優しそうで、でもからっとしたところのある、太刀川とどこか似た不思議な魅力のある人。こうして太刀川と人生を共にしようと決めた時に挨拶に行って以来、毎年正月には顔を合わせているが、正月に振る舞われた料理もとても美味しかったことを思い出す。そう思えばこの雑炊の美味しさもすとんと腑に落ちた。
 これが太刀川さんちの味かあ、なんて思うと、少しだけこそばゆいような気恥ずかしいような心地になって、それを誤魔化すように迅は「そうなんだ」と返してから残りの雑炊を口に運ぶことに集中するのだった。

 雑炊をあらかた食べ終わったところで、太刀川が不意に立ち上がる。何だろう、と思いながら目で追うと太刀川は冷蔵庫の方に向かっていって、冷凍庫の引き出しを開ける。そして何かを取り出してから、迅の方を振り返った。
「アイス。いる?」
 太刀川の手の中にあるのは小さなカップアイスだ。迅はすぐに返事をする。
「いる。食べたい」
「よしきた」
 冷凍庫を閉めた太刀川はキッチンからデザート用の小さいスプーンを取り出してこちらに戻ってくる。スプーンとアイスを太刀川の手から受け取った時にちらりと触れた太刀川の手は、いつもは迅よりもわずかに温度が高く感じるのに今は少しだけ低いように感じられた。アイスを持っていたからというだけじゃなく、今は自分の体温が高いせいだろう。
 受け取ったアイスは、ちょっとだけ高いやつだ。スーパーで売っている中でも頭ひとつ抜けて高い、ちょっぴり贅沢なやつ。味はバニラ。
「これも買ってきてくれたの? ありがと」
「おう。風邪引いた時って言ったらアイスだろー」
 そう得意気に言う太刀川に、迅は「お」と言う。そんな迅の反応が意外だったのか太刀川は不思議な表情をしながら、先程まで座っていた自分の椅子に座り直す。
「太刀川さんちって風邪引いた時ってアイス派?」
「え、他にあるか?」
「結構色々あるでしょ。うちはプリンだったなー」
 昔を少しだけ懐かしみながら迅が言うと、太刀川が「まじか」と言う。やっぱりこのあたりは、家によって色々違うのだろうと思うと面白い。同じ市内でずっと暮らしていたはずなのに。
「でも、アイスもいいね。食べたい」
 迅が言うと、太刀川がふっと嬉しそうに口角を上げる。そして「アイスもいいだろ」なんて楽しげな、訳知り顔で言うその表情がなんだかすごく愛おしく思えてしまって、迅も表情を綻ばせた。
 蓋を開けて、中のフィルムをぺりぺりと剥がすとぎゅっと詰まったバニラアイスが姿を現した。スプーンを差し込むと、普段食べているような手頃な値段のものとは違う密度の感触が手に返ってくる。一口分を掬って口に運ぶ。先程の雑炊とは打って変わって冷たくて甘い味が舌に広がってじわりととろけた。
「あー、風邪の時のアイス、いいな。冷たくて美味しい」
 そう言うと、太刀川は「そうだろ~」とにまりと笑う。頬杖をついて少しだけ顔を傾けて迅を見るその顔に、また愛しさがぽつぽつと降り積もっていく。その愛しさに任せるまま、迅は口を開いた。
「なんかいろいろ、ありがとね」
 迅の言葉に、太刀川はぱちりとひとつ瞬きをした。そうしてから、当たり前みたいな顔で言葉を返してくれる。
「いや? こーいうときはおたがいさまって言うだろ」
 太刀川にそんなことを言われるのが、どこかくすぐったいような気持ちになる。しかしその次に、「つーか原因、この間まで忙しすぎたせいだろ。自分で抱え込むんじゃなくてある程度他のやつらに振れるようにしとけ」なんてドのつく正論で返されてしまえばぐうの音も出ない。一瞬押し黙った後、「……はい」と素直に首肯すると、太刀川はふっと息を吐いて頷く。そうして、気を取り直すみたいにして言葉を付け加えた。
「早く治せよ」
「はあい……」
 それでも、その声色は柔らかくて、迅を見つめるその目は優しい。
 分かりづらいと思っていたその目の奥にそんなふうに見つめられていることに気付けたのは、その目が向けられる先が自分ひとりであるということを知ったのは、いつからだっただろうか。そう思えばやっぱり目の前のこの人を愛しいと、好きだと思わずになんていられなかった。
 こうしてわざわざ帰ってきてくれたことも、細かいところに気付いてくれることも、母親にレシピを聞いて雑炊を作ってくれたことも、ちょっといいアイスを買ってきてくれたことも。全部、どうしたって、この人を愛しいと思う。嬉しい、と思う。
 口の中に入れたばかりのアイスはひやりと冷たいのに、それが舌の温度でじわりと融解していくのを口の中で感じる。
「……早く治さないとキスのひとつもできやしないしね」
 そんなことを言ってにやりとわざとらしく口角を上げてみせると、太刀川はおっという表情をした後、迅に対抗するみたいににまりと挑戦的な笑みを浮かべる。
「おー、楽しみに待ってるぞ」
 楽しそうに揺れる目が、あんまり色気があるものだから。今はだめだと思いながらもついくらりとしそうになってしまった。
「えー、おれ煽られてる?」
 そう茶化したように言うと、太刀川はくっと小さく笑う。
「長い付き合いなんだから、そんくらい分かれよ」
 ああきっと今未来視が働いたなら、きっと気恥ずかしいような未来が一気に眼前に広がっていたんだろうな――なんて埒のない想像をしてしまう。現れない未来視の代わりに、太刀川とまっすぐに視線を合わせる。太刀川も躊躇いなく、その目を見つめ返してくる。
「じゃあ今日のお礼も兼ねて、その期待には応えないとね?」
 そう言うとにまりとその瞳の奥を揺らして笑ってみせるこの人がやっぱり、いつまで経ってもおれは好きでしょうがなくて、その手に、肌に、唇に触れたいなんて気持ちは何年経っても消えることなんてなにひとつなくて。これは太刀川の言う通り、早く風邪を治さないとなあ、なんてことを思うのだった。

(2021年9月4日初出)



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