甘やかしと雨音
ドアの鍵が開けられる音がして玄関に向かうと、予知通り、まるで漫画みたいにずぶ濡れになった太刀川がそこにいた。ゆるく癖のついた髪はぐっしょりと濡れて水滴をぽたぽたと垂らして、玄関の床に水たまりを作っていく。
「おかえり。いや~、見事な濡れ方」
ドアの向こうでは派手な雨音がアパートの廊下を叩く音が聞こえている。ほんの十数分前に降り出した雨は急激に勢いを増し、あっという間にこの大雨になってしまった。その少し前に太刀川の家に辿り着けた自分は良かったものの、大学に行っていた太刀川は思いっきりこの通り雨にぶつかってしまったらしい。太刀川は迅をじとりと見て、恨みがましそうな声で言う。
「視えてたなら言えよなぁ」
「言う暇もなかったっての。太刀川さんが寝坊するから」
そう言うと太刀川はぐっと喉に何かつかえたみたいな顔をして黙ってしまう。だってこれは半分は本当だ。今朝はうっかりアラームをかけ忘れてしまって、起きた時間はすっかり予定の時刻を過ぎていた。今日は決まった予定のなかった迅は良かったものの、太刀川はどうやら大学の講義の出席が際どかったらしい。目が覚めて時計を見るやいなや「いや、今日出席しないとヤバい」と言って慌てて支度を整えて朝食を食べる暇もなく部屋を飛び出していったのだった。――昨日遅くまでベッドの上であれやこれやしていたのが寝坊の原因の一端であるということは明らかなのだけれど、それはあえて言わないでおく。
とにかくこんな濡れ方では流石にこのまま室内には上がれまい。「タオル、適当なやつでいい?」と聞くと「いいぞ」と言われたので、脱衣所の棚から適当なタオルを持ってきて太刀川の方へ戻る。迅が戻るのを大人しくじっとして待っていた太刀川の頭にタオルを被せて、わしゃわしゃと水分を拭っていく。
タタキにいる太刀川と、そこから一段上がった廊下に立っている迅とではその一段分の高さの差がある。普段横に並ぶとほとんど目線は変わらない、身長で言えば太刀川の方が一センチだけ高いから、こんな風に太刀川を少し見下ろす構図になるのが珍しくて、何だか心が少しだけざわざわしてしまった。少し低い位置に居る太刀川が、抵抗もせず迅にされるがまま髪をタオルで拭かれている。独占欲なのか、あるいは支配欲とでも言えばいいのか、心の奥の方にある自覚していなかった感情がじわりと充足していく。かわいいな、と思う。普段この人と接していてかわいいと思うことなんてそんなに多くはなかったはずなのに、こうして恋人して付き合うようになってから、二人きりのふとした瞬間にそんな風に思ってしまうことがある。そんな自分に驚かされて、しかし、本当にそう思ってしまうのだからどうしようもなかった。恋ってきっと、そういうことなんだろうと思う。
かわいい、と思ってしまった、その気持ちのまま太刀川に顔を寄せた。髪を拭っていた手の動きが止まって太刀川は不思議そうに迅を見上げる。ギリギリまで目を開けてその表情を見ながら唇を触れ合わせた。普段は熱く感じる太刀川の唇は、雨に濡れたせいか少し冷たい。そう思えば、この唇に熱を灯させてやりたい、なんて欲が自分の中で頭をもたげてしまう。
太刀川にこの通り雨のことを言わなかったのは半分は言う暇がなかったから。もう半分は、こうしたかったからだった。幸いにして、太刀川が風邪を引く未来は視えない。それならば、少しくらいのこうした甘えや戯れくらい、役得として許されてもいいんじゃないかな、なんて。太刀川といると自分がどんどんわがままになっているのを感じる。わがままなんて言う年齢はもうとうにすぎたはずなのに、太刀川のことになるとそんなことは一気に通用しなくなってしまう。それもこれも、迅のすることをなんだかんだ言ったって最終的に全部受け止めてくれる太刀川の甘やかしのせいだった。
唇を離すと、太刀川の不思議そうな表情は更に深まっていた。
「なに、急に。おまえのスイッチがわからん」
「いいでしょ。嫌?」
そう聞く自分が狡いということも自覚している。迅の言葉に、太刀川はしょうがないな、なんて顔で目を細める。いつもの、二人きりの時の、甘やかしの仕草だ。
「嫌じゃないけど」
言った後、太刀川が少し背伸びをしたと思ったら迅の頬に手を添えて、今度は太刀川からキスをされた。
「おまえ、俺のこと好きだよな」
そう訳知り顔でくつくつと笑う太刀川に、じわりとこちらの温度が上がるのを感じた。そう指摘されるのは恥ずかしいくせに、分かられていることが嬉しくもあって、そしてその通りなのだから否定もできないのだった。