プラネット・ユー
寝室のドアが開かれて、シャワーから戻ってきた太刀川が顔を覗かせる。ベッドの上に寝転がったまま「おかえりー」と声をかけると、返ってきた太刀川の声は「んー」と少しだけもう眠そうな様子だった。まあ、さっきまで運動というか、色々、ちょっと無理もさせちゃってたからね――なんてつい数十分前までのことを思い出して緩みそうになる口角を慌てて引き締める。当の太刀川はといえば、ぺたぺたと裸足の足音を鳴らしてこちらに向かって歩きながら、くぁ、と小さく欠伸をする。その何気ない仕草には先刻までの滴るような雄くさい色気はもう見当たらなくて、太刀川のそんなからっとしたところもまた、迅は好ましく思うところのひとつだった。
太刀川が掛け布団を持ち上げると、ひやりとした空気が掛け布団とシーツの隙間に流れ込んできた。先程までは気にならなかったけれど、最近はもうすっかり夜は冷え込む季節になっている。一瞬冷たさを感じた後、その一人分空いたスペースに太刀川の体温が潜り込んできたので、すぐにそれはやわらかな温かさにすり替わった。この部屋で二人で暮らし始める時に買った大きなベッドは、一人で広々と使うよりも二人で並んで寝転がった時の方が自分のスペースは狭くなるっていうのにしっくりと落ち着くような心地になるのが今でもなんだか面白く思う。
太刀川もベッドに入ったのでもう寝るためにベッドサイドの明かりを消そうと思ったけれど、掛け布団の位置を軽く調整する太刀川の左手にきらりと光るものが目に入って、なんとなくそれをじっと見つめてしまった。
それだってさっきまでも何度も見ていたはずなのに、熱が引いて素面になると、なんだか改めて言葉にできないような感慨が心の中に浮かんでくる。
その視線に気付いた太刀川が一瞬不思議そうな顔をして、そしてすぐに合点がいったような顔をして口角を上げた。言葉にしなくたって見透かされているのが分かって、迅は誤魔化そうとふいと視線を逸らす。体を少し後ろにひねって、ベッドサイドの明かりを消そうと左手を伸ばしかける。
しかし、そんなことで楽しそうなスイッチの入った太刀川から逃げられるとも思っていない。「じーん」なんて楽しげな声で呼ばれたと思えば、その左手を太刀川の左手に捕まえられた。そしてそのままぐっと引っ張られて、太刀川の唇が迅の左手薬指――太刀川と同じシンプルなシルバーのリングが嵌められたその場所に、軽い口付けを落とされた。引っ張る力は強かったのに、こちらの手を捕まえた指先と、触れた唇はひどく柔らかい。恭しい、だなんて普段の太刀川にはとても似合わないような言葉すら浮かぶようなキスだった。
まさか太刀川が、そんな気障ったらしい真似をするなんて思ってもみない。そしてそんな思いがけない行動に加えて、太刀川の楽しげで悪戯っぽい表情と仕草には先程までと似たような雄くさい色気が復活していて、それを見て取ってしまえばじわりと耳が熱くなってしまった。
そんな迅を見て、太刀川はくっとおかしそうに笑う。淡いオレンジ色の明かりに照らされた太刀川の底知れない格子の瞳の奥が、楽しそうに光っていた。
「……太刀川さんってそんなキザなことする人だったんだ?」
そう言ってみれば、太刀川は表情も変えずに答える。
「おまえがどんな顔するか見てみたくなったからな」
ああ、そうだよね、と思う。
この人の行動原理はずっと変わらない。出会った頃から今に至るまで。太刀川は、面白そうなことがあれば躊躇うなんてことなくそれを選ぶ人だ。――とりわけ迅が関わることに関しては。
太刀川はずっと、迅という人間を面白がって眺めていた。予知のサイドエフェクトが万全に機能していた頃は予知を覆すと言って憚らず、年齢が上がるにつれて予知に多少の減衰がみられてからだって太刀川が迅を見る目線にはなにひとつ変わりはなかった。迅を見つめて、迅の言動を眺めては、飄々と余裕ぶりたがる迅に張り合って裏をかいたり驚かせたりしようとしてくる。予知があろうとなかろうとそれも迅の一部としてありのままに受け止め、太刀川は迅悠一という一人の人間をずっと見つめていたのだと知る。
分かってはいた。伝わってはいた。けれどそれを実感する度、嬉しさと優越感を抱いてたまらなかった。
サイドエフェクトが現れることが減った今のほうが、どうしても太刀川の咄嗟の行動に驚かされてしまう頻度は高くなっている。こんなに一緒にいてお互いの一番深くまで知って知られたと思っても予想外の行動をしてくる太刀川のことこそ、迅だって興味が尽きなくて、楽しくて、ずっと惹かれてやまなかった。
あの頃だって今だって迅は太刀川の行動に動揺させられては、太刀川はそんな迅を見て悪戯が成功した子どもみたいな顔で笑う。動揺した顔を見られるのは恥ずかしいくせに、太刀川の楽しそうな表情がかわいくてどうにも好きだと思ってしまうのだから、自分だって始末に負えないことを自覚していた。
始末に負えない。どうしたって好きだった。
最大公約数の人々の幸福を追いかける日々の果てに、誰の為でもなく自分の為に、どうしても、この人と共に在る未来を手にしたいと思った。その結果が今だ。太刀川の手に掴まれたままの左手に、シルバーのリングがきらりと上品に光っている。
注文していた揃いの指輪が完成した、ということで取りに行ったのは今日のことだった。
太刀川とはもうその少し前から一緒に暮らし始めていたし、籍も入れていた。指輪はどうするか、という話をずっと置いておいたままで、別に無くとも不便はないと思っていたけれど、やっぱり買おうという話になったのが先日の近界遠征中のこと。
環境悪化によって捨て去られ廃墟になった星で立ち寄った、崩れかけた教会。二人きりでの散策途中だったのをいいことに誓いのキスごっこだなんて少しはしゃいで、その後太刀川が「やっぱり指輪をつくらないか」と言ってきたのだ。――「おまえは俺のもんで俺はおまえのもんだって見せつけてやりたくなった」なんて物騒な言葉を添えて。
思っていたロマンチックさなんてない。だけどその言葉にこそ高揚させられてしまった自分も自分だ。あの太刀川が、こんな独占欲を抱く相手が自分であるなんて、嬉しくないわけがなかった。
玄界に帰ってきて、遠征の報告や最低限の荷物の片付けを終えてからすぐ指輪をつくりに行った。二人とも装飾品に華やかさを求めるようなタイプでもなかったから店にあった中で一番シンプルなものを選んで、サイズ直しやら何やらで受け取りまでに数週間。そうして完成したものを今日受け取ってきた。
受け取ってすぐ指に嵌めたのだけれど、アクセサリーを身につける習慣なんてお互いになかったから、自分がつけているのも相手がつけているのを見るのも、まだ少しだけ変な感じだ。けれど、揃いの指輪をつけているというそれだけで、こんなに嬉しいようなくすぐったいような気持ちになるなんて知らなかった。
関係性を形にすること対してこだわりはないつもりだった。それに対してさほど重要な意味を見いだせずにいたから、指輪なんてあってもなくてもいいと思っていた。
けれど、形として見えることがこんなふうに改めて実感をもたらすのだとこうして身につけてみて初めて知る。王道を踏襲してみるのもたまには悪くないものなんだな、なんてことを思ったりなんかして。
――あの太刀川さんが。左手の薬指に指輪を嵌めている。おれと同じ指輪。
太刀川さんはおれのもので、おれは太刀川さんのものだという証。そう思うと、言葉にしきれないような感情がぶわりと膨らんでいく。指輪をつくろうだなんて言い出した時の太刀川のひどく楽しそうな表情を思い出す。結局は自分も太刀川も似たもの同士なのだ、と思う。
迅を見つめた太刀川が、不敵に目を細めて笑う。
「指輪じゃないところにもキスしてほしいって顔してるな?」
自分の顔なんて自分では見られないから、どんな表情をしているかなんて分からない。けれど仮に表情に出てしまっていたとしたら、その推察は正解だ。そして、そう言う太刀川こそ、こちらに噛みついてやりたそうな顔をしている。性質の悪い人だ、と思う。だからきっとこの人は、おれじゃないと手に負えない。
掴まれた手を軽い力で解いて、そうしてこちらから指を絡め直す。恋人繋ぎのような形になって、迅よりも少し高い太刀川の温度を手のひらで感じて愛しさがじわりと募る。
「分かってんなら、ちょうだい」
仰せのままにそうわがままぶってねだってみせると、太刀川の目の奥が小さく揺れる。子どもっぽい楽しそうな表情をした太刀川が、ぐっと距離を詰めてくる。唇が触れて、それが嬉しくて絡めた指先に小さく力を込めると、その返事みたいに角度を変えた口付けが深くなった。