白昼の星



 夏が過ぎて、涼しくなってきて。そうすると否応なく一年前のことを思い出す。自分から手を離したこと、あの時のあの人の顔も。
 それらはもう、痛みじゃなくなれただろうか。


 教室のドアを開けるとガラガラと軋む音がするのはいつも通りなのに、開けた先の景色はいつもとは全く違う賑やかで華やかなものだ。すぐ上にある教室名のプレートもいつもの「二年C組」という文字は隠されて、「休憩処」というかわいらしくレタリングされた看板がかかっている。
 うちのクラスだけではない。各教室の前は思い思いに装飾されて、浮き足だった空気にわいわいとはしゃぐ生徒たちは制服だけでなくクラスTシャツやら、お化けの格好やら、ウェイターの格好やら、様々な格好をしていた。隣のクラスの男子が段ボールで作った看板を持って、自分のクラスの出し物であるらしいチュロスの宣伝を大きな声でしながら通り過ぎていった。さてこれからどうしようか、と思案する迅の横を、中学生くらいの女子二人組がパンフレットを見てあれこれ喋りながら追い越していく。来年三門第一うちを受験するつもりの子たちかもしれない。未来視がぱっと、彼女たちが緊張した面持ちで受験票を手にしている未来を視せてくる。
 今日は、三門第一高校の文化祭である。
 迅は先程自分のクラスのシフトが終わったところだ。迅のクラスは簡易的なカフェのような休憩処をやっていて、簡単な飲み物とお茶菓子を出すくらいのものである。やはりアトラクションなどの催し物のほうが人気なので比較的まったりしたものだったが、現在実質的にボーダーの顔のような存在になっている嵐山がシフトに入った時には嵐山人気で大盛況になっていたというのは昨日嵐山と一緒にシフトに入っていたクラスメイトの談だ。迅も未来視でそれは視えていたのだが、実際話に聞くとさすが嵐山だなと思ってつい笑ってしまった。
 今は同じクラスの嵐山や柿崎は防衛任務の真っ最中である。本当は学祭の日くらいは防衛任務を免除できたらよかったのだが、これについてはまだまだボーダーは人員不足だから仕方のない部分であった。
 迅はこの後クラスのシフトも入っていなければ、今日は防衛任務ももうない。後夜祭の時間頃に嵐山や柿崎が戻ってくるまで適当にぶらぶらと色んな出し物を冷やかして回るか、それとも今日は防衛任務で朝が早かったからどこか人の少ないところでだらだら休憩するか――なんてことを考えているところに、急に後ろから手首をぐんと強く引かれたので迅は驚いて目を見開いてしまった。
 わずかによろけそうになったのを慌てて踏みとどまって、何だと慌てて振り返る。いきなりこちらの手首を引っ張ってきた人間の顔を認識するのと、胸がぎゅっとなるような懐かしい声が自分の名前を呼んだのは同時だった。
「迅」
 ぱちくり、と、迅は瞬きをしてその人の姿を捉える。
「太刀川、さん」
 驚いたせいで、そして予知できなかったことにまた驚かされてしまったせいで自分の声が思った以上に弱弱しいものになってしまった。それにぐっと恥ずかしいような気持ちが沸き起こる。
 最近は――ここ一年ほどは特段用事が無い限り本部に顔を出すこともとんと減っていたから、この人と顔を合わせることもなかなかなくてすっかり読み逃してしまっていた。あの頃から変わらない独特な格子の瞳が、迅をじっと見つめている。
 こんなに近くで太刀川の顔を見るのは、本当に久々のことだった。
「……、ひ、さしぶり」
 危ないから急に引っ張らないでよ、なんて文句のひとつも言いたくなったはずなのに、口から出たのはそんな言葉だった。急に口の中がやけに乾いたように思う。自分でも間が抜けているように思えるのに、この人を前にすると得意なはずの自分のペースが良くも悪くも狂わされる。それは、この人と出会った頃からずっとそうだった。
「久しぶり」
 そんな迅の胸中なんて知らないかのように太刀川が返す。その声からは特段波立つような感情は感じられない。いつも通り、相変わらずの太刀川の声だ。太刀川はその瞳をわずかに細めて、迅の出方を見るようにしてから、言葉を続ける。
「迅、この後時間あるよな?」

 騒がしいという言葉の方が似合うほど賑やかな声や音が、少し前を歩く太刀川の上履きがきゅっと鳴る音を幾分薄めて迅の耳に届かせた。多くの人が通り過ぎていく階段で、ずんずんと進んでいく太刀川の背中を人波で見失わないように追いかける。迅が「恥ずかしいから」と言って拒んだからもう太刀川は迅の手首を掴んではいないのに、素直についていっている自分がおかしいと、自分の中の少し冷静な部分が呆れている。先程掴まれた手首が、まだじくじくと熱を持っているように思えた。強い力で引っ張られたのはほんの一瞬のはずなのに熱が引かないのは、自分の心持ちのせいであることなんて本当は気付いていたけれど気付かないふりを決め込んだ。
 時間あるんだったらうちのクラス来いよ、来場人数貢献してけ――そんな太刀川の言葉に引っ張られるまま、二年生の教室がある二階から三年生の教室がある一階まで降りてきた。太刀川が断定口調で迅にこの後の予定がないだろうと言ったことに暇人扱いされたようで少しだけむっとするような気持ちになったけれど、なんのことはない、今日この後迅が防衛任務のシフトが無いことだってクラスの出し物のシフトが入っていないことだって、それぞれ調べたり探りを入れたりすれば簡単に分かることだろう。そう思えば迅がちょうどシフトが終わったタイミングで待ち構えていたように捕まえてきたことにも納得がいく。太刀川は普段はのんびりぼんやりとしているように見えて、こういうときに本気を出せば簡単にそのくらい頭が回る男なのだ。
 ずらりと並ぶ三年生の教室、太刀川はどんどんその奥へと迷いのない歩調で進んでいく。そういえば今の太刀川のクラスがどこなのかを、迅は知らなかった。だって知る必要が無かったし、そんなタイミングもなかったのだ。一年ちょっと前みたいに、太刀川のクラスのホームルームが終わるのを待って本部まで競うように一緒に向かうことなんてぱったりなくなってしまったから。だって、一緒に本部に行ったってもうその先の遊びは自分たちには待っていないから、そんなことをする意味が今の自分たちにはなかった。
 辿り着いたのは三年生のフロアの中でも一番奥の教室、「星空迷路」なんてかわいらしく星のイラストがついた看板がかかっていた。どうやらここが太刀川のクラスらしい。一番奥の教室だから、ここまでくると流石に人もまばらだ。入口の前に置かれた机と椅子に座って受付をしているらしい女子生徒が太刀川の姿に気付いて「あれ、太刀川くん」と少しだけ不思議そうな顔をした。彼女が立ち上がるために引いた椅子の脚がワックスを引きたての廊下に擦れて、小さくきゅう、ともぎぎ、ともつかないような音を立てる。太刀川が「おつかれー」と間延びした声で彼女に挨拶をする。
「おつかれさまー、でも太刀川くん、今日もうシフトなかったよね?」「いや、今は客」なんて会話を始める二人を太刀川の数歩後ろから眺めながら、そこはかとない座りの悪さというか、どう身を置いたらいいのか分からないような心地になる。普段であればこういう状況でも我ながらあまり気にしないような肝の太さは持っている方だと自負しているけれど、こんな風に自分らしくもなく居場所に困るような気持ちになるのは、きっと自分の知らない人と話す太刀川という知らない一面を目の前にしたことへの座り悪さのせいもある。しかし同時に、そもそも太刀川個人との現在の関係性をどう位置づければ良いのかが自分でもまだ結論を出せていないせいだった。
 二人が会話をするのをぼんやりと後ろから眺めていると、太刀川が不意にこちらを振り返った。「じゃ、行くか」と今度は迅をまっすぐ見て太刀川が言う。どうやら彼女に簡単に説明をして、客として入るという話をし終わったところらしい。その目が再びこちらに向けられたことに少しだけドキリと心臓が音を立てたのは、急に振り返られてびっくりしたからだと自分で自分に言い訳をした。

 『星空迷路』とは何なのか看板だけではいまいちピンときていなかったのだけれど、中に入ってその意味がすぐに分かった。
「わ、すごい」
 迅が思わず声を零すと、太刀川が「だろ?」なんて得意気に返す。
 教室の中は暗幕が貼られて真っ昼間のはずなのに暗く、しかし迷路の壁を這うように飾り付けられた小さな豆電球がきらきらと光って教室の中を控えめに照らしていた。なるほど、確かにこれは星空のようだ。落ち着いているけれどどこか楽しげな音楽が教室の中に流れており、かわいらしいこの空間の雰囲気によく合っている。
 太刀川に多少強引に連れてこられたといえど、想像以上の完成度を目にするとつい素直にわくわくとしたような気持ちが疼いてきた。
「迷路かー、そういえば行ったことなかったかも」
「そういえば俺もないな」
「意外とないもんじゃない?」
 そんな他愛のない話をしながら、とりあえずは前に進んでみることにした。ちょうど今は自分たち以外に客はいないのだろうか、自分たちの声や足音、それと流れている音楽以外に音を立てるものはない。太刀川はひとまず迅の進む方についていく方針らしく、迅が足を向けた方に太刀川も素直についてきた。限られた教室というスペースを限界まで使うためだろう、通路は人一人分の横幅しかなく大分狭めだ。迅のすぐ後ろに太刀川がつくようにして、薄暗い迷路の中を二人で小さな足音を立てながら進んでいく。行き止まりに当たって、引き返そうとした拍子に太刀川の制服の裾に腕がちらりと触れた。
(近……)
 思わず浮かんだそんな思いをぐっと呑み込んで、「行き止まりだったね」なんて言って何でもない顔にすぐに戻して歩き出す。
(……久しぶりだな。こうしてこの人と、こんなに近い距離にいるなんて)
 すぐ近くにいると、妙に細かいことにまで気付いてしまう。例えば、太刀川の身長が記憶よりもまた高くなっていたことだとか。一年前は迅より少しだけ高いくらいだったのだが、その差が更に広がってしまったように思う。それをどこかで悔しく思ってしまう自分が、相変わらずで内心また呆れてしまう。
 控えめな電球は、足下まで照らすには少しだけ心許ない。うっかり足下をとられたりしないように気を付けながら進んでいく。電球の灯りが、きらきらと光って二人を照らす。
 ふと、すぐ後ろを歩いていたはずの太刀川の気配が少しだけ離れたのに気が付いた。どうかしたのかと思って振り返ると、数歩後ろに太刀川が立ってじっと迅を見つめている。その表情はやっぱり読み取りにくくて、けれどなんだか先程までよりもずっと子どもじみた、拗ねた子どもみたいな雰囲気があるように見えた。
 どうしたの、と、聞こうか迷う。迷っている間に、太刀川がゆっくりと口を開くのを見て取った。
「迅、おまえさあ」
 彼の声は元々低いのだけれど、そんな普段の声よりもさらに少しだけ低く響いたように思う。彼にしては珍しい、少し潜めた、控えめな声だった。
「……なに?」
 何を言われるのかは、その声色と表情からなんとなく予想がついてしまった。彼と過ごした日々で得た勘のようなものだ。けれど知らないふりをして返す。そうすると、太刀川はそれに気付いたのだろうか。む、と太刀川が唇を尖らせるのが薄暗い視界の中で見えた。
「俺のこと避けてただろ」
 未来視が伝えてくるより早く分かったその言葉に、迅は唇を引き結んだ。一度小さく呼吸を整えるように息を吐いた後、迅は口を開く。
「……避けてないよ」
 そんな言葉が通用する相手じゃないことも知っている。太刀川は案の定、すぐに切り返してくる。
「嘘だね」
 だろうな、と思う。どう出ればいいのか迷ってしまった。そのくせ、今だって彼にこうして見透かされることに、ほんのわずかだけ嬉しいような気持ちが生まれてしまう自分が心の隅にいた。
 太刀川の言うことは当たっている。この一年ちょっと、おれは、この人に可能な限り会わないように意図的に避けてきた。
 ここは室内だから幾分ましだけれど、少しだけひやりとした空気が指先に絡むせいで、もうすっかり涼しい季節になっていることを思い出させられる。夏が過ぎて、秋が来て――否応なく、一年前のことが頭の隅にちらつく。肌身離さず持ち歩いている、今は制服の内ポケットに大切に仕舞ってあるこれまでよりも大きなトリガーの重さにもすっかり慣れたつもりなのに、太刀川を目の前にしたら、不意に思い出させられてしまった。
 今から一年ちょっと前。迅は黒トリガー〝風刃〟の所有者となり、S級隊員となった。
 それは同時に、ランク戦の参加資格を失うということでもあった。
 迅は、太刀川になんと言葉を返せばいいのか迷って再び唇を引き結ぶ。太刀川はそんな迅に対して、怒るでもなく、呆れるでもなく、ただただ迅の出方を待つみたいにその凪いだ瞳でじっと迅を見つめていた。

 別に、太刀川と喧嘩とかをしたわけじゃない。S級隊員になったからといって、ランク戦への参加権利を失うだけで、その他に何かが変わったわけじゃない。本部に行ったっていいし、これまで通り太刀川とくだらない話をしながらぐだぐだ遊んだりしたってよかった。ランク戦に参加できなくなった、ただそれだけのことであって、他の何かまで変わる必要なんてなかった。
 だけど、自分と太刀川にとってランク戦は、「ただそれだけのこと」なんて言葉で簡単に片付けられるものじゃなかったのだ。あの時のことを思い出すと、ちりちりと自分の中で言葉にならないような感情が今も燻るのが分かる。
 風刃争奪戦の日のこと、あっという間に候補者全員を倒してブースから出てきた時、そのすぐ目の前で待っていた太刀川の表情。じっと迅を見つめるその目は見慣れた爛々と楽しそうな太刀川の顔とは違っていて、トリガーを構えて相対すれば手に取るように分かるはずだった彼の感情をうまく捉えかねてそれに動揺させられて、突き刺さるようなその視線が痛く思えて、逃げるように早足でその場を立ち去ってしまった。
 楽しくてたまらなかったんだ。心の底から。太刀川とランク戦で競い合うことが。自分がこんなにも楽しいと思えることができるなんて思わなかった。手放したくなかった。もっと太刀川と遊んで、競い合って、張り合っていたかった。あの頃、ランク戦のステージで向き合えばこの人を誰より近く感じられることが嬉しくて、優越感を覚えてたまらなかった。この人に勝ちたかった。まだポイントも追い越せていないことだって心残りだった。
 全部手放す必要なんてなかった。だけど、もう決めたことだから。天秤にかけて、見定めて、おれはこっちを選ばないことを決めた。だからそうやって、あの日に手を離すことに決めた。ランク戦に出られなくなっちゃったからね~なんて言って本部にすっかり寄りつかなくなり、学校でだってなんだかんだと昼休みにも太刀川とつるんで一緒に屋上で昼食をとっていたのもぱったりとやめた。本部に行くこともなくなったから、当然放課後に太刀川を待って一緒に本部に行くこともなくなった。それまで迅の日々の中でいつの間にかそれなりに大きな位置を占めていた太刀川との時間を、その日を境に全部手放した。
 自分でも極端なことをしたと思う。風刃争奪戦のことを太刀川に話したのも直前だったし、それから太刀川とまともに話し合うことすらしなかったのは不誠実だったという申し訳なさもある。だけどそれでも太刀川は許してくれるんじゃないかって、きっと自分らしくもなく、心の奥で太刀川にひどく甘えるような気持ちがあった。
 だって全部をまとめて手を離さないと、思い出だって思い出したりしないように引き出しの奥に仕舞っておかないと、決意が揺らいでしまいそうで怖かった。この人との日々が、この人のことが、おれにとってどうしたって特別だったせいだった。

 室内を控えめに照らす星空を模した照明は本物の星空には遠いけれど、それでもこんな風に太刀川の目の前にいると、まるで本当に星空の下にいるようにほんの一瞬思えてしまった。ブースが閉まるギリギリの時間まで二人でランク戦で競い合って、つまみ出されるように本部を追い出された夜の帰り道、雲ひとつ無い空で星がきらめいていたこと。太刀川と戦った余韻で高揚して眠れなくて、玉狛の屋上で星を見ながら次はどんな手を試してやろうか考えずにはいられなかったこと。
 懐かしい思い出が頭の中を過ぎっていく。
 もうすっかり慣れたつもりでいた。大人ぶって、何も気にしていないみたいな顔をするのは得意なつもりだった。なのに楽しくてたまらなかった記憶を思い出して「楽しかったな」なんてただ懐かしむような気持ちだけでいられないのは、なかなか剥がれてくれないかさぶたみたいにまだ自分の中できれいに片付けきれていないことの証左だ。
 太刀川がわざわざここに連れてきて話を切り出したのも、おれが簡単にはぐらかして逃げようなんてさせないつもりだったからだろう。この人はぼんやりしているように見えて、そういうところがあるから。最近のことはしらないけれど、少なくとも一年前までは誰より彼と本気で相対してきた自負のある迅はそれをよく知っていた。
 だけど、多分本気で抗おうとすればそれもできたはずだった。理由をもって本当に嫌がれば、太刀川は無理強いをするような人じゃないことも知っていた。
 でもそれをしようとは、太刀川に手を引かれた時思えなかったのだ。こんな風に太刀川が目の前にいること、太刀川と話すことがあんまり懐かしかったせいで、つい絆されてしまった。
 先程掴まれた手首に未だ熱の余韻を残していること。太刀川の背が迅の知らないうちにまた伸びていたこと。そんな些細なことが、迅の心を呆れるほど揺らして、この人のことが自分は今もどうしたって特別でしかないのだと思い知る。一年の空白があったって、聞き分けの良い大人になれたつもりでいたって、全然、この人のことに対してだけは変われていやしなかった。
 何も言わない迅をじっと待っていた太刀川は焦れたのだろうか。太刀川は迅が言葉を見つけるより前に、ゆっくりと再び口を開いた。
「おまえがS級になったのとか、ランク戦に出れないのとかはいい。いや、よくはない、けどしょうがないっつーか……おまえが選んだことだろ、俺が何か言えることじゃないし」
 そう言った後、太刀川が何か迷ったように、言葉をどう選ぼうか困ったみたいに口をまごつかせる。いつも気持ちと言葉に清々しいほどに齟齬のない太刀川がこんな様子を見せるのはひどく珍しいことだった。太刀川がくしゃりと頭の後ろを掻く。
「だけど」
 太刀川がまっすぐに迅を見る。その距離感はランク戦で彼と相対した時に似ているのに、だけどあの時の爛々と楽しくてたまらないというような表情とも違う。迅を見つめる太刀川は聞き分けの良い大人のようにも見えて、だけどわがままを持て余す子どものようにも思えて、そんな太刀川の表情は迅は初めて見るものだった。
「……さみしいだろ。おまえがいないと」
 ぽつりと落とされるように口にされたその言葉に、迅は瞠目してしまった。そんな迅の表情を見て、太刀川は小さく眉根を寄せる。
「……さみしかったの? 太刀川さん」
 思わず零れた言葉に、太刀川は再び拗ねたように唇を尖らせた。
「そうだぞ。俺がそんなこと言うと思わなかったとか言わないよな?」
「いや、……」
 太刀川に言われて、迅は言葉に窮してしまう。とても、動揺させられてしまったからだ。
 本当は思わなかった。太刀川がそんなことを言うなんて。
(さみしかった? ……太刀川さんが、おれがいなくて?)
 太刀川は、驚くほどに鷹揚な人物だ。細かなことにはこだわらないし、過去に拘泥するようなタイプでもない。起きた出来事はありのままに受け止めるし、来る者は拒まず、去る者は追わずといった性格である。だから迅とのことだって、太刀川は太刀川なりに落としどころを見つけてくれるだろうなんて心のどこかで思っていた。だからこそ、太刀川に何も言わず自分勝手に甘えてしまった部分も大きかった。
「……、おまえといるのが、楽しかったから」
 迅が動揺して言葉を継げずにいると、太刀川が口を開く。一度言葉を切って、はあ、と太刀川は小さく息を吐いた。それは呆れているというよりも、仕方ない、なんて困ったような、こちらを甘やかすような雰囲気があった。そんな太刀川に、なんだか胸の奥がぎゅっと掴まれたような心地になる。だけどそれは、嫌な痛みじゃなかった。
「急にいなくなられると調子狂う」
 太刀川の言葉を受け取って、迅はゆっくりと瞬きをする。そうして太刀川のことを見つめ返すと、視線がまっすぐに絡んだ。
 太刀川が迅を見ている。それだけでこんなに嬉しくなるなんて、今までずっと、思い出さないように忘れたままでいたことだった。
「……そっか」
「そう」
 迅が言うと、太刀川が頷く。
 太刀川と、ランク戦で競い合うことが楽しかった。だから何度だって飽きもせず戦ったし、自然とランク戦の前後にもつるむことが多くなった。自分と太刀川をつなぐものは、ランク戦というものの存在があまりにも大きかった。
 だけど、ランク戦だけが、自分と太刀川の間の全てとはいつしか言えなくなっていた。
 太刀川とこんな風に喋ったり、くだらないことで笑い合ったり、そばにいるだけで気楽でいられて楽しくて仕方がなかった。太刀川との距離が遠くなって、自分からそれを選んだくせにそれが少しだけ苦しくて。ランク戦はしたい、だけどランク戦ができなくたって、太刀川に会いたいなんて思いを抱かないようになんて気持ちを押し込めていたこと自体がもうそれを証明していた。
 太刀川と一緒にいること、それ自体が楽しくて、いなくなると調子が狂って、さみしく思ってしまったのは、おれだって一緒だったんだよ。
「太刀川さん」
 こんな風にこの人の名前を呼ぶのも、ひどく久しぶりに思える。未来視が、もうすぐ次のお客さんがここに入ってくることを教えてくる。けれどあと少しの間、あとほんの少しだけなら誰も見ていない。音楽だけが流れる室内で、静かに落ちた呼びかけを拾って太刀川がじっと迅を見つめ返してくれる。
「ごめん。……たまには本部に顔出すようにするよ」
 そう言うと、太刀川の雰囲気がふっと和らぐのを感じた。それを嬉しく思った。
「おう」
「昼休みも、やっぱりたまには屋上で食べたい時もあるしさ」
「おう」
「……あと、もうわざと避けるのはやめる」
 迅が最後にそう付け足すと、太刀川は「やっぱ避けてたのかよ」と言って肩をすくめた。

 入口の方がにわかに騒がしくなって、次のお客さんが入ってきたことを知る。それを合図みたいにして、自分たちも迷路の探索に戻ることにした。迷路は意外と難易度が高くて、普段は狭く思える教室にこんな複雑な迷路が作れるなんて感嘆してしまう。何度目かの行き止まりに当たった時に「そういえばここ太刀川さんのクラスなんでしょ、経路覚えてたりしないの?」なんて問えば「俺が覚えてると思うか?」なんて当然のような顔で言うので迅は思わず笑った。素直に笑った後に再び太刀川の顔を見上げれば、太刀川が楽しそうに柔らかい顔で笑っていたのでそれに心臓が小さく音を立てて、それにじわりと動揺させられてしまった。
「去年さあ」
 苦戦すると悔しくなって負けず嫌いを発揮してしまうのはお互いさまだ。この迷路をどうにか攻略したくなって、そういえば壁に手をついて歩けば迷路の出口に出られるらしいぞ、国近が言ってた――なんて少し前に組んだという隊のオペレーターの名前を出して言う太刀川の言葉に従って壁に手をつきながら歩いてみることにする。そんな風に素直に迷路を楽しみ始めた途中で、太刀川が不意に口を開いた。
「争奪戦の直後だったろ、学祭」
 太刀川の言う争奪戦、とは、風刃争奪戦のことだろう。去年の学祭があったのは、風刃争奪戦があって、迅がS級になって、太刀川と距離を意図的に置くようになった直後だった。
「だから、俺もさすがに声かけにくかったっつーか――おまえと学祭回れなかったの、ちょっと後悔してた」
 迅は、思わず目を瞬かせてぱっと太刀川を見た。
 太刀川がそんな風に思っていたなんて、全然、知らなかったからだ。去年、自分と学祭を回りたいと思ってくれていたらしいことも、それができなかったことを後悔していたなんてことも。
 そういえば迅が同じ学校に入学した時、太刀川がとても嬉しそうにしていたことを思い出した。意外なほどに無邪気に喜ぶものだから少し驚いたほどだったのだ。太刀川は、同じ学校だとスケジュールも大体似たような感じになるからランク戦がしやすくなるというところを一番に喜んでいるのだとばかり思っていたけれど、それだけじゃなくて迅とそんな風に、色んなことを楽しみたいと思ってくれていたのだろうか?
 そんなことを思ってしまって、じわりと耳が熱くなる。そんな自分にまた驚く。ここが薄暗くて良かった、ということに心の中で感謝した。耳が赤いことを太刀川に気付かれるのは恥ずかしい。太刀川はそんな迅に気付いているのかいないのか、「だからさあ」と言葉を続ける。
「卒業する前に迅と学祭で、こんな風に遊びたかったんだよ」
 喉の奥で言葉がつっかえる。胸の内で言葉が渦巻くのに、何て返すのが正解なのか咄嗟の判断に迷ってしまった。そうなんだ、なのか、おれもだよ、なのか、うまく言葉が音になってくれない。簡単にこの蓋を開けてしまえば、何か感情が溢れてしまいそうに思えたからだ。
 そうして迅が逡巡しているうちに、太刀川が「お」と声を上げる。
「迅、ゴール!」
 ファンシーにデコレーションされた教室のドアと「GOAL」の文字を見付けて、太刀川がぱっと嬉しそうな表情になる。その表情にまた心を揺らされて、「うん」と返すのが迅の今の精一杯だった。二人きりのようなこの時間がもうすぐ終わってしまうことに一抹の寂しさを覚えたけれど、しかしもうかたくなに太刀川のことを避けなくたっていいのだと思い出す。
「行こうぜ」
 そう言って迷わず歩き出す太刀川の背中に置いていかれないように早足で追いかけた。ドアに手をかけて、ガラリと太刀川がそれを引く。薄暗い迷路に慣れていた視界が急に明るくなって、廊下の賑やかな音が耳に飛び込んでくる。その眩しさに迅は思わず一瞬目を細めてから、そして太刀川に続いて教室の外に一歩踏み出した。




(2021年10月23日初出)





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