花束の今日を祝おう
「ただいまー、……あれ?」
帰宅するなり、迅がテーブルの上を見てぱちくりと目を瞬かせる。さすが、普段と違う一点に気付くのが早い。着ていた薄手のコートを脱ぎながら「なにこれ、貰いもの?」と言ってダイニングテーブルの上に置かれたそれ――小さなカゴにかわいらしく入った花を不思議そうに見つめた。
「いや?」
言いながら太刀川もだらだらとしていたソファから立ち上がって、迅の方へ歩いていく。太刀川の返事に迅は不思議そうな表情を強めた。まったく状況が読めていないといった顔だ。素直なその反応に既に少し笑いそうになる。こういう関係になってから、特にここ数年は迅のこういう素直な表情を見ることが増えた。それは未来視が歳とともに少しずつ弱まってきているということも勿論あるだろうが、迅がこういう顔を取り繕わずに見せるようになったというのはそれだけ太刀川と一緒にいるときに迅がこんな風に油断してありのまま振る舞うことを自分に許せるようになったということでもあるだろうと思うから、嬉しく、そして楽しく思わずになんていられないだろう。
「買ってきた。ほら今日、いい夫婦の日なんだろ?」
太刀川が言うと、迅は今度はその青い目を大きく見開いた。間近で見るその青は相変わらずきれいなもんだな、なんてことを頭の隅で思う。
「……は」
迅は驚いたようにそんな呆けた声を出してから、言葉を続ける。
「え、なに、太刀川さんってそういうの気にする人だっけ?」
「いや? 今日の今日まで忘れてた」
そう言うと、迅は「なにそれ」と眉根を寄せる。怒っているような表情ではなく、自分の感情の置きどころに困った、というような様子だった。
「今日スーパー行ったら、その隣の花屋で売っててな。そういえばそうかーって思ってちょっと見てたら花屋のお姉さんがおすすめしてくれたし折角だから買ってきた。えーっとなんだ、ぶり、……? なんか枯れにくいやつ。毎日手入れとかしなくていいから楽だって」
「ブリザーブドフラワーね」
太刀川の言葉に律儀に訂正を入れてくる迅に「そうそう、それ」とすっきりと頷く。しかしそうしている間に、経緯を理解したらしい迅がじわりと頬を赤くしていた。そんな自分の顔を恥じて隠そうとするように、迅が口元を左手で覆う。その薬指にはシルバーのリングが部屋の照明を反射して控えめに輝いていた。勿論それは、太刀川が左手の薬指につけているのと同じものだ。
「ていうか夫婦――って、いやまあ、そう……なんだろうけど、さ、ねえ」
そんなことで改めて照れる迅を、面白いやつだと思う。一緒に住んで、籍も入れて、揃いの指輪までつけておいて今更だ。普段はやたらとすかして余裕ぶっているくせに、すっかり大人と呼ばれる年齢になった今だって時々妙なところで照れたり恥ずかしがったり、心の柔らかい部分をみせる時がある。そういうなんとも複雑な感情の機微は太刀川にはあまりないもので、そんな迅をいつでも面白く興味深く思ってきたし、同時にかわいいやつだと愛しくも思うのだ。
別にお互い、そういう記念日やイベントものを逐一大切に祝いたいというようなタイプでもない。正直なところ太刀川だっていい夫婦の日がどうとかいうのは口実でしかなくて、これを受け取ったときの迅の反応が見たかったという、動機なんてただただそれだけだった。
「やっぱ買ってきて正解だったな。すげー面白い顔してる」
「太刀川さんさ、おれで遊ぶのやめてくんない」
今度こそこらえきれずくつくつと笑っていると、妙に悔しそうに眉を上げた迅が返してくる。太刀川がこれを買ってきた本当の動機なんて、迅だってもう分かっているだろう。
「でも満更でもないって顔してるぞ」
「うるさい、もう」
そう言って笑っていれば、迅がこちらの顔を手で引き寄せて唇を重ねてくる。これ以上余計なことを言う前に口を塞いでやろうということだろう。そんな迅の最終的には実力行使といったような手管も、太刀川は嫌いなんてわけがなかった。口付けはどちらからともなく深くなって、呼吸が苦しくなってようやく唇を離す。はあ、とお互いの熱い呼吸の音が部屋の中にいやに大きく落ちた。
至近距離で少し拗ねたような顔のままの迅が、しかしこちらを見つめて「……、でも、ありがとね」と小さな声で太刀川に言う。まだその顔はほんのりと赤い。
なんだかんだと文句を言いつつ、結局はそんなふうに言う迅はやっぱり優しくてかわいい男だと思う。太刀川の好きな男だ。そんなことを思えばふわふわと上がった気分でまた笑いそうになってしまったから、また変に拗ねられてしまう前にもう一度その柔らかな唇を塞いでやった。