ミッドナイトうどんとロマンス



 カタン、と物音がしたと思って振り返ると、居室のドアが開いてまだ眠そうな顔の迅が顔を覗かせた。「おー迅」と言った後、この深夜の時間帯の挨拶はおはようなのかどうか少し迷った。太刀川が何と言うべきか迷っている間に、迅が「太刀川さん、……なにしてんの?」と眠いせいだろう、少し低い気怠げな声で太刀川に聞いてくる。迅も太刀川も眠りについたときと同様、上半身裸にパンツ一丁のままだ。迅がぺたぺたと裸足の足音を鳴らして、コンロの前に立つ太刀川の斜め後ろに立つ。そうしてぐつぐつと静かな音を立てて煮え始めた鍋の中を迅も覗き込んだ。
「変な時間に目ぇ覚めたんだけどな、腹減ってもう一回寝られそうになかったから」
 太刀川が言うと、迅は「あぁ、それで……」と一旦納得した後「ブレないね」と付け足す。背後で迅が小さく笑う気配がした。一人暮らしを始めたときに買った小さな手鍋の中では、一人分のうどんの麺の塊がゆっくりと揺れている。
「うどんはいつ食ってもうまいだろ」
「まぁそうだけどさ」
 そう言って言葉を切った迅は、太刀川と並んでじっと鍋の中を見つめている。そのまま動こうとしない迅に太刀川は聞いてみる。
「つーか眠いなら寝ててよかったのに。あ、おまえも腹減ったのか?」
 言った後すぐ、「あーでもこれでもう麺最後だったんだよな。俺のちょっと分けるくらいならできるけど」と思い出して付け足す。すると迅は「あぁ、いや」と少し言葉を濁した。
「おれは、別に。……でも一口くらいなら欲しいかも。見てたらちょっと食べたくなってきちゃった」
「ん、了解」
 菜箸で鍋の中の麺を解していくと、麺が踊るようにゆらゆらと揺れる。迅はその様子を黙ってじっと見ていた。夜の住宅街はしんと静かで、会話がなくなると鍋の中が煮えていく音がいやに鮮明に狭いキッチンで目立つ。
 不意に肩にくんと重みがかかった。迅が顎を乗せてきたらしい。迅の髪の毛が耳に触れて、少しくすぐったい。背中もぴったりと迅の身体がくっついてきて、地肌同士が触れる直接的な温度が心地良い。服を着直すのが面倒だったのだけれど、正直少しだけこの季節に半裸は肌寒いように思い始めてきていたのだ。
 迅は何も言わない。だから太刀川も何も返さずにそれを受け入れた。迅と肌をくっつけ合うのを、この温度をいやにしっくりくるように思うようになった今がなんだか少し面白い。つい数時間前までもこんな風に肌と肌を合わせて、身体を探り合って熱を上げていたりなんてしていたから、余計にしっくりくるように思えるのかもしれなかった。
 起きたらベッドの隣がもぬけの殻だったから、わざわざ探しに来たんだろうか。寂しかったから? そんなことを考える。あの迅が、なんて思うけれど、しかしこういう関係になってから迅は意外と太刀川に対して子どもっぽく甘えたがる一面もあるのだと知った。二人きりの時だけだ。特にこういう、お互いの肌に触れたような後なんかは。そんな部分を迅が太刀川に見せるのを己に許すようになったらしいのもつい最近のことだ。
 最初こそ少しだけ驚いてしまったけれど、そうしたら迅が恥ずかしがって変にへそを曲げてしまったのでそれ以降はこうやって好きなようにさせることにしている。それはこちらが譲歩して甘えさせてやってるなんてことじゃない。いつでも大人ぶって、斜に構えて、一人であちこちふらふらしている男が、こんな風に太刀川にだけは自分の中のラインを緩めて心の柔らかい部分を曝け出すようになったのが、太刀川だって嬉しく、そして優越感のようなものを覚えるからだ。そしてそんな迅を見ているのが楽しくもある。迅と出会ってから、迅がこちらに見せる表情はなんだって太刀川の心を特別に揺らした。昔はそれをあえて意識して名付けるみたいなことはしてこなかったけれど、多分それが、好きということなんだろうと今は思っている。
 鍋の中の麺に十分に火が通ったことを目視で確認して、コンロの火を止める。麺を鍋から上げる前に、顔を迅の方にふいと向けた。至近距離で青い目と視線が絡む。迅は驚かない。未来視で視えていたのだろうか。
 そう思っているうちに、迅の顔がさらに近付いてくる。唇はすぐに重なって、離れた。生意気そうな顔をしているくせに腰に回された手はまだ離れない。そんな迅の素直さを妙にかわいらしくなんて思って、太刀川は小さくくっと笑った。




(2021年12月18日初出)





close
横書き 縦書き