月光と硝子玉



 たまたまそちらに目を向けたのは何の理由もなかった。強いて言えば、今夜はあまりにもゲートが開かなくて張り合いがなさすぎて、何か面白いものを見つけたかったのかもしれない。それか、ただの野生の勘のようなものか。
 とにかく、なんとなく目をやった。警戒区域の公園なんて寂れたものだ。誰も手入れをしなくなった生垣の葉は伸びっぱなしで、かつてはきれいに整備されていただろう地面も雑草が無節操に生えている。
 その真ん中で、太刀川の視線の先、青い隊服があまりに自然な動作で振り返る。
「こんばんは、太刀川さん」
 夜空に浮かんだまん丸な月の光を反射して、その青い目が淡く光るのを見ていた。
 そんなこと微塵も思っていないような棒読みで「あーあ、見つかっちゃった」なんて口にして、迅が小さく肩を竦める。すかした顔で小さく笑ってもう一度太刀川を見て、「太刀川さんは今帰り?」と言った迅の前髪を、夏の終わりの風が浚うように揺らした。

「おまえ、今日防衛任務だったっけ」
 聞きながらブランコを軽く漕ぐと、ぎぎ、とわずかに不穏な音がした。おっと、と思ったけれど、しかしまだ壊れる様子はないのでそのまま座ったままでいる。
 人が使わなくなった遊具というのはすぐに錆びてしまうものなのだと、警戒区域の中をよく歩き回るようになって知った。まあそもそも不穏な音がした要因というのは錆びているからというだけじゃなく、もうすっかり対象年齢を大きく外れた十九歳と十八歳が乗っかることなんて想定されていないというのもあるだろうが。
 迅に誘われるように公園に入って、公園に改めてこうやって入るのもなんだか懐かしい気持ちになって、折角だからと目についたブランコに座ってみることにした。迅はわざわざブランコ? なんて言ってみせたけれど、太刀川がおまえもと言えばあっさりと迅も太刀川の隣のブランコに座った。こうして深夜に、そこそこ体の大きな男二人がブランコに乗っているというなかなか怪しい図が出来上がったのだが、人目もないのでいいだろう。
「いや? おれは今日非番」
 投げられたその問いに事も無げに迅が答えるので、太刀川の疑問は深まる。非番なら、何だってこいつはこんな時間にこんなところにいるのだろう。いつもの暗躍とかいうやつか。
 太刀川が疑問に思ったことを察したのだろう、迅が少しだけ考える素振りをしてから再び口を開く。
「……今日、なんか眠くなくてさ。あんまり寝れなくて寝るのにも飽きちゃったもんだから、夜のお散歩しにきたってわけ」
 そう軽く芝居がかったような口調で言った迅もブランコを軽く漕ぐと、鎖が擦れてまた小さく不穏な音。静かな夜にはその音がいやに目立つ。今夜はいまだゲートもほとんど開かないようで、静かな夜だ。今頃防衛任務のやつらもさぞ張り合いがないことだろう――なんて言ったら、風間さんなんかには「それはおまえだけだろう」なんて呆れられてしまうだろうか。
「学校の時以外、ずっとトリオン体でいるからだろ」
 指摘すると、迅は「ううーん」なんて言って言葉を濁した。ああ逃げたな、こいつ。と思う。トリオン体は便利だが、長い時間トリオン体で居続けると寝付きが悪くなるんだそうだ。太刀川は任務やランク戦など必要な時だけ換装する派だから特に問題はないが、迅のように非番の時だっていちいち換装しているようなやつはそれは寝付きが悪くなっているだろう。今だって迅は、いつもの青い隊服姿のままだ。
「つーか非番なのにこんな時間に外出歩いてていーのかよ、こーこーせー」
 そう揶揄するように言えば、迅はぱちくりと目を瞬かせた。そして迅は何がおかしかったのかくつくつと笑う。
「うわあ、太刀川さんに正論説かれた」
「失礼だな。俺だって高校生の時夏休み前とかすげー言われたからさすがに覚えてるぞ。この時間高校生が外出てたらダメだろ」
 時刻はもう深夜、そろそろ日付が変わろうかという時間だ。防衛任務などどうしてもボーダーの仕事があるという人間は特例とされているが、基本的にはもう高校生が外を出歩いていたら補導される時間だ。――とはいっても太刀川だって高校生当時真面目にそれを遵守しようとしていたタイプでもない。ボーダーの仕事で夜遅くなることが珍しくなく慣れてしまったということもあって、深夜だろうが特に気持ちとして気にするようなことはなかった。補導されるのは面倒だから、それだけは多少気を付けてはいたが。
 今夜の太刀川は防衛任務の帰りだが、そもそももう高校は今年の春に卒業しているのでこの時間に出歩いていても何の問題もない。
「でも残念、おれはもう十八歳になってるからね。この時間に外出てても補導対象じゃないよ」
「そうなのか?」
 迅の言葉に今度は太刀川が目を瞬かせる番だった。それは知らなかった。
「そう。まー、面倒だから、警戒区域外じゃなくて警戒区域こっちで散歩してるんだけどね」
 さらっとそう言ってのけた迅に、こいつこーいうとこあるよな、と心の中で呟く。その言い方に、常習犯なんじゃねーのと少しだけ思ったが、別にそれを咎めるような趣味もないのであえて聞くことはしなかった。
 警戒区域は一般人にとっては間違いなく非常に危険な場所だ。いつゲートが開いてトリオン兵が襲ってくるか分からない。生身で、トリオン製の武器もなければ立ち向かうこともほとんど不可能だ。
 しかし自分たちボーダー隊員――それも自分や迅ほどになればそうとも限らない。勿論危険な区域であることには変わりはないのだが、大抵のトリオン兵であれば倒す事なんて朝飯前だ。身を守る術とその実力を持っているからこそ、むしろ警戒区域外よりも人が少なく邪魔も入りづらい警戒区域こちら側の方が気楽に散歩できるなんてことを言える。太刀川だってその気持ちは分からないわけではない。
 太刀川も警戒区域内を怖いと思ったこともないし、人も少ないし、夜なんかは街灯が少ない分空もきれいに見えてなかなか嫌いじゃないのだ。
 任務外で自分の趣味で警戒区域内に入っていることを知られたら怒られるかもしれないが、しかし何か有事でも無い限りはトリガーの移動履歴をわざわざ調べられることもない。個人情報がなんたらというやつだ。それに迅のことだ、迅が深夜にうろちょろしていても、適当に言い訳すれば何か理由があってのことだと納得されるかもしれない。それは少しずりーな、と思った。
 そんなことを考えながら、「ふうん」とだけ返事をする。太刀川の素っ気なくも思えるような返事にも、迅は特に気にした様子はなかった。言葉が途切れて、二人の間に夜の静けさがしんと落ちる。
 こうやって迅と二人でいるのも、随分と久しぶりのように思った。

 迅とは今もたまに本部で会うこともある。会議で一緒になることもある。しかし、高校生の時――ボーダーに入隊した高校一年の時から二年の途中までは、毎日のように顔を合わせていた。迅がまだ、ランク戦をしていた頃。太刀川だってランク戦がなによりも楽しくて一番に熱中していた頃だ。
 迅が風刃を持ってS級になって、ランク戦を抜けてから、それまでが嘘のようにすっかり会う頻度が減ってしまった。
 別にランク戦じゃなくたって会えばよかった。そう思うのに、心の整理がうまくつけられないまま離れた距離はなんとなく離れたままだ。今は別に、会っても何かわだかまりがあるわけじゃないし昔みたいに軽口だって叩き合うけれど、心のどこか、今も埋めきれないピースを失ったままのような、そんな気持ちは今も消えきらないままだ。
 夜の風はまるで秋を連れてくるかのように涼しいのに、まだ少し空気は蒸し暑い。迅と最後にランク戦をした日の夜によく似ている、と不意に思い出した。とんと思い出すこともなかったのに、人の記憶というのは不思議だ。久しぶりに迅がこんなに近くに居るからだろうか。
 迅の選択に、迅の進む道に、納得はしている。自分が不満を言えるような立場でもない。
 けれど多分その気持ちに名前をつけるなら、寂しいってやつなんだろうと、あれから二年が経ってようやくその言葉がすとんと自分の中に落ちたのだ。

 ぎぃ、と隣でまた軋んだ音がする。目線を向ければ、迅がまた軽くブランコを漕いだようだった。しかし子どものようにそのまま何度も漕いで遊ぶようなつもりはないらしく、そうした後鎖を掴んだままぐっと体重を後ろにやって迅は空を見上げるようにした。それを見て、なんとなく太刀川も真似してみる。体を傾けて、それを腕の力で支えながら、首を逸らして夜空を見上げた。雲一つない空だ。星がちりばめられた夜空の真ん中で、丸い月が煌々と光っている。
「おー、満月」
 そう言うと、迅が横で満足げにゆるりと口角を上げた。「いやー、見事なまでにまん丸だねえ」なんてのんびりとした口調で言う。迅の長い前髪がさらりと後ろに流れる。そうして少しの間そのままの姿勢でいると、迅が小さく息を吸ってから口を開いた。
「月がさ」
 夜の縁に、ゆっくりと落ちるような声音だった。太刀川が目線だけで迅を見る。よ、と迅が小さく言ってから体勢をまっすぐに戻した。そうして顔を太刀川の方に向ける。
「いやにきれいだったから、ちょっと出たくなったんだよね」
 逆光気味で薄く影の落ちた迅の青い目は、じっと太刀川を見ている。月でも、夜空でもなく、太刀川だけが迅の瞳の中にいる。
 かつての迅の瞳にみた熱さを、あれ以来太刀川はみていない。迅が変わってしまったなんてことは思わないが、かつてのように迅の心の内側までをみつけられたような、あんな感覚はとんと遠いものになっていた。
 けれどなんだか、懐かしさを感じた。あの感覚にはまだ遠い。けれどその片鱗が、ちらりと太刀川の肌の表面をなぞって焦がすような。
 太刀川も体勢を戻す。また鎖がぎ、と小さく軋む音を立てたが構うこともなかった。太刀川の目の前、視界の真ん中にまっすぐになった迅がいる。
 太刀川が何か返事をするより先に迅が再び口を開いた。まるで太刀川が何か言おうとするのを牽制するかのような仕草にも思えた。
「じゃ、おれはそろそろ帰ろうかな」
 そう言ってブランコから立ち上がった迅の横顔には先程のような色はもう消えていた。見間違いだったかと一瞬思うが、しかしあれはきっと見間違いなどではないと自分の直感が教えてくる。大の男の体重から急に解放されたブランコが小さな音を立てながら揺れた。
「もう散歩とやらはいいのか?」
「うん」
 太刀川の言葉に迅はあっさりとそう頷く。迅が立ち上がったので一人だけブランコに座っているのもあれだなと思い太刀川も立ち上がった。二つ並んだブランコが、主を失って虚空でゆらゆらと揺れている。
「じゃあね太刀川さん、おやすみ」
 ポケットに手を入れて、軽い口調でそう言って歩き出す迅に太刀川も「おう」と返す。
 そうしてから、少しだけ考えて、太刀川は再び口を開いた。
「またな、迅」
 そんな言葉を選んでやると、迅は足を止めてこちらを振り返った。そうしてひとつ瞬きをした後、その口がまた言葉を紡ぐ。
「……うん。またね、太刀川さん」
 その目に、小さく光が灯ったように見えたのは。
 月が明るいからか、迅の目が光ったのか、少し遠くなった距離からは分からなかった。

 迅が帰ったので、太刀川もここに留まる理由はない。帰るか、と思ったところで小さく欠伸が出た。もう夜中だ。帰って寝よう。大学はまだ夏休みだからゆっくり寝ていても問題ない。大学生の夏休みとは長いのだ。
 そういえば、と、歩きながら思い出す。
(見つかっちゃった、とか言ってたけど)
 わざとらしい棒読みだ。迅らしくもないくらいの。
 ――あいつ、視えてたんじゃねーの。
 そう思い至って、しかしそれを避けなかった迅のことを思った。S級になった直後なんかは、わざとだろうと確信するくらいに俺のこと避けまくってたくせに。
 迅の心の中のことはわからない。昔だって、全部を分かっていたわけじゃないし、太刀川よりずっと複雑らしい迅の心の機微は太刀川にとってなかなか理解しづらい部分も多い。
 けれど。
(しょーがないやつ)
 そう心の中で呟く自分をひどく懐かしく思って、それをどうにも嫌なんてなにひとつ思えないのだ。





(2021年12月23日初出)


お題「月」




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