恒星



 ローテーブルの上に置いていたボーダー支給の携帯端末が小さく震える。表示されたのはもはや見慣れすぎた名前だ。ちょうど先程お風呂から上がったところだったから丁度良かった、と思いながら迅はそれを手にとって耳に当てる。
「もしもし? おつかれ、太刀川さん」
 そう言うと、端末の向こうからはこれまた聞き慣れた、そして久しぶりに聞く迅の好きな声が届く。この端末の向こうはずっとずっと遠く、「こちらの世界」ですらない場所だ。
『おつかれ、迅。久しぶり』
「久しぶりだねえ。どうだった? 遠征は」
『おお、面白かったぞ。やっぱ近界むこうのトリオン技術もさらに進んでるな、見たことないトリガーが色々あった。まあそのあたりはまたとりまとめて報告が行くと思うが』
「へぇ、それは楽しみ」
『誰とも戦えなかったのは物足りなかったけどな』
「またそういうこと言う。今回の遠征は同盟国との情報交換メインなんだから」
 呆れ半分の迅の言葉に、太刀川は気にした風もなくなっはっはと笑い飛ばす。ほんとどんな時でも変わらないよなこの人は、と呆れたような、そんなところこそを好ましく思うような、そんな気持ちに改めてさせられた。
 端末を耳に当てたまま、迅は寝室のドアを開ける。リビングの電気を消してからその入れ替わりのように寝室の電気を点けようとして、しかし今日はいやに月が明るくてその光が差し込む部屋の中も夜にしては薄明るい。どうせあとは寝るだけだしいいか、と思って迅は電気を点けずに寝室のドアを閉めた。
『予定通り、明日の夜に戻る』
「うん。了解」
 言いながら、迅はぼすんとベッドに寝転がる。カーテンを開けたままの窓の外で月が煌々と光っているのをなんとなく眺めながら、太刀川の声を聞いていた。よく「同じ空の下」なんて言うが、太刀川が今いるのは、空の月も星も、世界の仕組みから全く違う世界だ。事前の計画によれば今頃は最後の予定地を出立して、玄界こちらに向けて星の間を航行しているところだろう。
 かつて玄界のトリオン技術では、近界に旅立った遠征艇と通信をするにはある程度大がかりな機器やシステム構築が必要だった。だから近界にいる遠征艇と通信が出来るのは基本的に本部のみで、普通のスマートフォンのように個人同士の通信をすることはできなかった。しかしいくつかの近界の国々と同盟を結びトリオン技術を学ぶ機会が増えたこと、そしてボーダーとしても独自の技術解析・開発を進めていった結果、今ではこうして近界と玄界の間でもボーダー支給のトリオン製の端末同士、かつある程度向こうとの距離が近い状態であればこうして個人間でも気軽に通信を行えるようになった。ほんの数年前からの技術の進歩を思うと、ボーダーの技術開発室は流石である。
 とはいえ付き合いたての恋人同士でもなし、手段はあるにしてもそんなに頻繁に連絡をとりあうようなこともなく――そもそも自分たちは、付き合いたての頃だってそんなに頻繁に連絡をとるようなことはしていなかった――、なんなら三週間ちょっと前に太刀川が今回の遠征のリーダーとして旅立ってから、迅のもとに個人的な連絡がきたのは今日が初めてだ。それを別に寂しいとも思わない。
 なぜなら迅だって、この三週間ちょっと、特に太刀川のことを思い出してどうしても声が聞きたいなんて思うようなこともなかったのだ。太刀川だってそういうことなのだろう。
 薄情に思われるかもしれないが、便りがないのが何よりの便りとでも言うべきか――正確には、遠征は予定通り進んでいるという定時通信が遠征艇から問題なく入っているということは聞いていたので便りが無いというのは語弊があるかもしれないが、とにかく特に、個人的なやりとりがなくたって何の問題もなかった。太刀川がしっかり自分の仕事を全うしているのならば、自分だってこちらで自分の仕事をきっちりやっていくというだけだ。そうして日々をこなしていたら太刀川のことをやたら思い出してしまうような時間も、寂しいなんて思うような心の隙間もなかったのである。
 太刀川もきっとそうで、ようやくあとは帰るだけとなった頃に、ようやくふと迅のことを思い出したから気まぐれに声を聞きたくなったなんていうところだろう。
 だけど。
 いざ久しぶりに声を聞くと、嬉しいような愛しいようなそんな気持ちが思い起こされるみたいにじわりと迅の中に湧き起こる。今までほとんど思い出さなかったくせに現金だと思われるかもしれないが、人間っていうのはきっとそういうものだ。
 太刀川とのその距離感が迅にとっては心地良かった。自分たちはそれでいい、それがいいのだと思う。
『迅』
「んー?」
 ベッドに寝転がってリラックスしているせいもあってか、妙に間延びした声になってしまった。ボーダー支給端末だから恐らくやろうと思えばできるだろうとはいえ、基本的には個人間の通信が本部に傍受されるようなこともない。だからまあ太刀川さんしか聞いてないんだからいいか、と思う。機会越しだから生の声とは少し違うとはいえ、久しぶりに耳を揺らす太刀川の低い声が心地が良かった。
『帰ったら商店街の肉屋のコロッケが食べたい』
 太刀川の言葉に迅は、ぶは、とつい声に出して笑ってしまう。
「あー、明日の夕飯のリクエスト?」
『そう。俺が帰る時間だとギリ閉店時間に間に合わないだろ』
 そう真面目くさって言う太刀川が妙に面白く思えて、迅は見られていないのをいいことに表情を緩ませた。確かに、遠征艇の帰還予定時間、そしてその後の簡易検査や報告などの時間を加味すると、終わる頃には商店街のお肉屋さんは閉まってしまっているだろう。
「りょーかい、わかった。買っておくよ」
 迅が言うと、端末の向こうで太刀川が嬉しそうに『おっしゃ』と言う。もう二十代も後半にさしかかっているというのに、こういうところは無邪気な少年のようなままだ。そんな太刀川をかわいい人なんだよなあ、と内心で思う。
『遠征艇のメシも悪くないけどやっぱあそこのコロッケが一番うまいんだよなー』
「そうね。あのサクサク感とジューシーさはなかなか真似できるもんじゃない」
『だよな』
 そんなやりとりを交わしながら、明日ラストの揚げたての時間狙って行こうかな、と考える。明日はそこまで残業になることもないだろうから、ちょうどいい時間にぴったり間に合わせられるはずだ。それにいつもより少し多めに買っておこうか、もし余ったら翌日のおかずにでもすればいい。そんなことを考える自分がいつまで経っても面白い。献身的なつもりはない。ただただ、あの人の喜ぶ顔が好きだという自分のための、自己満足のようなものだ。
『あー明日久々にあそこのコロッケ食えると思ったらすげー楽しみになってきた。早く着かねーかな』
 うきうきとした声色で言う太刀川を少しからかってみたくなって、「えー、帰る楽しみコロッケだけ? 別にいいけど」なんてわざとらしく言ってみせる。そうすると太刀川はくっと小さく笑って、『なんだよ拗ねてんのか? おまえに久々に会えるのも楽しみだって』と言うから「取って付けた感じだな~。まあ、それはどーも」と返してみせる。
 太刀川が機嫌良く笑う声が、静かで明るい夜の中で迅の鼓膜をさらさらと揺らすのを心地良く思ってゆっくりと瞬きをする。
『じゃ、そろそろ切るわ。そっちって今夜だよな?』
「うん。おれももーそろそろ寝るとこ」
『そっか。じゃあ、おやすみ、迅。また明日』
「ん、おやすみ。また明日ね、太刀川さん。気を付けて」
 そう言うと、太刀川は『おー』と返事をしてくれる。気負わない、自然体のままのその声を愛しく思って、通信を切った端末をスリープモードに戻してヘッドボードに置いた。
 寝る前にカーテンを閉じようか迷った後、まあいいか、と思って月の薄明るい光が差し込むまま迅は目を閉じる。
 瞼の裏に太刀川の顔が浮かんで、あー早く会いたくなっちゃったな、なんて思う自分はやっぱり現金だ。それを自分でもおかしく思って、迅は小さく笑うのだった。




(2021年12月25日初出)





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