てざわりと白の街
昼過ぎから降り出した雪はしんしんと、しかし着実にその勢いを増していた。景色がじわじわと白に染まっていく。薄く積もり始めた雪を踏みしめて迅にとってはあまり来慣れていない道を進んでいくと、真新しい白い校舎が見えてくる。その手前、門の所に寄りかかっている濃いグレーの傘と長身のシルエットを見つけて、迅はほんのわずか口角を緩めた。さくさくと足音を立てながら近付いていくと、彼の特徴的な瞳がゆっくりと動いてこちらを見る。そして迅の姿を認めると、あたたかそうなマフラーを巻いた彼は迅とは対照的にむっと不機嫌そうに唇を尖らせた。
「やー太刀川さん。お待たせ」
太刀川の目の前に辿り着いた迅が軽い調子で言うと、太刀川が寄りかかっていた門から背中を離す。その拍子にぱさぱさと小さな音を立てて太刀川の傘の上にうっすらと積もっていた雪が地面に落ちていった。
「遅い。寒い」
「ごめんって」
「すぐ来るっつーから外で待ってたのに。あー、もうちょっと中にいりゃよかった」
そう言う太刀川の鼻の頭がうっすらと赤い。寒そうなのは申し訳ないけれど、その様子がなんだかいやにかわいく思えてしまって自分に呆れた。思ったより待たせちゃったかな、と申し訳なくなりつつ、しかしこんな風に太刀川がこの寒い中我慢して迅を待ってくれていたということ自体に妙にむずむずとした愛しさのようなものを覚えてしまうのだ。タチが悪いな、とは自分でも思う。
「まーいいや。早く帰ろうぜ、寒いし」
そんなことを迅が考えているうちに、太刀川は不機嫌そうな表情をやめてあっさりとそんなことを言う。そういうところがまた太刀川らしくて好ましく思った。「うん」と迅が頷くとすぐに太刀川が歩き出す。寒いせいで大きな体を少しだけ縮こまらせている様子が少し面白くて、しかし自分だって似たようなものだろう。なんといっても今日は、寒い。雪が降っているのだから当然といえば当然なのだが。まだ夕方と言える時間帯なのに太陽はもう落ちかけていて、歩道沿いにきれいに配置された街灯とお店や住宅の明かり、そして積もり始めた雪が薄暗闇を淡く照らす。
迅の今日の防衛任務の担当が太刀川の大学の方面だったから、じゃあ終わったら待ち合わせよう、という話になった。大学にはセキュリティ的な問題で基本的に部外者は入ってはいけないことになっている――もし進学していたら大学生だっただろう年齢の迅が紛れて潜り込むことは実際は容易いだろうが――から、迅が着くくらいの時間に太刀川が校門で待っていることになった。こういうときのいつものパターンだ。
問題なく防衛任務を終えて連絡を入れて、そのまままっすぐ向かったのは本当だ。しかしその頃にはもう雪がしっかりと降り始めていて、道が歩きづらかったこと、道路が渋滞して横断歩道などで何度か足止めを食らったせいで想定より時間がかかったのだった。
道は相変わらず歩きづらくて、すぐ横の道路は徐行運転の車で渋滞している。滑って転ばないように気を付けながら、普段より少しだけ遅めの速度で並んで歩く。細く吐き出した息は白い。生身の体を足先から芯まで冷やしてくるような空気の冷たさに、いやあ冬だ、なんて当たり前のことを思って迅はまた体を縮こまらせた。防衛任務の時はトリオン体だから寒かろうが関係がなかったけれど、生身に戻るとびっくりするほど寒い。
それでも迅が今わざわざ生身に戻っているのは、前にもこんな風に寒い日にトリオン体で居たら太刀川にさんざん「トリオン体はずるい」なんて言われたこと、今はいつもの「ボーダーの実力派エリートの迅」ではなくプライベートの、ひとりの「迅悠一」としての時間だからあえてあのジャケットでボーダーとして目立つのは避けようなんて気持ちになったこと。そしてあえて生身で太刀川と同じ温度、同じ感覚を共有することも悪くないなんてことを思ってしまったからだ。
いや、しかしこんなに寒いなんて思っていなかったけれど。やっぱりトリオン体の方がよかったかな、という気持ちがわずかに頭をもたげる。それを実行すれば太刀川にはまた呆れた顔をされてしまうだろうが。
「あー、さむ」
「寒いね」
けれど太刀川のこぼした言葉に、そう心から共感できる、今を共有できていることが、やっぱりなんだか悪くなかったりするのだ。そんな自分がどうにも面白い。
「寒いからなんかあったかいもん食べたい。鍋とか」
太刀川のその言葉を受けて、迅も脳裏にあったかい鍋を思い浮かべる。ぐつぐつと湯気を立てるお鍋に、想像だけでぐっとお腹が減ってしまった。今日の夕飯はまだ何も決めていない。冷蔵庫に食材もあまりもうないのだと太刀川が言っていたから、帰りがけにスーパーに寄って夕飯とその他諸々数日分の太刀川の食料を買っていくつもりだった。
「お、いいね。何鍋にする?」
迅が同意すると、太刀川がさすが迅、と言わんばかりににまりと笑う。
「何鍋でもいーぞ」
「こだわりないなー。まあおれも別に何でもいいんだけど」
「じゃ目についたやつてきとーに買うか」
「りょーかい。いやー、コタツで鍋、冬の醍醐味って感じ」
太刀川の部屋にはコタツがある。迅もこの冬既に何度もお世話になっていた。太刀川も迅の言葉に「確かに」と頷く。寒いのは好きではないけれど、しかしこの寒い日だからこそコタツのあったかさも鍋の美味しさもより一層沁みるのも知っていた。
そんな話をしながらゆっくりと雪を踏みしめて歩く。赤信号にぶつかって立ち止まると足音が止んで、ついでに会話もなんとなく途切れた。ふたつ分の傘の間に静かな時間が流れる。
迅は歩道と道路を分ける植え込みの葉にしんしんと雪が積もっていくのを眺めながら、鍋やるんだったらスーパーで買うものは、と脳内でリストアップする。太刀川の家でコタツに鍋、と思うと楽しみでどこかそわそわと少しだけ浮き足立っている自分がいて、自分は意外と単純なところもあるらしいと笑えてしまった。そう思えば楽しさに混じってほんのわずか悔しいような思いもあるけれど、でもそう言ったなら太刀川には「人生楽しい方がいーだろ」なんて返されてしまうだろうか。
ちらりと視線だけを動かして太刀川の方を見る。するとほとんど同時に、太刀川の瞳も迅の方を見た。
視線が絡む。言葉はなく、二人の間に小さな雪の粒が舞っていく。
買い物をして帰って、コタツに入って、鍋を食べて、それから。もっとあったかくなること。
今日はすごく寒い。寒いからこそ余計に、この人の高い体温を思い出せば触れたいという気持ちがじわりと燻る。
ああ、やだな、と思う。さっきまで全然平気だったのに、思い出してしまえば急に欲が頭をもたげる。その手に、肌に、触ってみたいなんて初めて触れたときからずっと新鮮に止まない欲求が迅の内側を駆けていく。ここはまだ外で、しかも人通りもそこそこあるから今すぐになんて無理なのだけれど。
「迅」
太刀川に名前を呼ばれる。その深い色をした格子の瞳が、じっと迅を見つめていた。わずかに目を細めて、いつもと変わらない温度の声で太刀川が言う。
「腹減ってるから、先食ってからな」
少しだけ声のトーンを落としたのは、周囲に人がいるからだろう。太刀川の言葉に迅はぱちくりと目を瞬かせてから、はあ、と観念したように息を吐いた。
「……ずるいよなあ」
そう言うと太刀川が「何がだよ」と唇を尖らせる。
「寒いからって、譲らないからな。腹が減っては……ほら、なんちゃらかんちゃらだとか言うだろ」
「覚え方適当だなあ。分かってるよ、おれだってお腹空いてるし」
「だろ? まずは飯」
迅の返答に、満足そうに太刀川が言う。そんな話をしている間に信号が青に変わって、また雪の道を歩き始める。横断歩道は何度も人が歩いたせいで、雪は半分溶けて水のようになっていた。
目が合っただけで、バレてて、分かられて、そのうえでそんなことを言う。それが気恥ずかしくて仕方ないのに、でも嬉しいなんて思ってしまう自分がなにより恥ずかしかったりなんてするのだ。