リボンを解くのは、
ジャケットまで羽織って「どうだ?」とこちらを振り返ったその姿が、あまりに絵になっていて一瞬返事が遅れたのがどこか悔しい。そんな気持ちを隠すように迅が軽く目を細めながら「うん、いいんじゃない?」と言うと太刀川は満足げな表情になってもう一度鏡の方を見る。
「スーツとか成人式以来だなー。ネクタイの巻き方とか忘れかけてて焦った」
そう言う太刀川を見る迅もまたスーツ姿だ。普段は動きやすいジャージや、そもそもトリオン体で過ごすことが多いので、こういうかっちりとした格好はなかなか慣れなくて少し動きづらく感じる。迅が感じるその慣れなさに対して、太刀川自身はどう感じているかは分からないがこちらから見る太刀川はスーツ姿もしっかり様になっていて、それもまた少し悔しいような気持ちと格好良いんだよなぁと素直に見惚れてしまいそうになる気持ちが混在している。ずるいなあこの人、ほんとこういうとこ、なんて心の中で呟く。普段はぼんやりしているくせに、こういう格好も似合うのだからずるい。この人を好きになってから、何度こういう気持ちにさせられただろう。
今日はボーダーのスポンサーのご厚意での、ちょっとした立食パーティだ。日頃のボーダーの活躍への慰労会、ということらしい。といっても今日も防衛を休むわけにもいかないので、防衛任務は通常通り回しつつ、行ける隊員は行けるタイミングで行くというスタイルとなっている。そのために時間も長めにとられていて、途中参加途中退出も自由だ。迅と太刀川はたまたま今日は防衛任務が無かったので、最初から参加することになった。
ちょっといいホテルでのパーティとあって、一応ドレスコードもある。ということでのこのスーツ姿だ。
「なんかうまいもんあるかなー」
びしっとしたスーツ姿に反して、太刀川はのんびりとした声音でそんなことを言う。「そうだねえ。なんか色々オシャレな感じの食べ物がありそうだけど」と未来視でなんとなく視えた様子を伝えると、「お、楽しみだな」と太刀川が鼻歌でも歌い出しそうに上機嫌な様子になる。そんな太刀川の背中を、迅はじっと見つめていた。普段はなかなか食べる機会も無いようなオシャレな食事も楽しみといえば楽しみだけれど、今は、おれはそれよりも。
鏡を見ながらネクタイの位置を直していた太刀川が再び迅の方を振り返る。視線が絡んで、どきりと自分らしくもなく心臓が小さく跳ねた。普段よりもぐっと大人びた印象を与えるスーツ姿、きっちりと締められたネクタイ、ジャケットから覗く手首も、何もかもが――。
そんな迅を見て、太刀川が一度瞬きをした後何かに気付いたようにふっと悪戯っぽく目を細めて言う。
「おまえ今、やらしいこと考えてたろ」
図星で思わず迅が唇を引き結ぶと、満足げな表情になった太刀川に「わかるぞ」なんて言われてにやにやと笑われてしまった。見透かされていた恥ずかしさと、分かられている嬉しさが同時に胸中に湧き起こる。
太刀川がつかつかと歩いてきて、距離が近くなる。ほとんど変わらなくなった身長、真正面から瞳を覗き込まれるようにして格子の目が迅を見つめる。
「いいぞ、終わってからなら。好きにしろ」
しかし分かった上でそんなことをさらりと言ってのけるのだから、この人には困る、と迅は小さく息を吐いた。
「好きにしろとか簡単に言っちゃうから、太刀川さんってひどいよね」
胸の内で渦巻くこの自分でも手懐けるのに苦労する感情のことを、それがどれほど厄介かまでを、太刀川はちゃんと理解しているのだろうか。そんな気持ちを込めて言うと、太刀川は「なんだよ」唇を尖らせた。その後に、太刀川は迅をまっすぐに見て口を開いた。
「その代わり、俺も好きにさせてもらうからな」
そう不敵に笑う太刀川の目の奥に、確かな欲の色を見て取って、瞬間ぶわりと全身を駆けたのは期待と生来の負けん気だった。
本当にこの人は、おれを煽るのが上手いな、と思う。そんな気持ちが表情に出ていたのか、迅を見た太刀川が楽しげに口角を上げた。
きっちりと着込んだこの隙の無い姿に触れる、唯一の権利を貰っている。ひとつひとつを解いて、触れて、好きにしていいと言われている。そう思えば、直截な欲だけではなくたまらない高揚と優越感が心を満たす。
そしてそれは、迅にとっての太刀川も同じことだった。
この人になら、好きにされて構わない。おれだって同じくらい好きにさせてもらうから。それを互いに了解している。
「楽しみにしてる」
明確な意思を持って、太刀川の中に火を灯すように見つめ返してそう言うと、太刀川が満足げに笑う。その手が不意に迅の頬に触れて、その温かさを感じていたら唇が触れた。
「今はここまでな。俺だってうまいもんは食いたいし」
太刀川の言葉に、迅は小さく笑う。「そうだね」と返して、この後にまた好きなだけ触れられると知っていても離れていく手の温度をほんの少しだけ惜しく思ってしまった。