焦熱



 渡り廊下に出ると、まだまだ居座っている冬の寒さに太刀川は思わず体を縮こまらせた。教室だってさほど暖かくはないが、直接風が当たらない分外よりは幾分マシだと気付かされる。次の授業は地学で、別の棟にある地学室に行かなければいけない。ろくに開いた記憶もない教科書とノートを手に、のろのろと渡り廊下を歩く。
「寒いなー」
 そう言うと、隣から「そうだねえ」と返ってくる。彼女――少し前に告白をされ、付き合うことになった同じクラスの子だ――も寒そうに体を縮こまらせている。制服の上から着たカーディガンに手を半分以上隠して、少しでも外気に触れる面積を減らそうとしているようだった。
 ふと、遠目に校庭からぞろぞろと帰ってくる集団を見かけた。体育の授業終わりらしい。ジャージの色的に一年生だろう。ぼんやりとそちらを見ていると、見覚えのある顔を見付けて太刀川の意識はそちらに強く向いた。
 迅と、その隣には嵐山がいる。どうやらあれは迅たちのクラスらしい。
 久しぶりに見たな、あいつの顔。そう思っていると、不意に迅が視線を動かす。一瞬迅がこちらを見て――太刀川に気付いたらしい瞬間、すぐにふいと視線を逸らされた。
 そうして何事もなかったかのように、なんてことなかったかのような顔でそれまで通り嵐山をはじめとするクラスメイトたちとの談笑に戻る迅を見て、ぐっと腹の奥でモヤモヤとした感情が浮かぶ。
 なんだよあいつ、と悪態をつきたいような気持ちになって、しかしぶつけることもできなくて、太刀川は唇を引き結ぶことしかできない。
 迅がS級になってランク戦を離れたのは数ヶ月前、まだ季節は秋になったばかりの頃だった。
 迅とランク戦で競い合っていた日々がぱたりと途切れ、しかもそれだけではなく迅は急に太刀川を避け始めるようになった。迅と全然会うことがなくなったのは、最初は迅がランク戦を抜けたことでお互いのタイミングが合わなくなったせいかと思った。しかし同じ組織に所属していて、同じ高校に通っていて、これだけ急に顔を合わせることすらなくなったとなればいくらなんでも流石に気付く。迅が意図的に太刀川を避けているのだろう、ということくらい。
 単純に太刀川を嫌って避けているということではないだろう、とは思う。そのくらいは長くはないものの重ねてきた時間で信頼し合ってきたつもりだし、たまに定例の会議などで必ず顔を合わせることになるタイミングでもそういう敵意を感じることはないからだ。まああいつは頑固だし、一人で色々考えて動いているタイプだから、迅なりの意思や思うところがあるのだろうと思っていた。
 ただ、そうは思っても、それで心から納得して自分の中で整理がつくかといえばまた別の話だ。
「太刀川くん?」
 名前を呼ばれてはっとする。いつの間にか少し先を歩いていた彼女が、考え事をしていて歩みが遅くなった太刀川を振り返って待っていた。
「おわ、悪い」
 そう言って太刀川は早足で歩いて彼女に追いつく。「どうかした?」と聞かれたので「あー……、なんでもない」と返す。
 言いながら、本当はなんでもないなんてことないくせに、と自分で思う。
 迅と時間も忘れてランク戦をしていた日々が急になくなってから、自分でもうまくまとまりきらない感情が自分の内側にずっとある。モヤモヤとしたものが、ずっとうっすらと腹の中で渦巻いている。普段は忘れて楽しく過ごしていても、ランク戦ブースに行ったときとか、こんな風に稀に迅を見かけた時とかにふっと思い出して太刀川の心を揺らす。こんな風な感情は今まで太刀川は経験したことがなかったので、どうすればいいのか、分からないままだ。あの日から数ヶ月、今に至るまでずっと。
 迅と戦うのが楽しかった。迅と過ごす時間が楽しかった。知っていたはずなのに、それが自分の中でどうやら結構、思っていたよりも大きいものだったらしいと、手の中から消えてようやく気付かされ始めていた。
 渡り廊下の終わりが近付いて、地学室のある特別教室棟に入る直前、もう一度ちらりと横目で先程の場所に目を向ける。迅たちはまだ、変わらぬ様子で談笑しながら昇降口に向かってのんびりと歩いていた。へらへらと笑っている迅は、こちらを欠片も見ようとする気配がない。
(……こっち見ろよなあ)
 心の中で呟いてから、太刀川もふいと目を背けた。正面にある扉から特別教室棟に入ると、体感温度が少し上がった気がする。やはり建物の中は暖かい。
 建物の中に入ってしまったのでもう迅の姿は見ようとしても見えない。
 けれど、あの青い目が――太刀川を射抜くように燃える、あの太刀川が一等好きだった瞳が、こちらを見ようとしないこと。それになんとも言いがたい感情が太刀川の内側を巡って燻って、今もまだ消えてはくれなかった。




(2022年2月20日初出)







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