nanosecond.



 カタン、と玄関から物音がして揺蕩いかけていた意識が浮上する。なんだ、と思っているとぱちんと廊下の照明のスイッチを入れる音。もう部屋の電気は落としているから、歩くには暗かったのだろう。
 太刀川のこのひとり暮らしの部屋の合鍵を持っているのは実家の母親と、あともう一人しかいない。母親であれば来るときに事前に連絡してくるだろうしそもそもこんな遅い時間に来ることもない。あともう一人は――
「あれ、……起こしちゃった?」
 居室のドアを静かに開けて言う迅の顔が、廊下のオレンジがかった照明に照らされている。薄暗闇の中で目が合った迅に、太刀川はベッドに寝転がったまま「いや」と返す。
「寝かかってたけど、ギリ起きてた」
「そっか」
 そう言うと迅は廊下の電気を消して、居室の中に入ってくる。部屋の電気をつけなかったのは、寝かかっていた太刀川への気遣いだろうか。しかしまあ、カーテンの隙間から零れる外の光や部屋の隅にある電子機器の小さな明かりで、目が慣れさえすれば夜でも意外とある程度視界はある。
 迅がベッドに座ると、かけられた体重分マットレスが傾く。暗い中でも、迅の青い目がじっと太刀川を見ているのがわかる。さすがに暗いから、目の色までははっきり見えるわけじゃないけれど。
「……悪いけど、今日はできそうにないぞ。眠くて」
 言ったそばから、くぁ、とあくびが零れる。こちらに顔を向けたまま、迅が喉を鳴らして笑う気配がした。
「いーよ。なんとなくさ、顔見たかっただけだから」
 どこか楽しげな迅の声を聞きながら、つーかこの暗さで顔は果たしてちゃんと見えるんだろうか、なんてことを少し考えてしまった。こちらはこの暗さに既に目が慣れたのでうっすら見えはするが、まあ、声色や雰囲気である程度互いが今どんな顔をしているかなんて想像がつくだろうとも思う。
 迅の手が小さく動いて、ベッドの上に投げ出されていた太刀川の手に軽くぶつかる。と思えば、その手はすぐに太刀川の手のひらに覆い被さった。
 迅の体温がじわりと手のひらから伝わる。太刀川よりもすこし低い――迅はさっきまで外にいたから余計にそうなのかもしれない――迅の温度。手のひらの柔らかさ。戯れのように指を絡ませて軽く握ってくる。
 それだけで今夜は満足なのかそのまましばらくそうしていた迅に、太刀川はおもむろにその手をぐっと引き寄せてやる。油断していたのか「うわ」と声を上げてあっさりと太刀川の上に倒れ込んできた迅を見て、太刀川はくつくつと笑う。
「あぶないって。……今太刀川さんがどんな顔してるか見なくてもわかる」
「油断してたな~迅」
 言ったあと、こちらを見た迅と再び目が合う。近くなった距離、その分迅の顔がさっきよりもよく見える。太刀川の突然の行動に呆れたような、それでも、どこか楽しそうな顔。やっぱり、思ったとおりだ。
「泊まってくんだろ?」
 そう聞いてから、体を動かしてもう一人分のスペースを空けてやる。といっても、そもそもが普通のシングルベッドだから二人で使うにはぎちぎちだ。だけど、この広さがあればどうにかいける、というのはこれまでの経験値から自分たちは知っている。一応、客用の布団は別にあるけれど、自分たちの間で――関係性がただの「友人」「ライバル」だった頃ならいざ知らず、今となってはその布団をわざわざ使う選択肢は当たり前みたいに無かった。
「……、うん」
 そう言って、上に半分乗っかったままだった迅が開けられたスペースに素直に移動する。
「ああでもその前に、シャワーだけ借りたい」
「りょーかい」
 太刀川の返事を受け取った迅がするりとベッドから抜け出る。離れていった体温、再びひとりになったベッドに、何かが欠けたようなしっくりこないような気持ちにさせられる自分が少し面白かった。
 絆されてる、ってこういうことなんだろうな、なんて思いながら太刀川はゆっくりと瞬きをする。「またあとでね」と言って再び廊下の電気をつけた迅の青い目が、淡くひかって太刀川を見つめた。



(2022年4月17日初出)







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