Strawberry Morning
焼きたてのトーストにかぶりつくと、さく、と小気味良い音と共に甘いいちごジャムの味ともっちりとした食パンの味わいが口の中に広がる。空きっ腹にその味がじわりと染みて、胃の中に食べものが入れば体がようやく目覚め始めるような心地になった。
隣でも、ジャムを塗り終わった太刀川がトーストをかじって口元を緩ませている。その横顔がなんだか普段よりいやに柔らかいように見えたのは、まだどこか自分が昨日の余韻を引きずっているからかもしれない――なんて思って、しかしその思いつきを深追いすると墓穴を掘りそうな気がして、迅は気を逸らすようにマグカップを手にとって湯気の立つコーヒーをぐいと喉の奥に流し込んだ。
カーテンを開いた窓の外から差し込む日差しはあたたかくて、春らしい穏やかさだ。今日は少し暑いくらいになりそうだ。今朝だってもう冬物の掛け布団が暑く感じてしまったから、いい加減に布団も春物に入れ替えようよ、と太刀川に言っておいてもいいかもしれない。
太刀川とこんな風にふたりで朝を迎えるような関係性になってから、気付けば季節がひとつ移り変わろうとしていた。
流石に初めての朝ほどの気恥ずかしさは今はもう薄らいだけれど、たまにふとこの状況を俯瞰してやっぱりどこかそわそわと落ち着かないような気持ちになることもある。
だってこの人とこんな関係になるなんて――夢にも思わなかった、というわけじゃない。だっておれはずっと、この人が好きだったから。自覚しないように必死だったけれど本当はきっと、まだ互いに高校生だった頃から、この人に惹かれていた。特別になりたかった。触れてみたかった。そうしたらこの人はどんな顔をするのか、どんな反応をするのか知りたかった。けれどそんな思いを押し込めてきた期間が長すぎて、この人と戦って、くだらない話をして、そんな延長線上に甘やかな触れ合いやこうしたむずがゆいような時間があることに時折どうにも不思議な気持ちにもなるのだ。
あっという間に残り一口になったトーストをぱくりと口の中に放る。トーストの上にたっぷり乗せたいちごジャムの甘さを咀嚼して飲み込んだ後、もう一口啜ったコーヒーの苦さがジャムの甘さの余韻と混ざり合って心地良い味わいが口の中で溶けていった。
元はトーストにはマーガリン派だという太刀川の部屋のキッチンにいちごジャムが置かれるようになったのは、初めての朝の後からだ。何気ない会話の中で普段迅がトーストにはジャム派だと言ったら、太刀川が「じゃあ次の時までに買っとく」――なんて言って、本当にその次に太刀川の部屋に訪れた時にはしっかりキッチンにはジャムが用意されていたのだった。「ちゃんと買っといたぞ」、なんて太刀川のにやにやとしたどや顔付きで。
キッチンに置かれるようになったジャム。いつからか用意されるようになったダークグレーのスウェット。気付けば迅専用のようになったマグカップ。洗面台にしれっと置かれっぱなしになった二本目の歯ブラシ。
太刀川とこういう関係になってから、少しずつ太刀川の部屋が変わっていくのに気付いていた。迅によって。それに気付く度、気恥ずかしくて仕方ないような、だというのに嬉しくて独占欲のようなものが満たされてしまうような、そんな心地になる。
恋をしている、と、気付かされる。この人に。
「おまえのこと好きみたいなんだよな」、と唐突にあの冬の夜に太刀川に言われた時、「……おれもどうも好きみたいなんだよね、たぶん」と返したのはあの時の自分の精一杯の返事だった。ずっと目を逸らし続けてきた自分の中の感情、それに向き合うには太刀川に投げられた言葉はあまりに直球で、けれど嘘を言うのもいやだと思ってしまって、咄嗟に口から出せたのはそんな言葉だった。
けれどもう、たぶん、なんて言葉じゃ誤魔化しきれないと分かっていた。
時間を重ねる度、触れる度、そうしてこの人を知っていく度、自分の中の感情も知っていく。気付かされていく。自分がいかに、どうしようもないほど、この人のすべてに惹かれて仕方ないか。悔しいくらい、この人のことが好きだ。
昨日だって、太刀川の部屋に入って玄関先で唇を触れ合わせてしまえば止まれなくて、そのままベッドに雪崩れ込むようにして性急に求めてしまった。少しの間、色々とバタバタしていてなかなか太刀川とこうした時間を作れていなかったということもあって、昨日は何度もしてしまった――朝起きてまず感じた空腹感も、昨夜運動をしすぎたからかもしれない、なんて思い至ってしまえば、耳が赤くならないようにするのに苦心する羽目になってしまった。
というか、正直まだ少しお腹が空いている。トーストをもう一切れなり、まだ何かちょっと食べられそうなものはあるだろうかと思って、聞いてみようかと隣の家主の方に目を向けた。「太刀川さん」と呼べば、太刀川の顔がこちらを向く。
――と。
ふは、と迅は思わず吹き出してしまった。太刀川は何のことか分からないようで、ぱちくりと目を瞬かせている。そんな表情がどうも幼く見えて、またなんだかおかしく思えてしまう。
迅は太刀川の口元を指差して、気付いていない様子の太刀川に指摘してやる。
「太刀川さん。ついてる、ジャム」
そう言えば、太刀川はその独特の格子の目を軽く見開いた。
「まじか」
「まじ」
言いながら、迅はまたくつくつと小さく笑ってしまった。太刀川の口元には、先ほどまで食べていたトーストにたっぷりと乗せていたいちごジャムが一口分ついている。子どもみたいだ、と思っておかしい。そういえば陽太郎も、最近はマシになったけれどよくジャムなりお菓子のクリームなりを口元につけているなと思い出す。しかし陽太郎は五歳のお子さまで、対して目の前の男は自分より一歳年上の成人男性だ。
きょとんとした様子で口元にジャムをつけている太刀川がどうも可愛く見えてしまって、重症だなと自分でも俯瞰で思う。同じようなシチュエーションでも、陽太郎に感じる可愛い、と太刀川に感じる可愛い、はまた別の種類のものだ。
太刀川が自分の手を口元にやってジャムを拭おうとしたけれど、その指はジャムがついていない方を滑っていく。そんな様子を見て、まだ笑いの余韻の残る迅は太刀川に指摘してやる。
「あーそっちじゃない、逆逆」
「逆?」
言いながら太刀川が逆側に手を持っていこうとして――ふ、と何か思いついたような表情になってその手を下に下ろした。
どうしたの、と迅が言おうと口を開きかけたところで、太刀川がその手を床について距離を詰めてきて、顔を乗り出すように迅に近付いてくる。
「ん」
「……え」
今度はぱちくりと目を瞬かせたのは迅の方だった。何、と思って、一瞬遅れて思考が追いついてくる。そんな迅を見つめて、太刀川がくっと喉を鳴らして悪戯っぽく笑う。この人がこういう笑い方をするときは、大抵、なにやら性質の悪いことを考えているときだ。
「察しの悪いやつだな~」
「……おれが拭えってこと?」
正解、と言って、太刀川が迅の瞳を覗き込むように見つめる。迅が動くのをじっと待つ太刀川を見て、急に甘ったるくなった空気、自分の鼓動が早くなるのを感じた。
絶対面白がってる、と表情で分かる。普段はこっちが拍子抜けするくらいいつも通りなくせして、二人きりの時には時々こんな「恋人」らしいふるまいをあえてすることを太刀川は楽しむような節があった。
(この人、妙に順応性高いんだよな)
考えてみれば、太刀川はそもそも基本的には何事に対しても――勉学のように興味が全く持てないものに対しては別だが――その状況を楽しむ力に長けている人である。だから迅とこういう関係になってから、時々この「恋人」という関係性を積極的に楽しむようなふるまいをすることがあった。……それに対する迅の反応も含めての楽しみ方、なのかもしれないけれど。
挑むように、それでいてわくわくと楽しそうな表情で迅を待つ太刀川を見つめて、対してこんなに動揺させられている自分に少し悔しさを感じてしまう。
そんな悔しさ混じりの気持ちで、しかし太刀川にこんなふうに待たれてしまっては、手を伸ばさないなんて選択肢は迅には無いのだった。
手を伸ばす。太刀川は動かない。迅を待って、されるがままでいる太刀川を見ていれば、なんだか妙に興奮を煽られてしまった。こんな時にすら、この人と刃を合わせて以来この人に勝ちたいと希求するようになった自分の内側の衝動が妙な混同を起こしているようだった。しかしもうこれは仕方ないのだと思う。その感情はもうすっかり、自分の中の一部になってしまっている。
唇の横、頬との間の部分に親指の腹で触れる。見た目よりもずっと柔らかなその感触を指で感じれば、条件反射のように昨日触れた肌の熱さがちらりと頭の隅を掠めてしまった。
そんな気持ちを誤魔化すように、ぐっと指で太刀川の唇の横についたジャムを拭う。拭って、手を離すと、一部始終をじっと見ていた太刀川が満足げににまりと笑って「さんきゅー」と迅に言う。発音がめちゃくちゃ日本語読み。いいんだけど。
いやに楽しそうな太刀川の表情をやっぱり可愛いなんて思ってしまって、それも含めて少しだけ悔しく思った。太刀川のように自分も、太刀川に対してだけ揺れ続けるこの感情を乗りこなすつもりで楽しめば自分ももう少し余裕を持てるのだろうか、と思うけれど、自分にそれが出来る日はまだどうにも遠そうだ。未来視だってそれについては沈黙している。なんだか負けっ放しのようで悔しいのに、でも、それが嫌なだけじゃない自分自身がいることにも本当は気付いていてそれもどうも気恥ずかしかった。
「どういたしまして」
そう返した後、親指に乗ったジャムをどうしようかと一瞬考える。ティッシュで拭うのも味気ないような気がして、どうにでもなれという気持ちになってその手を自分の唇に寄せる。ぱくりと自分の指を口に含むと、目の前の太刀川がおっという表情になって口角を緩ませたけれど、それにはもう構わないことに決めた。
拭ったいちごジャムの甘さを舌先に感じて、先ほどのコーヒーの苦さをまた上書きする。ごくりと飲み込んだジャムの味は、もう一度コーヒーを流し込んでもその後しばらく口の中に残って消えないままのように思えたのだった。