待ち人



 少し強めに容器を押すと、ぶじゅ、とわざとらしいくらいの音がシャワーも止めた静かな浴室に響いた。そのせいか手のひらの上に出されたローションは想定よりも少しばかり多い量になってしまったが、まあ久しぶりだからこのくらいは必要かもなと思い直す。手の上のローションはまだひやりと冷たい。迅にされる時は冷たさが気になったことはなかったから、わざわざ冷たくないように手の上で温めてから太刀川に使っているのだろうというのは自分でも準備をするようになってから今更に気付かされたことだった。あいつ、こーいう妙なところで甲斐甲斐しいんだよな、と太刀川は思う。
 ただ、どうせ自分のことだからと普段の迅の気遣いには倣わずローションを纏った指をすぐに後ろに持っていく。尻のあわいをつつ、となぞるようにして自分では見えない場所を探る。感触の違う箇所を指先で探り当ててゆっくりと滑った指を沈めると、ローションの冷たさと共にほんのわずか挿入しただけでも体が反射的に訴えてくる違和感に太刀川は短く息を吐いた。
 最近してなかったから、すっかり固くなっているのも最初は違和感があるのも仕方ない。なので気にせず、しかし変に性急にして変なところを傷つけたりしない程度に指を動かしていく。ちゃんと解せばここは柔らかくなるということを、何より自分自身だから知っていた。それを教えてきたのは迅だ。それこそ、興奮してばきばきに固くなったあいつの太い――を難なく受け入れられるくらいには。
 あくまで準備であるこの行為で性感を得たいわけじゃない。だから後ろを解す指はあくまで入口を押し拡げるための動きに注力した。世の中、後ろの穴で自慰をするのを愛好するやつもいるらしいというのは知っているし後ろで得る快楽の強さを知ってしまえばまあそれは魅力的に思うやつもいるよな、と太刀川は思うが、しかし後ろでの快楽を知ってなお自分はそれに強い興味は惹かれなかった。
 自分にとって性的な行為というのは単純な性感を得るためだけにしたいと思うものではなかったから。
 一人でするよりもずっと、心も体も、強く充足するものを知ってしまったからだ。
『明日の夜、家行っていい?』と迅から連絡が来たのは昨日の夜のこと。太刀川も防衛任務も他の予定も無かったから二つ返事で了承して、今日に至る。
 あともうしばらくしたら迅がこの部屋に来るだろう。そしてまあ、夜に家に来るということはそういうことだというのはもう言わずとも互いに了解し合っているから、こうして事前にシャワーを浴びて後ろの準備もしている。
 別に迅は、太刀川に準備をしていてほしいと言ったことはない。むしろ準備しておくと「おれがしたかったのに」と耳をほんのり赤くしながら悔しそうな顔をする。正直、その表情も自分の中にいる迅に対する負けず嫌いの部分が満たされるし可愛いと思うのでそれを見たいという部分も無いではないが、先に準備をしておけば事が早いという理由の方が大きい。
 迅に一から体を拓かれるのも嫌いではない。むしろそれも好きではあるのだが、いかんせん迅はそういうところをやたら丁寧にやりたがるしねちっこくて、太刀川が「もういいから早く挿れろ」と言っても「まだだめ」と言ってしつこいくらい入口を解いてくるし下手したら挿入する前に平気で指だけでイかせようとしてくる。
(そのおかげで最近は全然痛くないし、それも気持ちいーけど)
 だけど、その間こちらは焦れて焦れて仕方がないのだ、と太刀川は思う。
 一本目の指を難なく動かせる程度には後ろが解れてきたのを感じて、二本目の指もゆっくりと挿入する。一本だけの時よりずっと強くなった圧迫感にほんのわずか震えそうになった体には構わず、入口を拡げるためにぐにぐにと二本の指を動かしていった。たっぷりと出したローションが手のひらを伝って零れ落ちて、足の間を伝っていく。もう少し太いところ、と思って少し奥へと押し入れた指先が内壁を掠めて、「……ッ!」と息が零れた。
 気持ちよさの欠片がある。このまま性感を得る為の動きに変えて、自分の弱いところを弄れば割と簡単に快楽は得られるだろう。しかしそれをしようとは思わなかった。
 迅によって与えられるから、あの男の指だから、熱だから、俺はそれを欲しいと思うのだ。
 ただの快楽が欲しいわけじゃない。あいつとじゃなきゃ、そこに意味なんて感じられなかった。
 ゆっくりと息を吐いて、吸う。空いている方の腕を浴室の壁につけて体重を少し預けて、体の力を適度に抜けば後ろの頑なさが少し和らいできたのが分かる。
(あんな、早く挿れたいって、待ちきれないって顔しといて)
 太刀川のそこを解して、自分を受け入れて貰うための準備をしている時の迅の表情を思い返せばいつもあいつはそんな顔をしていた。眉根を寄せて、唇を軽く噛みしめて何かを我慢するような顔をして、その青い目の奥にぎらぎらとした獣じみた欲を滲ませておいて、しかしいつだって迅は「太刀川さんに負担かけたくないんだよ」と言って太刀川の体を拓く手つきはいつだってしつこすぎるほど丁寧だ。
 気遣われるのは悪い気はしない。だけど、わかってない、と思う。
 あんな顔を見せられてしまえばこっちだって興奮するに決まっている。早くその熱が欲しかった。早く挿れて、内側をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、迅が与えてくる快楽を叩き込んで欲しかった。それがこんなにも楽しくて気持ちの良いことだって、教えてきたのは迅だっていうのに。
 ベッドの上でのあいつの顔を思い出せば、条件反射のように体が期待するのが分かる。じわりと自分の奥底に熱が灯って、気の早さに自分でも少し呆れて笑いそうになった。しかしこれはまあ、もう少し後のお楽しみだ。
 三本に増やした指はもうだいぶ自由に動かせるようになって、入口は柔らかく解けている。指三本でもあいつの大きさには全然足りないが、経験則としてまあこのくらいやっておけば大丈夫だろうと思う。
 ずるりと指を引き抜く。先ほどまで圧迫していたものを失った後ろの穴がわずかにひくついたのが分かったけれど、その感覚を一人で深追いする気もないので構わずにローションでべたついた指を洗い流す為にシャワーの蛇口を捻った。静かだった浴室に、ざああ、とシャワーの音が再び響いて先ほどまでの粘つくような音や空気も一緒に洗い流していく。
 迅とするときに毎回こうやって準備をしているわけじゃない。だけど今日は迅と会うのが少し久々になってしまって、つまりそういうことをするのも久しぶりなわけだ。そう思えば、いつもみたいになかなか挿れてもらえないのは御免だなと思ってしまった。だからこうして事前に準備なんてして、我ながらこれも結構甲斐甲斐しいというやつなのではと思ってなんだかおかしい。
 相手が迅だからだ。これもある意味特別扱い、なのかもしれない。迅だけがこんなに太刀川の気持ちを逸らせ、熱を灯させる。
「……こっちだって、待ちきれないって思ってんだよ」
 小さく零れ落ちたそんな呟きは、ざあざあと降りしきるシャワーの音の中で妙に耳の中に残る。いっそ迅に直接言ってやったらどんな顔するかな、と思えば、それだって早く見たくて仕方なくなってしまった。





(2022年5月4日初出)





close
横書き 縦書き