楽園
店を出た瞬間、予想以上に強く打ち付ける雨の音に思わずうわあと顔をしかめた。夕飯を食べている間にも窓の外で結構な雨が降り出したのは分かっていたが、しかし外に出てみればその雨足の強さをリアルなものとして目の前に突きつけられてしまう。天気予報でそういえば言ってたような、言ってなかったような。
未来視が万全に機能していた頃は、こんな風に突然の天気の変化に翻弄されることなんてほとんどなかったというのに。
さて、見事なまでのどしゃ降り。傘は持っていない。こんな雨の中飛び出していったらものの数秒もせずびしょ濡れになってしまうだろう。どうしたものか、と思っていると、支払いを終えて迅から少し遅れて店を出てきた太刀川が「おわ」と小さく声を上げる。
「すげーどしゃ降り」
「そうなんだよね。太刀川さん、念の為聞くけど傘は」
「持ってないな」
「だよねえ。じゃあ――」
どうしよっか、と聞こうとしたところで、隣に立った太刀川が言う。
「行くか」
「え?」
言うが早いか、太刀川が雨の中へ躊躇いもなく飛び出していくものだから迅は目を丸くしてしまった。そしてその一秒後に太刀川の行動に理解が追いついて、しかしそうこうしている間にも太刀川の背中はぐんぐん遠ざかっていくものだから、ああもうと心の中で言い捨てて迅も太刀川を追いかけて雨の中へと駆け出す。
途端、容赦なく降り注ぐ雨であっという間に全身がびしょ濡れになる。重くなった服や髪に構っている暇なんてなく、ぐんとスピードを上げて、水たまりの水をばしゃりと跳ね上げながら太刀川の隣に追いつく。と、迅が追いついたことに気付いた太刀川がまるでいたずらをする子どもみたいに楽しそうににんまりと笑った。それがあんまり嬉しそうだったから、こっちまでつい気持ちが高揚してしまいそうになって困ってしまった。
「――この雨の中飛び出していくって、ふつーありえないからね、太刀川さん!?」
ばしゃ、と足元で大きく水が跳ねる音がする。大きな水たまりを踏みつけて、靴もぐずぐずに濡れていくのを感じたけれどそんなこと構っていられなかった。
「どーせ家まですぐだろ?」
「すぐはすぐだけど、……あーもう、おれたちもう何歳だと思って」
雨に濡れた重さで落ちてきた前髪が邪魔で適当に撫でつけながら返すと、太刀川がくっと喉を鳴らして笑いながら「何歳でもかんけーないだろ」と返してくる。
「濡れても帰ったらすぐシャワー浴びればいいし。なあ、迅?」
そう言って、雨の中を駆けながら太刀川が迅を見る。
その格子の目の中には、わくわくと楽しそうな光を疼かせて。――こういうのも楽しいだろ、って、何歳になっても変わらない、迅に対してばかり発揮されるいたずらっ子のようなまなざしが、迅を見つめている。
ふは、と、大雨の中で思わず迅も笑ってしまった。
(~~あー、ほんっと)
トリオン供給機関の年齢に伴う緩やかな衰えと共に、未来視の能力も減衰し始めてしばらく。
かつてはごく自然なこととして未来視でわかっていたちょっとした未来の出来事も視えにくくなって、こうした迅にとってこれまでなかった『突発的な出来事』に出会うこともずっと増えた。まさにこんなふうに、予想外の突然の雨に降られる、とか、今までだったらほとんどありえなかったこと。
そんな日々を、少しずつ積み重ねている。これまで未来視があるのが自分にとって当たり前だったゆえに、それを不便だなと思うことも多少はある。だけど。
「わかったよ、しょうがない。じゃあ早く帰ろう? 太刀川さん、っ」
そう言いながら走るスピードを少し上げてやると、太刀川も負けじとスピードを上げてくる。まるで競争みたいな様相を呈してきて、しかしそう思えばなんだか負けたくないという思いが生まれてきてしまうのだから、この人に対する根っからの負けず嫌いには自分でも呆れてしまった。
だけど、それも含めて、笑えるほど楽しい。
未来視が減衰していくことが、本当は少しだけこわかった。近界諸国とも一旦の休戦協定を結び、まだ未来視が効いていた頃に最後に視た一番遠い未来視でも三門は平和だと告げてきていた。ボーダーだって昔よりもっと強い組織になった。
だから問題なんてない――と頭では分かっていても、きっとあの頃、未来への不安以上に自分自身が不安だったのだ。自分の一部だったものが手のひらからこぼれ落ちていくのは、足元がぐらりと揺れているような、なんとも言いがたい心地があの頃の胸の内にはあった。
けれど、もう大丈夫。
そう心から思えるのは、自分はもう知っているからだ。
半歩前に出た太刀川を、追い抜かしてやりたくてスピードを上げる。しかしそんな迅を予測していたのかほとんど同時に太刀川もスピードを上げるのだから、この人だって大概負けず嫌いだ。
そうこうしているうちに、ふたりで住んでいるマンションが道の向こうに見えてくる。ゴールはもうすぐ、帰ったら太刀川の言うとおりすぐ風呂場へ直行だろう。
太刀川のシャツが雨で張り付いて、背中のラインが布地の上からもわかるくらい浮き出ている。触りたいな、と、素直に思った。それもまた、部屋に着いてからのお楽しみだ。
楽しい、と、好きだ、を同時にくれる人。迅が未来視を持っていたって持っていなくたって、変わらず目の前のことを楽しむことを教えてくれる人。
どんな未来だって大丈夫だと信じられる。だってこの人が隣にいれば、いつだってどこだって、きっといつの日だって――おれにとっては。
診断メーカー様よりお題をお借りしました。
お題:『どしゃ降り』と『楽園』