Orange
いつだって立て付けの悪い美術室のドアが、迅が取っ手を引くのに合わせてガタンと大袈裟な音を立てた。いつものことなので気にせず少し力を込めてドアを横に引くと、夕焼けに変わり始めた太陽が差し込む見慣れた美術室の風景が目に入って、同時に染みついた油絵用の油のにおいがつんと鼻をつく。入部した頃は少しきつく感じたそのにおいも、今では不思議と心地よさすら感じるようになっていた。
授業の時は整然と並んでいる木製の大きな机を前方に引いて作ったスペースの、その真ん中。大きなキャンバスの奥にいた予想通りの人物が、迅が立てた音に気付いてこちらを振り向く。
たったひとり、美術室の真ん中、大きなキャンバスの前に立つオレンジ色の光に照らされたそのひとの姿が網膜にぱちりと焼きつく。
きれいだな、と、頭の中で言葉になるよりも早く思う。
太刀川がひとりで美術室にいる景色を見ると、まるでこの場所の全部がこの人のための空間みたいに思える時がある。そんなはずはないのに。だけど、太刀川がひとりで美術室にいるのを見るとき、それは迅にとってこの世界の真ん中になる。その他の物が背景になって、この人の姿が、なにより鮮やかにうつくしく描き出されるように感じた。
「迅」
こちらの姿を認めてすぐにそう呼んだ声が、どこか嬉しそうだということについ自惚れてしまいそうになる。しかしそれを表情には出さないように気を付けながら迅は口を開いた。
「おつかれ、太刀川さん。部活休みなのにやっぱりいた」
後ろ手に閉めたドアが、ガラガラ、の音の間にガタンとやっぱり軋んだ音を立てる。いい加減直して貰った方がいいんじゃない、と思わないでもないが、まあこういうドアは創立からの年数はやたら長いこの高校の中には他にも数え切れないほどあるからどうせ改善はしないだろう。
迅の言葉を受け取った太刀川が、分かってるぞと言わんばかりににまりと迅を見つめ返して笑う。
「おまえこそ」
「残念。おれは真面目にテスト勉強しに来たんだよ、
迅がそう返すと、太刀川は分かりやすくむっと残念そうな顔に変わった。ぼーっと分かりにくいような顔に見えて、実はこの人は結構表情豊かだ。――おれの前では特に、かもしれない。
「なんだ」
「なんだ、じゃないよ。何の為の部活休み期間だと思ってるんだか。別に絵の進捗悪いわけじゃないでしょ」
言いながら、適当な机を選んでカバンを置く。椅子を引いて座ってカバンから教科書とノートを取り出すと、本当に迅が今日は描きに来たわけじゃないのだと分かったらしい太刀川は唇を尖らせた。
「どうせ帰ってもテスト勉強なんてしないんだから、だったら描いてても同じだろ」
「そう言い切っちゃうのがいっそ潔いよね」
太刀川の言葉に迅はくっと笑ってしまう。そういう人だよなあ、と思って、太刀川という男のそういうところをつい面白く好ましく思ってしまうのだ。この美術部の顧問の教員であり、太刀川の遠縁の親戚でもある忍田が聞けば頭が痛いと言われてしまいそうだけれど。
迅がぱらぱらと数学の教科書を捲って試験範囲のページを探す。そんな迅の姿を見て、まだ少し不満げな表情をしていた太刀川も描く方に戻ることにしたらしい。再びキャンバスに向き合って、手に持っていた紙パレットに出した絵の具を大きめの筆で掬い上げる。
会話が途切れた二人きりの美術室は静かだ。普段であれば運動部の元気な声が校舎の四階にあるこの美術室まで届くのだけれど、中間テストの前の原則部活休み期間である今はそれもない。
太刀川がチューブから絵の具を出す音、迅がノートに数式を書くシャーペンの音、太刀川がたっぷり出した絵の具を筆につけてキャンバスの上へ滑らせる音、迅が教科書を捲る音、太刀川が塗った絵の具をペインティングナイフでがりがりと削る音――静かな世界の中、互いの立てる音だけが交互に迅の耳に届く。それをひどく心地良いと思った。
教科書を見るふりをしながら、でも今ならばれないかな、と思ってちらりと太刀川の方に目を向ける。
大きなキャンバスを前にして、全く怯むこともなく、まっすぐに立っている。迷いなんてなく絵の具を掬って、真っ白なキャンバスに気持ちよさそうに筆を滑らせる。
その姿を見るのが好きだった。
大きなキャンバスに大胆に、しかし繊細に描く太刀川の絵の美しさを知っている。しかしそれと同じくらい、それを描くときの太刀川をいつしか美しいと思うようになった。
迅が住む古き良き集合住宅である玉狛荘は住人同士の仲が良く、いつも賑やかだ。しかし造りが古く壁が薄いゆえ、玉狛では賑やかすぎるからと先ほど太刀川に言ったことも完全に嘘というわけではない。
だけど、正直迅はそこまで気にはしていないし、本当に静かなところが良いのであれば図書室なり空き教室なり、他にも選択肢はいくつもあったはずだ。
だというのに
ここに来れば、きっと今日も太刀川が居るから。
部活が休みだろうが、ハナから真面目にテスト勉強などする気などない太刀川は美術室に来て制作をしているだろう。それが分かっていたから、迅はここに来た。
普段、他の部員がいる時には、流石にこんなふうにじっと太刀川だけを見つめることはできない。だから、今日ならひとりじめできるかもなんて思ったのだ。
太刀川が描く姿を見ていると、そのあまりに気持ちよさそうに描く姿に、自分も描く人間として少しばかりの悔しさも感じることがある。しかしそれも全部含めて、太刀川を見ていることが好きだった。
この人の描く絵が好きで、この人の描く姿が好きで、悔しくて、追い越したくて、だけど全部含めて、この人を見つめる時間が好きだった。
太刀川が、ふと何かに気付いたように顔を動かす。今さっきまでキャンバスに向けられていたその深い色をした瞳が迅をまっすぐにとらえて、どきりと変に心臓が跳ねた。そんな迅の動揺には気付いていないように、太刀川が悪戯っぽく目を細めて「手、止まってるぞ」と迅をからかうように言った。
「やっぱりおまえも描きたいんじゃないか?」
と続けて、太刀川がなっはっはと得意気に笑う。
違うよ、と言おうとしたのをやっぱり飲み込む。その代わりにと別の言葉を口にする。
「……やっぱりおれもこれ終わったらちょっと描こうかなあ」
この人の描く姿を見て、描きたいと思った気持ちだって嘘じゃない。もっと大きな本音が、別にあっただけだ。迅の言葉を受け取った太刀川が、そうこなくっちゃと言わんばかりの顔をする。
「言ったな。これ終わったらっていつだよ、すぐ終わらせろって」
「無茶言うなあ。あと二ページだからちょっと待ってて」
そんな風にわくわくと楽しそうな顔をされては、期待に応えたくなってしまう。先生に見張られているわけでもなし、本当であればテスト勉強なんて放り出してしまってもよかったのだけれど、それだとなんだか自分が待ちきれなくなってしまったみたいで少し癪だと思ってしまった。
しかしまあ、言ったからには。期待されちゃったからには、ね。
そう心の中で口にして、迅は教科書の上で踊る数式をすぐに片付けるべくシャーペンを握り直す。芯を出すカチ、という音が二人きりの美術室に、迅を急かすみたいに響いた。