I'm (always) yours
第二ボタンは、心臓に一番近い位置にあるから一番大切な人にあげるのだという。
曰く「心をあげる」という意味になるのだと、そんな話をいつか聞いたことを、なぜだかうっすらと覚えていたのだ。
二年の教室を念の為覗いてはみたが三年の教室とは違いもう人もまばらで、やはりあいつはいなかった。きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていると、こんなときあいつみたいに未来視があれば楽に分かるかもしれなかったのになと珍しく未来視をほんの少しだけ羨ましく思った。だってあいつもあの頃は、自分がランク戦をしたい時は先回りして俺を待っていた時だってあったのだから。ここ最近は多分、その逆のことのほうが多かったと思うのだけれど。
別に今日絶対に会わないと気が済まないわけじゃない。どうせそのうち本部でも会うだろうし、この用事だってどうしてもそうしなきゃ嫌だなんてほどのことじゃない。
ただ、思ってしまったから。そうしたくなってしまったんだ。できるなら今日のうちに、今日だから、それをあいつに手渡すことに意味がある気がしたから。
そもそももうとっくに帰ってしまっているかもしれない。なにしろ三年生、つまり今日の主役である卒業生にとっては最後となる登校、ホームルームもその後もまあそこそこに長くなった。
会えないなら会えないで仕方がない、けれど――
そう思いながら階段を降りていたところ、窓の外に探していた姿を見つけて太刀川は思わず大きな声を上げた。
「迅!」
その声を受けて、太刀川と同じ学ラン姿の迅が振り向く。相変わらず涼やかな色をした青い目が太刀川を見上げて、視線が絡んで、それだけのことで太刀川の気持ちはほんのわずかふっと上向いた。
「ちょっと、そこで待ってろ」
それだけ言って、太刀川は先程よりずっと早い速度で階段を降りていく。大股で廊下を歩いていって、上履きから靴を履き替えて昇降口を出た。正門の方を見れば、その近く、先程見つけた場所から素直に動かず迅が太刀川を待っている。
「太刀川さん」
「よかった、まだいたな」
言いながら近づいていくと、こちらを見ていた迅が苦笑した。
「見事に無いね。ボタン」
「あー」
言われて、自分の学ランを改めて見やる。今朝まではきれいに揃っていた学ランのボタンは、見事に上から下まで無くなっていた。せがまれたので、みんなあげてしまったのだ。
「ほとんど野郎だぞ。ボーダーの後輩。太刀川さんみたいに強くなりたいからって、お守りみたいなやつ」
「モテモテだねえ」
迅が揶揄うように言うので、「嫉妬するなよ」と言えば迅は「してないよ」とすかした顔で肩をすくめる。
「本当か? まあどっちにしろ、」
言いながら太刀川はポケットの中に手を突っ込んで、小さなその感触を確かめる。そしてそれを取り出して、迅の目の前に見せてやった。
「やる。貴重な俺の第二ボタンだぞ」
そう言ってにまりと笑ってみせれば、迅はそれを見つめながらぱちりとゆっくり瞬きをした。しかし思ったよりは驚いていないようだったので、太刀川は迅に聞く。
「視えてたか?」
「……可能性としては、ね」
迅がそう言うので、なんだ、と太刀川は思って言う。
「ならもっと分かりやすいところで待っててくれれば良かったのに」
「それもなんか自意識過剰みたいで恥ずかしくない?」
「まあ、どっちにしろ会えてよかったわ。こういうのって別の日に渡すのもなんか違う気がするだろ?」
言ってから、もう一度迅に向けてほら、とその小さなボタンを突き出すように渡す。迅はらしくない遠慮がちな仕草でそれを受け取った後、すうと息を吸って口を開いた。
「太刀川さんさ」
「なんだ?」
「なんでおれだったの? そんなモテモテならさ、太刀川さんの第二ボタン欲しい人だったら他にもいたんじゃないの」
「ああ」
迅の言葉に、少しだけ考える。自分の内側に言葉を探した。確かにボタンを欲しがってくれる後輩は何人もいたから、第二ボタンを渡したら喜んでくれただろう。実際せがまれもした。
だけど。
「……おまえさ、第二ボタンが何で特別みたいになってるか知ってるか?」
「え?」
迅が不思議そうな表情になる。ここまでは視えていなかったのだろうか。まあそれはどっちだって構わなかった。
とん、と、元々第二ボタンがついていた場所のあたりを指先で軽く叩く。胸元――それは、いちばん心臓に近い場所。
「心臓に一番近いから」
迅を正面から見つめて、そう口にする。そういえば迅を、こんなふうに正面から見つめるのは、ひどく久しぶりのことだと気付く。
久しぶりだというのに、それが驚くほどにしっくりと体に馴染むような心地になった。
「だから一番大事な人に渡すんだと。心を渡す? みたいな、……でも俺はどっちかというとさ」
迅は、太刀川の言葉をじっと聞いている。太刀川はそんな迅を見つめながら、言葉の続きを口にした。
「第二ボタンが心臓を表してるなら、おまえ以外に渡すのは余計にしっくりこないと思ったんだよ。だって、俺を一番上手く殺すのはおまえだろ?」
だからだよ。そう言いかけたところで、迅が慌てたように「太刀川さん、ここ学校」と潜めた声で言うので「あ、そうか」とハッとする。つい本部にいるときと同じような言葉で話してしまったが、確かにボーダー以外の人間がこの言葉を聞けばぎょっとしてしまうだろう。幸いもう卒業式が終わってそこそこ時間が経っているためか、周囲に人はまばらだった。
「……まあ、つまりそういうことだよ」
締めがうまく決まらなかったが、改めてそう迅に言う。迅は少しの間黙っていて、しかしよく見ればその耳が、ほんのわずか先ほどよりも赤くなっているように見えた。
迅が、第二ボタンを持っている方の拳をきゅっと握る。そうした後、迅は少しだけ迷うように視線を泳がせた後、再び太刀川を見つめて口を開く。
太刀川を見るその透明な青色を、きれいだなと素直に思った。
そういえば出会った時にもそう思ったような気がする。そんな懐かしいことをふと思い出した。
「太刀川さん」
「うん」
「……こないだ、小南に順位抜かされたよね」
「……、あー」
「一年くらい前は普通に風間さんに連敗したりしてたって」
「……あの頃はすげー調子悪かったんだよ」
どちらも本当のことだ。
これまで習いごとの都合とかでほとんどランク戦に参加していなかった小南が最近ランク戦に参加するようになって、あっという間に順位を上げて、先日はついに太刀川を抜いてアタッカーランク一位になったと聞いた。
一年くらい前には風間に連敗した時期もあった。勿論風間はそもそもが強いので普段だって勝ちばかりではないのだが、それにしたってあの時期は調子が悪かったとしか言いようのないほどの負け方をしていたのだ。
一年くらい前――迅がランク戦を離れてからのことだ。
隊でのランク戦が始まってからは戦闘の調子自体はそれなりに取り戻した。だが、個人ランク戦には未だあの頃ほどには通いつめていない。小南に順位を抜かされたのもそういうことだ。何度か戦いはして勝ったり負けたりもしていたが、本気で競い合っての順位の交代というよりは、太刀川がぼやぼやしている間に小南があっという間に追い抜かしていったという形である。
――迅がいないから。
個人ランク戦は今も好きだ。だけど、迅がいないと思ってしまえば、どうしたって物足りない。迅と戦り合うのが楽しくて、俺はもうあの時間を知ってしまったから、それ以上に楽しいことなんてないって知ってしまったから。
小南に順位を抜かされたときは太刀川の周囲はなかなかにざわついていたのは把握しているが、しかし自分にとって、迅がいないなら一位かどうかなんて正直どうだってよかったのだ。
迅が、ボタンを握った手をポケットに入れる。
「……おれに
迅が、太刀川をじっと見つめている。
ああそうだ。
俺はあの日からもずっと、この目にこうして見つめられたかったんだって、今になって知る。
「これから先、おれ以外に負けないでよ」
迅の言葉に、太刀川は目を瞬かせた。
しかし迅は、その言葉を撤回する気はないようだった。ただ静かに、太刀川を見つめて返事の言葉を待っている。
太刀川が大好きだった、生意気な色をした炎の欠片みたいなものをいま、迅の瞳の奥にみた気がした。
(……おれ以外に負けないで、か)
これから先、迅と戦うことがあるかは分からない。それがあったらいい、とは思うが、俺には未来視なんてないから先のことなんて分からない。
だけど。
「了解」
そう返事をすると、迅の瞳がちいさく揺れた。
「まあおまえにも負ける気はないけどな」
ああそうだこれも言っておかなきゃと付け加えれば、迅が喉を鳴らして笑う。
「太刀川さんらしいなあ」
ふう、と、迅が息を吐く。そうしてもう一度太刀川を見た迅の表情は、ここ最近で見た中で、一番やわらかい表情をしている気がした。
「……貰っとくね。ボタン」
「おう。貰ってくれ」
太刀川が頷くと、迅はその青い目をふわりとひからせて、太刀川にだけ分かるような表情で笑った。
◇
「太刀川さん」
防衛任務に向かう途中、廊下の向こうにいた迅に呼び止められる。いつもの青い隊服姿の迅が太刀川に近づいてきたかと思えば、ずいと手をこちらに向けて「あげる」と言った。
「? ああ。ありがとう?」
なんだ、と思いながら条件反射のように手を出せば、その中にころんと落ちてきたのは小さな学生服用らしいボタンだ。何の変哲もない、だけど見覚えのある形をしたボタン。
「おれの第二ボタン。実力派エリートもモテモテなもんだから、結構貴重だよ?」
にっと悪戯っぽく笑ってそう言って、太刀川の返事を待たず迅は「じゃ」とくるりと踵を返す。
ああ、そういえば今日は。
「迅!」
さっさと去っていきそうな背中に声をかける。そう言う自分の声に、一年前のデジャヴだなと少しだけ思った。
「卒業おめでとう」
太刀川の言葉に迅はこちらを振り返って、目を細めて笑ってから、「ありがと」と言ってひらりと手を振ってみせたのだった。